007おしゃべり箱 コメント御礼(13)

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    「007おしゃべり箱」は映画00シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

     

    007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

     

    コメント御礼(13)

     

    by 紅 真吾

     

    カルマン・フィッシュ殿

      拙著にコメント頂き、ありがとうございます。 

    カルマン・フィッシュさんからは、『原作紹介/薔薇と拳銃』についてコメントを頂戴しました。それも、短編の1編ごとにです。

    ありがとうございます。

     

      実は、今回の短編集はあまりにも気乗りしませんで、2週間ほど手つかずでした。

      これはイカン、と気を取り直しての心機一転、最も気乗りしない作品から取り掛かりました。

      テキの最強部隊を最初に撃破してしまえば、その後の戦闘は容易になるだろう、といった目論見です。

      で、最初に選んだのは「ナッソーの夜」。 このお話しはある1組の若夫婦の破局を綴ったものでして、ジェームス・ボンドのお話しではありません。

      拙著ではかなりのダイジェスト版としましたが、かえってそれが、提督の語る“慰謝の量の法則”の部分を際立たせた様に思います。

      既婚者としては、チョッと身に応える部分でありました。

      ラストで提督が言った「今夜は2人とも楽しそうだったと思うよ」のセリフの前後は、勝手に文章を作って加えちゃいました。

      この箇所は、もうちょっとインパクトが欲しいなぁ、と思ったので。

     

      2番目にとりかかったのは、「読後焼却すべし」です。

      1番まともに感じる1編をやっつけて勢いを付けよう、です。

      ストーリーの紹介と言いつつも、Мが苦悩する様は省略してはイカン、と思いました。

      ボンドもМの前では威勢のイイ事を言ってましたが、やはり割り切れない任務だと感じています。 このアタリを省略する事なく盛り込みましたので、ダイジェスト版とはいえお話しに厚みを感じて頂けたのでは、と思っています。

     

      3番目に選んだのは、“乗り気のしない”ワースト2の「薔薇と拳銃」です。

      冒頭、ボンドが(と言うよりフレミング氏が)当時のパリの印象を、あれこれと綴っております。 観光紹介的な内容でも無く、ストーリーとは関係無い箇所でしたので、まるまる省略しました。

      とは言っても、こンなトコロも“フレミング・カラー”の1つですので、原作小説をお読みになる際は、気にしてみて下さい。

      ボンドが敵の秘密基地を発見した後は、意識的にテンポを上げました。

      だもんで、ラストでメアリー嬢が登場するシーンがヤマ場となって際立ったのではないか、と思っています。

     

      4番目に選んだのが「危険」。

      実は原作では、クリスタトスの「こういう話しはたいへん危険が多くてね」のセリフから始まるンです。 拙著ではダイジェスト版である事を踏まえて、お話しの流れ通りに段落を組み替えちゃいました。 

      また、ボンドがタクシーでリスル嬢を送っていった次の段落では、ボンドがローマからベニスに移動する列車の事や、ベニスの街を散策する様子などが約2ページに渡って綴られておりましたが、まるまる省略しました。 お話しのテンポがダレてしまう様に感じたので。

      原作をお読みになる際は、この点ご留意くださいませ。

     

      最後に臨んだのが、「どーでもイイだろ、こんな話し」と思っていた「珍魚ヒルデブランド」です。

      どうといったお話しでは無いのでテキトーに済ませてしまおう、と思っていました。

      しかし、費やした文字数は5編のなかで1番多くなってしまいました。

      やはりここは、ミルトン・クレストがなんて嫌らしい奴か、をその挙動言動を通して読者に伝えなくては、お話しが盛り上がりません。

      メンドクサイなーと思いつつ書き込みましたので、当然のごとく長くなってしまったのでありました。

      そう、ホントにクレストってイヤなヤツなんです。

      この点、カルマン・フィッシュさんより、「ボンドの癇癪玉の破裂より、自分の血圧の上昇の方が気になった」と、非常に嬉しい感想を寄せて頂きました。

      あー、ガンバッて良かったァ。

      それにしてもこのお話しのラストは、チョッと歯切れが悪かったです。

      翻訳の井上一夫氏も手を焼いた様子が感じられます。

      だもんで拙著では、お話しの流れとフレミング氏の意向を汲んでまるめ直しちゃいました。

      原作をお読みになる際はご留意ください。

     

      とにかく、この『原作紹介/〜』は重労働です。 毎回書き上げるごとに、「もーイヤ。 ヤめたい・・・」と思ってしまいます。

      そんな中、カルマン・フィッシュさんから、「メンドクサイなー」と思いながら書き込んだ箇所を楽しんで頂けた様子をコメント頂くと、欣喜雀躍としてしまいます。

      ありがとうございます。

     

      ところで、「ナッソーの夜」でローダがカナダの億万長者と出会ったホテルの名前を憶えていらっやいますか。

      そう、ジャマイカに移ったバーフォード総督夫人が受付嬢の紹介をしてくれた、ブルー・ヒルズ・ホテルです。

      でもって別のお話しの中で、ブルー・ハーバー・ホテルってのが出てきます。 それは、「読後焼却すべし」の冒頭部分。

      ジャマイカで荘園を構えるハヴロック大佐が、新聞を置いて語るセリフの中です。 「〜化け物屋敷みたいなブルー・ハーバー・ホテルも、ひょっこり誰かがやって来て買っちまったそうだし、〜」でした。

      もちろん“ヒルズ”と“ハーバー”と違いますから、「だから何だ」と言われると窮してしまいます。 が、この様なチョッとトリビア風の箇所も見逃さずに汲み上げねば、と意識しながら熟読して書いてますので、ホント疲れるのですわ。

     

      次回の『原作紹介/サンダーボール作戦』は、5月末の発表を予定しています。 ご期待下さい。

      カルマン・フィッシュ殿のご健勝とますますのご活躍をお祈り申し上げます。

      加えて、今後とも拙著『007おしゃべり箱』に変わらぬご贔屓を賜ります様、お願い申し上げます。

     

       序文および『薔薇と拳銃/前編』         『薔薇と拳銃/後編』

       『読後焼却すべし/前編』          『読後焼却すべし/後編』 

       『危険/前編』                         『危険/後編』

       『珍魚ヒルデブランド/前編』      『珍魚ヒルデブランド/後編』 

       『ナッソーの夜』および礼文

        【 解説編 】   

     

     

     

    『007おしゃべり箱』 will return

     

     

    『掲載一覧〔1st〕 『掲載一覧〔2nd〕 『掲載一覧〔3rd〕 『掲載一覧〔4th〕

    があります。ぜひご覧ください。

     

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    007おしゃべり箱 Vol.52A−1 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「薔薇と拳銃」ストーリー編/前編』

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      「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

       

       

      007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

       

      Vol.52A

       

      『原作紹介/薔薇と拳銃』

       

      Ian Fleming’s FOR YOUR EYES ONLY

       

      by 紅 真吾

       

       原作の短編小説である『薔と拳銃』(1960年)の紹介です。

       収録作品は

      『薔薇と拳銃』 From a View To a Kill

      『読後焼却すべし』 For Your Eyes Only

      『危険』 Risico

      『珍魚ヒルデブランド』 The Hildebrand Rarity

      『ナッソーの夜』 Quantum of Solace

       の5作です。

       特別編(3)『原作リスト』で記した通り、「読んでいない人も、読んだ気になれる」、「読んだのははるか昔で内容を忘れてしまった人も、記憶が甦る」、を目指して、あらすじを詳しく踏み込んでいきます。

       今回は、

         序文および『薔薇と拳銃/前編』         『薔薇と拳銃/後編』

         『読後焼却すべし/前編』          『読後焼却すべし/後編』 

         『危険/前編』                         『危険/後編』

         『珍魚ヒルデブランド/前編』      『珍魚ヒルデブランド/後編』 

         『ナッソーの夜』および礼文

          【 解説編 】    

       といった構成でお届け致します。

       

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      「薔薇と拳銃/前編」

       

      From a View to a Kill First Part

       

        5月の朝の7時過ぎ、ベルサイユとサン・ジェルマンを結ぶD98道路を、英国通信隊の伝書吏のオートバイが走っていた。

        オリーブ色のBSAM20で、正規のイギリス陸軍のオートバイとそっくりだったが、燃料タンクの上にルーガー拳銃がクリップで取り付けられていた。

        半マイルばかり先にはこの伝書吏とそっくり同じ姿の、もう1人のオートバイ伝書吏が走っていた。 前を走る伝書吏は年も若く小柄で、のんびりとオートバイに跨って時速40マイルぐらいで朝の空気を楽しんでいた。

        2台の間隔が100ヤード程に縮まると、後ろの伝書吏は速度を落とした。 そして右の手袋を口に咥えて外すと、タンクの上の拳銃を手にした。

        その頃には前の伝書吏も、バックミラーに写った後ろのオートバイに気が付いていた。 朝のこんな時間に他の伝書吏が走っているのにびっくりする。 しかも、自分と同じ英国通信隊の制服だ。

        いったい誰だろう?

        アルバートか? シュミットか? いや、あのがっしりした体格はウォーリーだろう。

        右手の親指を上げて合図を送ると、速度を30に落として追いついて来るのを待った。

        後ろの男は、さらに速度を落とした。

        風によるゆがみが無くなった男の顔は、ごつくて凄みのあるスラヴ系らしい顔立ちになった。

        2台の距離が20ヤード程に縮まった時、後ろの伝書吏は両手をハンドルから離してルーガーを慎重に構えると、1発撃った。

        若い男の両手がハンドルから離れて後ろにのけぞる。 オートバイは道路を斜めに横切って、崖下の雑草の茂みに突っ込んでいった。

        殺し屋は小さくUターンすると、道端にオートバイを停めた。 スタンドを立てると茂みの中に分け入っていく。

        死んだ男の傍に跪くと、黒革の伝書カバンを死体から引きはがした。 次に、上着を開いて財布を抜き取る。 腕時計もむしり取った。

        殺し屋は立ち上がると、伝書カバンを肩に掛けた。 財布と腕時計をポケットに突っ込みながら、じっと耳をすました。

        森の音とオートバイのエンジンが冷えていくカタカタいう音だけ。

        男はゆっくりと歩き回って、オートバイが突っ込んだ跡を隠して回った。

        悪くない。 警察犬でも使わなければ見つかるまい。 10マイルの道を調べるには、何日もかかるだろう。 それだけの時間があれば十分だ。

        男はオートバイに跨ると、タイヤの跡を残さない様に、ゆっくりと走り出した。

       

        ボンドはパリに来た時は、いつも北駅のステーションホテルに泊まる事にしていた。

        ボンドは駅のホテルが好きだったし、ここは見栄を張らない地味な佇まいが気に入っていたのだった。

        夕食はヴェフールとかルーカス・カントンとか、コション・ドールといった大きなレストランへ行くのが常だった。 こういった店はミシュランのガイドブックに載っている様な店と違って、米ドルをあてにしていない様に感じていたし、何より、ボンドはそっちの料理が好みに合っていた。

        今、ボンドは任務に失敗してパリ経由でロンドンへ帰る途中だった。

        今回の任務は、あるハンガリー人の救出だった。 ボンドは作戦の指揮を執る為にオーストリアに入ったのだが、ウィーン支局の連中はそれが面白く無かった様だ。

        いろいろと意地の悪い誤解みたいなのがあって、肝心の男は国境の地雷原で死んでしまった。

        帰ったら、当然査問と云う事になるだろう。

        ボンドは明日の本部での報告を思うと、すっかり意気消沈してしまっていた。

        その日の夕方、ボンドは今日初めての酒を飲もうと、フーケのカフェテラスに腰を下した。 やってきたウェイターにアメリカーノを注文する。

        ボンドはイスに座り直して通りを眺めた。

        綺麗なパリジェンヌを見つけて食事に出かける事が出来たらいい気晴らしになるなあ、などと考える。 “花のパリ”のロマンスの始まりだ。 夜がふけてからは“パリの楽しみ”だ。 しかし、そんな都合の良い話しなどある訳が無い。 ボンドはそんな自分の妄想に呆れてしまった。

        ボンドはウェイターが置いていった盆からグラスを取ると、氷を入れて炭酸をたっぷりと注ぐ。 大きくひと口飲むと、ローランの黄色葉のタバコに火を点けた。

        その時、通りを走っていた傷だらけの黒いプジョー403が道の端に寄るのが目に入った。

        辺りをはばかる事無く、二重駐車をして停ってしまう。 当然の様に、急停車のブレーキの音と共にクラクションや怒鳴り声が通りに響き渡たった。

        プジョーから降り立ったのは、背の高い金髪の娘だった。 娘は周りの騒動などおかまいなしに、つかつかと歩道をカフェテラスに向かって歩いて来る。

        ボンドは思わずグラスを置いて、娘を見つめてしまった。

        さっきまで妄想していた可愛い恋人が、そのまま現れたのだ。 陽気で大胆奔放な背の高い美人。 ただ、イライラした様に口元をへの字にゆがめて、辺りをキョロキョロしている。

        ボンドはその娘がカフェテラスのテーブルの間を歩いてくるのを、しげしげと見つめた。

        この娘はきっと恋人との待ち合わせで来たのだろう。 デートに遅れたので、あんなに慌てているに違いない。

        ボンドがそう思った瞬間、粋なベレー帽の下の目が、真っ直ぐにボンドを見つめた。 しかも、にっこりとほほ笑んだのだ。

        娘は驚くボンドを見つめながら、ボンドのテーブルまで歩いて来た。 そしてイスを引いて腰を下す。 娘はボンドが驚きから立ち直る間も無く、神妙な笑顔を見せた。

      「ごめんなさい、遅くなって。 でも、直ぐに出掛けなきゃならないのよ。 事務所であなたを呼んでるわ」 周りの客に聞こえよがしに、そう言った。 そして身をかがめると「急潜水」と呟いた。

        ボンドはいきなり現実に引き戻された。 この娘が誰だか知らないが、情報部の人間に間違い無い。 “急潜水”とは情報部の俗語で、悪い知らせを意味しているのだ。

        ボンドは立ち上がると、小銭を伝票の上に置いた。 「よし、行こう」 そう言って彼女のクルマに向かった。

        クルマは駐車線の外側で他のクルマの通行を邪魔していた。 後ろにつかえたクルマからは、凄い剣幕の顔が2つボンド達を睨んでいる。

        娘はギアを入れると、通りを走り出した。

        ボンドは横目で娘を眺めた。 ビロードの様な白い肌をしている。 金髪は絹糸の様だ。

      「どこから来たんだい? 何が起きたんだね?」

      「支局からですわ。 勤務中は765号、非番の時はメアリー・アン・ラッセルです。 何があったかは知りません。 ただMから支局の主任宛てに、直ぐにあなたを探し出せ、と緊急電報が入ったんです。 主任は、あなたがパリに来た時の行先は決まっている、と言って、私ともう1人の女の子にリストを渡したんです。 

        最初はハリーのバーに行って、フーケは2番目でした。 こんなに上手い具合に見つけ出せるなんて、思っていませんでしたわ」

      「そいつは運が良かったね。 だけど、もし私に女の連れが居たらどうするつもりだった?」

        娘は笑った。

      「同じ事でしょうね。 ただ、もっと丁寧な言葉遣いをしたと思います。 心配なのは、あなたがどうやってその女を追っ払うか、です。 もし女が騒ぐ様であれば、私が女を家まで送って行って、あなたにはタクシーを呼びます」

      「なかなか気が利くね。 君は情報部に入って長いの?」

      「5年になります。 支局勤めは初めてです」

      「仕事は気に入ってるかい?」

      「ええ。 でも非番の日などがちょっと退屈ですけど。 他には、地下鉄やバスに乗るのが嫌になりましたわ。 いつ乗ってもお尻に痣を付けられてしまうんです。 だからこのボロのクルマを安く買って乗り回してるんです。 このクルマだと、他のクルマが避けてくれるんですよ」

        メアリーはそう言うや否や、乱暴なカーブを切ってコンコルド広場から出て来るクルマの列の中に割り込んだ。 まるで奇蹟だった。 さっとクルマが分かれてマティニョン街まで道が開けてしまった。

      「おみごと」 ボンドは言った。 「しかし、フランス娘にもご同様の気の強いメアリー・アンが居るかもしれないぜ。 気を付けた方がいいよ」

        メアリーは笑った。 

        彼女の運転するクルマはガブリエル通りに入って、秘密情報部のパリ支局の前に停まった。

      「この手を使うのは仕事の時だけですわ」

        ボンドはクルマを下りると、ぐるっと回って運転席の外に立った。

      「どうもありがとう。 今度の仕事が片付いたらお礼がしたいな。 晩飯を一緒にどうだい? こっちも退屈はご同様なんでね」

      「うれしいですわ」 彼女の青い瞳がボンドを見つめた。 「交換台に言えば私の居る場所は直ぐに分かりますから」

        ボンドはハンドルに掛けたメアリーの手に触れて、「それじゃ」 と言うと、足早に建物の中に入っていった。

       

        F支局の主任は、元空軍中佐のラットレーと云う男だった。 金髪を後ろにかき上げて、小太りな体を身だしなみの良いスーツに包んでいる。

        部屋にはゴロワースのタバコの匂いがこもっていた。

        ボンドを見ると、ほっとした様に「誰がみつけた?」と言った。

      「メアリー・アン・ラッセルだ。 フーケでね。 あの子はまだ新しい様だね」

      「ここに来て半年になるな。 いい子だよ。 とにかく腰かけてくれ。 厭な仕事が舞い込んで来た。 これから説明するよ」

        ラットレーはそう言うと、インターホンのスイッチを入れた。 「Мに電報だ。 007を見つけて打ち合わせ中、いいな」

        ボンドはイスを引っぱってゴロワースの煙から逃げる様に窓際に腰を下した。 シャンゼリゼの喧騒が風に乗って聞こえてくる。

        ほんの30分前には、ボンドはパリに飽きていたのが、今ではパリに長居したくなってきていた。

        ラットレーがデスクの向こうから語り始めた。

      「昨日の朝、NATO司令部からサン・ジェルマンにある英軍基地へ向かった伝書吏が殺された。 極秘情報が入った伝書カバンと財布と腕時計が奪われてる」

      「財布と時計は、ありきたりの強盗と見せかけるためだと考えられるんだね?」

      「総司令部の保安部では、強盗ではあるまい、と踏んでいるがね。 とにかくМは、君を自分の代理として総司令部に乗り込ませろ、と言って来たんだよ。

        実は何年も前から総司令部の情報関係の連中は、こっちが別の基地を持ってるのをやっかんでいてね、サン・ジェルマンの英軍本部を総司令部の情報組織に組み入れようとしてきているんだ。 Мが心配しているのは、奪われた機密書類もさる事ながら、今度の事件によって、総司令部に首根っこを押さえつけられてしまう事なんだよ。 Мが頑固なのは解っているだろ?」

        ボンドは思わず苦笑いを浮かべた。

      「とにかく」 とラットレーはデスクの上に両手をついた。 「書類は全て揃えてあるよ。 君は総司令部の保安部長のシュライバー大佐へ会いに行く事になっている。 アメリカ人で切れ者だよ。 私の見たところ、打つべき手は既に充分打ってるね」

      「それじゃМは私に何をしろって言うんだろう? 保安部に、もっとよく調べろ、とねじ込むのか? この仕事はお門違いだよ。 私なんかが出る幕じゃ無い」

        ラットレーは同情する様に苦笑した。

      「そんな事は既にМに話したよ。 だけど親父さんの気持ちも解ってあげろよ。 それに、連中に対して、こっちも真剣なんだぞ、といった姿勢を見せつけてやらねばね。 たまたま君がパリに居合わせたから、君に白羽の矢が立っただけさ。 それに親父さんは、君だったら表面では見えない何かを掴めるかもしれん、と言っていたよ」

      「それは、どういう意味なのかな?」

      「私もそれを聞き返したんだ。 そしたら、どんなに警戒厳重な司令部でも、透明人間みたいなのが居るもんだ、と言うんだ。 掃除夫とか郵便配達とか、つまり誰もがそこに居るのが当たり前だと思って、別に気に留めない人間が居るはずだ、と言うんだよ」

        ボンドは思わず考え込んでしまった。 ラットレーが語ってくれた事で、あらましは解かった。 が、9 階の例のオフィスでМから容赦ない視線をあびて命ぜられたのでは無いので、つい戸惑ってしまう。

      「とにかく、Мの命令じゃしょうがないな。 どこまで出来るか解らないが当たってみるしかなさそうだね。 で、報告はどこにすればいいんだい?」

      「ここだよ、私にしてくれ。 Мはこの件で、サン・ジェルマン基地を巻き込みたく無いんだ。 君の報告はそのままロンドンへ送るよ。 私が留守の時にも連絡が付く様に、誰かを君の係りにしとかなくてはならないな。 ラッセルでいいかい? 君を探し出したのは彼女だしね」

      「いいとも。 それでいいよ」

       

        ラットレー主任が話しを通してくれて、ボンドはメアリー・アン・ラッセルのクルマを借りて、総司令部へと向かった。

        基地のゲートの前には、交通巡査が立っていた。

        ボンドはゲートでクルマを停めると、グレイの制服を着たアメリカ人の警官にパスを見せた。

        ゲートではフランス人の憲兵がパスを受け取る。 彼は手元のボードに何やら書き込むと、大きな番号が付いたプラスチック板をダッシュボードの上に置いた。 そして手を振って駐車場を指し示した。

        ボンドはクルマを停めると、NATO諸国の旗が並ぶ玄関に向かった。

        ドアを入ると、アメリカ人とフランス人の憲兵が、パスの提示を求めてきた。 1人がノートに要点を書き入れると、ボンドはイギリス人の憲兵に引き渡された。

        憲兵の案内で正面の廊下を歩いていく。 左右には事務室のドアが果てしなく続いていた。

        憲兵は司令部保安部長G・A・シュラーバー大佐と書かれたドアを開けた。

        シュライバー大佐は銀行の支配人の様な慇懃無礼なアメリカ人だった。

        慎重な愛想のいい挨拶を交わすと、ボンドは保安部のお世辞を口にした。

      「これほど二重三重に検問していたら、敵が忍び込むのも容易じゃ無いですね」

      「ここの警備状況については、私は満足しています。 厄介なのは外に出ている機関でしてね」 ここでシュライバー大佐はボンドを軽く一睨みした。 暗にサン・ジェルマンの英軍基地の事だぞ、と言っているのだろう。 「それに、それぞれ本国との連絡がありますから、何か機密が漏れてもどこから漏れたのか見当が付きません」

      「難儀なお仕事ですね」 ボンドは相槌を打った。 「ところで、今度の事件ですが、何か新しい事が判りましたか?」

      「弾丸が出ました。 ルーガーでした。 多分30ヤードぐらいの距離から撃ったんでしょう。 向こうもクルマかオートバイで近づいてきたんでしょうな」

      「そうなると、バックミラーで相手が見えていた事になりますね」

      「たぶんね」

      「伝書吏は、何者かに追跡された際にはどういう指示を受けていたんですか?」

        大佐は口元をほころばせた

      「もちろん、すっ飛ばして逃げろ、ですよ」

      「それで、状況から推定されたオートバイの速度は?」

      「あまりスピードは出していなかった様ですな。 20キロから30キロ程度の様です」

      「バックミラーで犯人を見ていながら逃げなかったとは、敵では無く味方だと認めたからでしょうね。 犯人は不審を抱かせない様な変装をしていたのかもしれません」

        シュライバー大佐の額にしわが寄った。

      「ねえボンドさん、我々だってあらゆる方向からこの事件を検討しているんですよ。 あなたのご意見も既に出ています。 保安部の対策委員会では、あらゆる手掛かりが組織的に調査されているのです。 それに、言っておきますが・・・」

        大佐は片手を上げると、言葉に力をこめる様にデスクに置いた。

      「これまでに出ていないような意見を出せるのは、アインシュタイン級の頭脳の持ち主でしょうな。 この事件については、これ以上議論をする余地は無いんです」

        そうだろう。 そんな事はここに来る前から、充分に解っていたのだった。

        ボンドは、ごもっとも、と云う様に頷くと、笑顔を見せて立ち上がった。

      「それでは大佐、もうあなたの貴重な時間を頂く事は無い様ですね。 出来たら、その会議の記録を見せて下さい。 それと、よろしければ酒保と私の宿舎を教えていただければ」

      「どうぞどうぞ」 大佐は呼び鈴を押して副官を呼んだ。 「彼が案内します。 それと、書類は揃えておきましょう。 食事の後で、私の部屋で見て下さい」

        大佐は手を差しのべた。

        ボンドは挨拶すると、副官について部屋を出た。

        歩きながらボンドは、こんな厄介な任務は初めてだ、と思った。

        14ヶ国の一流の保安関係者が集まっても、どうにもならないのだ。 いったい自分に何が出来ると云うのだろうか?

        その晩、外来者用宿舎のベッドに横になったボンドは、半ば諦めていた。

        2日ばかり粘ったら、あっさりと降参してしまおう。 そう思いながら眠りについた。

       

      *****

       

        引き続き 「薔薇と拳銃/後編」 へどうぞ。

       

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      007おしゃべり箱 Vol.52A−2 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「薔薇と拳銃」ストーリー編/後編』

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        「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

         

        「薔薇と拳銃/後編」

         

        From a View to a Kill Latter Part

         

         「薔薇と拳銃/前編」 からの続きです。

         

          3日目の朝、大佐から電話がかかって来た。

        「ボンドさん、警察犬の捜索結果をお知らせします。 あなたが言われた通り森全体を捜索したのですがね、結果は白でした。 何も出ませんでしたよ」

        「ほう、そうですか。 どうやら無駄な手間をかけさせてしまった様ですね。 警察犬の係りに会ってもいいですか?」

        「ええ、構いませんとも」

          警察犬係の主任は、機敏な抜け目のない目つきのフランス人だった。

          彼の当直室のテーブルの上には、サン・ジェルマンの森の地図が広げてあった。 いくつもの四角いマークが書き込まれている。

        「犬が全部探りましたよ。 何もありませんや」

        「犬が特に嗅ぎ回った場所は無かったのかい?」

          主任は頭を掻いた。 「ウサギが1、2匹居ましてね、そっちを追っかけてしまって、手を焼きましたよ。 それに、キツネ穴も2つばかり見つけちゃいましたからね」

        「そうか」 ボンドはそう応えるしか無かった。

        「もうちょっとまともな物を嗅ぎ回ってくれると、こっちも気合が入るんですがねえ。 そうそう、十字路近くの空き地じゃあ、犬どもを引き戻すのに苦労しましたよ。 きっとジプシーどもの匂いが残っていたんでしょう」

          主任は地図の1点を指した。

        「ジプシーが居座っていたのかい?」

        「ええ、冬の間中ここで幕舎を張ってましたね。 先月ぐらいには居なくなってましたよ。 後はきれいに片付けていきましたけど、犬どもの鼻には何ヶ月も渡って染み付いた匂いが分るんでしょうな」

          ボンドは礼を言って、しばらく警察犬の仕事について軽口をたたいたりして引き上げた。

          建物から出ると例のプジョーに乗り込んで、サン・ジェルマン基地の憲兵詰所に行った。

          憲兵にジプシーの事を尋ねてみる。

        「ええ、男4人と女2人のジプシーがキャンプしてましたね。 みんな知ってますよ。 生粋のジプシーの様で、フランス語は一言もしゃべりませんでしたね。 だけど、行儀は良かった様ですよ。 どこからも何の苦情が出ませんでしたから」

        「彼らは何処へ行ったんだい?」

        「いや、それが、気が付いたらいつの間にか居なくなっていたんですよ。 誰も彼らが引き払うところを見ていないんですな」

          ボンドはプジョーに戻ると、森を抜けるD98号道路に向かった。

          ジプシーは普通の人にとっては異邦人だ。 とは言っても、ここヨーロッパでは必ずしも外国人として見られる事は無い。 人はジプシーのキャンプを、ただの風景の一部としか見ない。

          まさにМが言っていたと云う透明人間みたいな連中ではないだろうか。

         

          教えて貰った十字路近くまで来ると、ボンドはクルマを路肩に停めた。 そして、音を立てない様にしてクルマから下りる。 

          馬鹿らしいと思いながらも、そっと森に分け入っていった。 慎重に大回りして空き地を目指していく。

          空き地はテニスコートの2面くらいの広さで、草と苔に覆われていた。 端の方に土饅頭の様な小山があって、薮と野バラで一面に覆われていた。

          ボンドは空き地の端から端まで歩いてみたが、特に目を引く様なものは見当たらなかった。 次に道路に向かって木立の間に足を踏み入れる。 木立の間には、狭い小道の跡が付いていた。

          何げなく左右の幹を眺めていたが、はっとして膝を付いた。 幹の下の方に、に小さな泥がこすり付けられていたのだ。

          ボンドはその泥を指先でこすり落としてみた。 すると、幹に付いた深い引っかき傷が泥で隠されていた。

          注意して見ると、1本の幹に泥で隠された傷痕が3つあり、もう1本の幹には4つあった。

          ボンドは最初の傷痕を泥で塗りつぶすと、木立を抜けて道路に出た。

          歩いてクルマに戻ると、大事を取って暫らくクルマを押して遠ざかってから、エンジンをかけた。

          何者かがジプシーを装って冬の間に隠れ家を作って、そこを根城にして機密文書の強奪を始めたのではないか?  ボンドはそう思った。

          先ほど見つけた木の幹の引っかき傷は、どれも丁度オートバイを運び込む時にペダルで付いてしまった様な高さに付いていたのだ。

          ボンドは自分が勝手な空想をでっち上げている様な気もした。

          しかし、何者かが幹に付けてしまった傷痕を、丁寧に泥で目立たなくしていたのは事実だ。

          ボンドはプジョーを運転してパリのガブリエル通りのF局に行くと、ラットレー主任に詳しい報告を入れた。 そして総司令部に戻りシュライバー大佐の部屋に行くと、お世話になった礼を言って、引き上げると告げた。

          その後、ボンドは主任が教えてくれた隠れ家に移った。 小さな村の奥にある、目立たない家だった。

          そこでは4人の機関員の男達がボンドを待っていた。 主任がサン・ジェルマン基地へ応援を要請していてくれたのだった。

          4人の士気は高かった。 彼らにとっても、ボンドの推量が当たっていれば、NATO総司令部の保安部の鼻をあかしてやる事が出来る。 その上、英国情報部の株が上がるのは間違い無い。 そうなれば、英国情報部は独自にやっていく、と云うМの願いも通るのだ。

         

          4日目の未明、ボンドは樫の木の太い枝に横たわって、20ヤードばかり先の例の空き地を見張っていた。

          ボンドは全身をパラシュート兵の迷彩服で包んでいた。 頭にも、目と口だけに切り込みを入れた頭巾をかぶっている。 そうやって、夜から朝へと変わる森の様子を眺めていた。

          朝日と共にリスが1匹出て来て、土饅頭のバラの茂みで何かを拾って前足で回しながらかじっていた。

        二羽の鳩も出て来た。

          蜂が野バラに群がって、ボンドにもその羽音が聞こえて来る。

          突然、鳩がバタバタと飛び立って、木立の奥に逃げて行った。

          他の小鳥たちが後に続き、リスも逃げて行く。

          ボンドは自分の心臓の鼓動が早くなっているのが分った。

          野バラの茂みの中から、1本の枝がゆっくりと上に伸び始めた。

          異様に太いまっすぐな枝だ。 先端にピンクの花が付いている。 見ているうちに、茂みから1フィートも上に上がった。

          すると、花びらが開いた。 朝日を浴びて花の中のレンズが光った。

          バラの目が丹念に空き地全体を見回すと、花びらが閉じてゆっくりと下がっていく。  やがて茂みの中に隠れてしまった。

          ボンドはそっと息を吐いた。 目の疲れを休めようと、ちょっと目をつぶる。

          ジプシーとは上手く化けたものだ。

          この土饅頭の地下には、スパイが潜んでいるに違いない。

          次には何が起こるんだ? ボンドは注意深く見つめた。

          土饅頭から微かなうなりが聞こえてきた。 強力なモーターのうなりだ。

          野バラの茂みがかすかに揺れた。 蜂が一斉に飛び立って行く。

          大きな茂みの真ん中にゆっくりとギザギザの割れ目が出来て、みるみると広がっていった。 

          やがて、2つに分れた茂みが観音開きのドアの様にぱっくりと開いた。

          カーブしたドアの金属の縁がピカリと見えた。

          ドアの暗い穴の奥に、青白い電灯の光が灯っている。 モーターのうなりが止んだ。

          すると、男が顔を出し、ゆっくりと出て来た。 さっと蹲って辺りを見回す。 そして振り返って穴に向かって手を振った。

          2人目の男が現れた。 最初の男に雪国のカンジキの様な物を3足渡して、穴に戻っていく。

          最初の男が中の1足を手にすると、ブーツに取り付け始める。 それさえあれば草むらでも足跡が付かない。 大きな網のカンジキで草を踏んでも、草は直ぐに起き上がってくる。 用意周到な奴らだ。 ボンドはニヤリと笑った。

          2人目の男が姿を現し、穴の中からオートバイを引っぱり出す。 オートバイを押して3人目の男も現れた。 後から出て来た2人がカンジキを履くと、3人は一団となって木立を抜けて道路に向かって行った。

          これで解かった。 2人の手下はグレイの作業服だが、頭目らしい音は英国通信隊の制服姿だった。 オートバイも英国陸軍のBSAM20だ。

          これなら総司令部の伝書吏は味方だと思い込んでしまう。

          奪った機密書類は、その晩の内に暗号無線で送ってしまったに違いない。 きっと茂みの中からバラの花が付いたアンテナが伸びたのだろう。

          後ろで糸を引いているのは、ソ連の秘密情報機関だろう。 こんな大掛かりな舞台を作るとは、奴らの仕業に決まっている。

          2人の手下が戻って来て、穴に引っ込んだ。 バラの茂みが閉じる。

          頭目は偵察に出掛けたのだろう。 週1回の伝書吏の習慣が変更になったかどうか、探ろうとしているのだ。 なかなか周到な手合いだ。

          やがて偽の伝書吏が戻って来た。 空き地の端に立って、小鳥の様な口笛を吹く。

          直ぐにバラの茂みが割れて、2人の手下が出て来た。 オートバイを抱えて戻ってくると、3人は穴に入っていく。

          バラの茂みは元通りになって、空き地は何事も無かった様な静けさに戻った。

          30分後には、空き地は再び生気を取り戻してきた。

          1時間たって陽が高くなり木々の影が濃くなって来るのを待って、ボンドはそっと枝から降りた。

         

          その夜、いつものメアリー・アン・ラッセルとの電話では、ひと悶着起きた。

        「正気じゃないわ。 そんな事させられません。 主任に言ってシュライバー大佐に連絡してもらいます。 だってこの事件は総司令部の仕事ですのよ。 あなたの仕事じゃありません」

        「そんな事をしてはいかん」 ボンドは鋭く言い返した。 「シュライバー大佐は、明日の朝、当番伝書吏の替わりに私が走る事には同意しているんだ。 犯罪現場の再現と言ってある。 向こうは何も気にしてやしないんだ。 実際、今度の事件も書類綴りにしまい込んで、片付けちまってるくらいなんだ。 とにかく、私の報告を暗号にしてМに送ってくれるだけでいい。 Мだって、私がこの相手を片付けるのは納得してくれるよ」

        「Мなんかどうでもいいわ。 あなたってインディアンごっこをやってる子供みたいだわ。 そんな連中を1人で相手にするなんて」

          ボンドはイライラしてきた。 「もういい、メアリー・アン。 報告書を暗号にするんだ。 これは命令だ」

          メアリーは諦めた様にため息をついた。 「はい、わかりました。 でも怪我をしない様にね。 幸運を祈ります」

         

          翌日の朝はいい天気だった。

          ボンドはオートバイに跨って、出発の合図を待っていた。

          通信隊の伍長が近寄って来た。 「似合ってますよ。 軍服はぴったりだ。 オートバイの乗り心地はどうです?」

        「夢心地だよ。 オートバイがこんな面白いものだとはすっかり忘れてたね」

        「あたしはオースチンA40とかの洒落た自動車の方がいいですがね」

          伍長は腕時計を覗いた。 「もう7時ですな」 そして親指を上げると、「出発!」と大声で叫んだ。

          ボンドはゴーグルを顔に当てて、ギアを入れるとゲートに向かった。

          184号道路を走って307国道に入る。 ノアルジー・ル・ロアを抜けて暫らく走ると、D98道路だ。

          ボンドは一旦オートバイを停めて、今一度、銃身の長いコルト45口径を点検した。 肌のぬくもりを受けて温かくなったその拳銃を、ズボンのベルトに挟んだ。 上着のボタンはかけないでおく。 準備はОKだ。

          ボンドはオートバイをD98道路に進めた。 もうすぐ事件現場だ。 ボンドは速度を40キロに落として走りながらバックミラーを覗いた。

          写っているのは、後ろの真っ直ぐな道路だけだった。

          奴らに気取られたか?

          しかしその時、バックミラーの中に小さな黒い点が現れた。

          その点がどんどんと大きくなってくる。

          奴だ!

          ハンドルを握る両手の間にヘルメットを低く伏せて、すごいスピードで追って来る。

          ボンドは速度を落としながら、バックミラーに注意した。

          奴の右手がハンドルから離れる。

          それを見たボンドは、急ブレーキをかけた。 オートバイを横滑りさせながらコルトを引き抜く。

          殺し屋の拳銃が二度火を吐き、1発がサドルばねに当たった。

          ボンドはコルトを撃った。

          殺し屋は両手を広げると、オートバイもろとも道路から飛び出していった。 溝を飛び越え、ブナの木に頭からぶち当る。

          そしてガラガラと断末魔の音を立てて、草むらにひっくり返っていった。

          ボンドは倒れた男を見届けると、オートバイに跨って例の空き地を目指した。

          傷痕があった幹にオートバイを立てかけると、ボンドは男をまねて口笛を吹いた。

          何事も起きない。

          口笛の吹き方が違っていたのか?

          その時、バラの藪が揺れて、かん高いモーター音が聞こえてきた。

          カーブしたドアがぱっくりと開く。

          すぐに男が出て来てカンジキを履いた。 2人目の男も出て来る。

          カンジキを忘れた!

          ボンドは心臓が止まる様な気がした。 カンジキがどこか藪の中に隠してあるのを、ボンドも履いてこなければならなかったのだ。

          奴らは気付くだろうか?

          2人が近づいてきた。

          先頭の男が、何か合言葉みたいな言葉を口にした。

          ボンドが返事をしないので、2人は足を止めた。 びっくりした様子でボンドを見つめている。

          ここまでだろう。 ボンドは上着の下からコルトを取り出すと、銃口で手を上げろとゼスチャーした。

          先頭の男が大声で何か叫ぶと、ボンドに向かって飛びかかって来た。

          後ろの男は穴に向かって走り出す。

          木立の間に銃声が響いて、逃げて行く男が地面に右脚をついた。

          ボンドは片膝をついて、ぶつかって来る男に拳銃を突き上げた。

          手応えはあったのだが、男は上からのしかかってきた。

          拳銃の台尻で男の顎を殴り付ける。

          が、頭を長靴で蹴られて、拳銃が手から離れてボンドは仰向けにひっくり返ってしまった。

          男が拳銃に飛びついた。 そして立ち上がると、拳銃をボンドに向けた。

          死ぬんだな、ボンドはそう感じた。

          その時、乾いた銃声がして男が倒れた。 作業服の背中に、みるみる血が広がっていく。

          ボンドは立ち上がると、辺りを見回した。 味方の4人の機関員が、ひとかたまりになって立っていた。

        「いやあ、危ないところだった。 誰が助けてくれたんだい?」 ボンドはヘルメットを脱ぎながらそう言った。

          誰も返事をしない。 みな、ばつの悪そうな顔をしている。

        「どうしたんだ?」

          その時、4人の後ろにもう1人いるのに気が付いた。

          茶色のシャツに黒いジーンズのメアリー・アン・ラッセルだ。 右手に22口径の射撃用ピストルを持っている。

          ボンドは笑い出した。 男達も間が悪そうに苦笑いを浮かべている。

        「誰にも文句を言わないでね」 メアリー・アンがピストルをジーンズに差しながら、そう言った。 「今朝、この人達は私を置いて行こうとしたのよ。 だけど、無理を言って付いて来たの。 でも良かったわ。 偶然、あなたに一番近い所に居たの。 みんなあなたに当たってはいけないと、誰も離れた所から撃てなかったのよ」

        「君が来てくれてなかったら、夕食の約束を破る事になっちまうところだった」 ボンドは笑顔を見せた。 そして男達の方に振り返った。

        「よし、誰かオートバイに乗ってシュライバー大佐に報告に行ってくれ。 この隠れ家の捜索は保安部が来るのを待って行います、と伝えるんだ。 いいな?」

          1人の機関員が、アイ・アイ・サーと応えて走っていった。

          ボンドはメアリー・アン・ラッセルの腕をとった。

        「こっちへ来てごらん。 小鳥の巣を見せてあげよう」

        「あら、それも命令なんですの?」

        「そうさ、もちろん命令だよ」

         

        *****

         

        引き続き 「読後焼却すべし/前編」 へどうぞ。

         

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        007おしゃべり箱 Vol.52A−3 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「読後焼却すべし」ストーリー編/前編』

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          「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

           

          「読後焼却すべし/前編」

           

          For Your Eyes Only ~ First Part

           

            ジャマイカで一番綺麗な鳥はストリーマー・テイル鳥かお医者様蜂鳥だろう。

            ハヴロック夫人は広々とした涼しいベランダの洒落たティー・テーブルの前に座って、モンキーフィドルの藪を飛び回るお医者様蜂鳥を眺めていた。

            ハヴロック夫人はジャマイカでも有数の、この荘園に嫁いで来た時からこうして小鳥たちの姿を見て暮らしてきたのだった。

            ハヴロック夫人はティー・カップを置くと、サンドイッチをつまんだ。

          「ねえあなた、本当に嫌ですわねえ」

          「何がだね」 ハヴロック大佐はデイリー・グリーナー紙から顔を上げた。

          「ピラマスとダフニスの喧嘩ですよ」

            ハヴロック大佐には、この小鳥たちに付けられた名前や喧嘩などには興味は無かった。

          「どうやらバチスタもキューバから逃げ出すらしいな。 カストロ派がかなり勢力を伸ばしている様だ。 バークレイが言っていたが、この辺りにもバチスタ一味の金がかなり流れ込んでいるらしい。 麗風荘も誰かに買い取られたと云う噂だ。 化け物屋敷みたいなブルー・ハーバー・ホテルも、ひょっこりと誰かがやって来て買っちまったそうだし、ジミー・ファースンも、あのもてあましものの荘園の買い手を見つけたそうだ」

          「まあ、この島のあちこちがキューバ人の手に渡ってしまうんですか? 嫌ですねえ。 でも、いったいキューバ人はどこからそんなにお金を持ってくるのでしょう?」

          「悪事で作った金に決まってるよ。 ま、財閥の金もあれば政府の金もあるかもしれんがね。 とにかく、連中は早いとこキューバから金を持ち出して、どこかに投資したいのさ」

          「ファースンさんもお爺さんの代には、一回りするのに馬で3日もかかった大きな荘園だったんですけどねえ」

          「ジミーもバカな事をしたものだ。 その内に、この辺りに残る旧家はここだけになってしまうな。 幸い、ジュディがこの荘園を気に入ってくれてるから有難いよ」

          「そうですわ。 あの子はここが好きなんですよ」

           

            クルマの音を耳にして、ハヴロック大佐は立ち上がった。

            程なくして黒人の女中が居間のドアを開けて出てきた。 困った様な顔をしている。

            女中のすぐ後ろに3人の男がぴったりとついて来た。 女中が早口に言った「キングストンから来たかた達です。 旦那様に会いたいと・・・」

            先頭の男がスッと女中の前に出た。 男は左手で被っていたパナマ帽を取ると、胸に当てた。 夕陽が髪の油とニヤリとむき出した歯を光らせた。 男は大佐の前に出ると、右手を差し出した。

          「ゴンザレス少佐です。 パナマから来ました。 どうぞよろしく」 ジャマイカ人労働者が使う様ななまりがあった。

            ハヴロック大佐は形ばかりの握手を返した。 そして男の肩越しに、後ろのドアの両側に控えている2人の男を見た。 2人共この南国では誰もが持っているパン・アメリカン航空のマークが入った肩掛けカバンを下げていた。

          「何の用ですかな?」

            ゴンザレス少佐は口元をほころばせながら両手を広げてみせた。

          「取引きのお話しです。 私はハバナのある有力な人の代理でしてね」 右手を大きく振ってみせる。 「有名な紳士です。 とてもいいかたでして、あなたもきっと好きになりますよ」

            ここでゴンザレス少佐は神妙そうな顔をした。 「そのかたから、お宅の荘園の売値を伺ってくる様にと・・・」

            慎ましやかな微笑みを浮かべてこの場の様子を見守っていたハヴロック夫人が、夫の脇に立った。 そして、相手を困らせない様に彼女は優しく言った。

          「まあ、本当にお気の毒に。 先に手紙でも下されば、こんな埃っぽい道をわざわざここまで来る事など無かったのに。 主人の一家はこの荘園を3百年近く守ってきているのですよ。 売るなんてとんでもありませんわ」

          「家内の言った通りだ。 この荘園は売り物じゃ無い。 さ、クルマで帰るのならこっちが早い。 案内しよう」 ハヴロック大佐は左手を振って歩き出した。

          「ちょっと大佐」 ゴンザレス少佐は陽気な口ぶりで声を掛けた。 そして手下に向かってスペイン語で何か命じた。

            2人の男はパン・アメリカンのカバンを手に前に出てきた。 ゴンザレス少佐はそのカバンのファスナーを開けて、中を大きく見せた。

          「全て百ドル紙幣で、50万ドルあります。 お国のポンドにすると18万ポンドですね。 ちょっとした財産ですよ、大佐。 あたしの紳士は切りのいい様に、あと2万ポンド出してもいい、と言っています。 さあ大佐、手を打ちませんか?」 ゴンザレス少佐は笑顔を浮かべていた。

            ハヴロック大佐は怒りと不快の混ざったまなざしで少佐を見つめた。

          「はっきりと返事をしたはずだ。 この荘園はどんな値段だろうと売らん。 さ、お引き取り願おう」

            ゴンザレス少佐の笑顔が消えた。 が、口調はまだ穏やかだった。

          「大佐、はっきりさせなくて悪かったのはこっちの方だ。 あたしが受けた命令は、この気前のいい条件にあんたが同意しなかったら別の手を使え、と言われているのだ」

            ハヴロック夫人は急にゾッとして、思わず夫の腕にかけた手に力をこめた。

            大佐は力づける様に夫人の手に手を重ねた。

          「とっとと帰ってもらおう。 さもないと警察に連絡するぞ」

            ゴンザレス少佐の明るい表情が消えて、ふてぶてしい顔になる。

          「では大佐、生きている内はこの荘園は手離さない、と云うのがあんたの最終回答ですな」

          「その通りだ」

            ゴンザレス少佐が小さく頷いた。

          「では、この商談は次の持ち主とする事にします」

            ゴンザレス少佐は指を鳴らすと、一歩下がった。

            2人の男がシャツの下から消音器の付いた拳銃を取り出しすと、無造作に大佐夫妻を撃った。 夫妻が倒れても、何度も撃ち込む。

            ゴンザレス少佐はかがみ込んで2人の死体を調べると、男達を促して玄関を出た。

            3人はそのままクルマに乗り込み、バナナの積出港へと向かった。

            波止場では1艘のモーターボートが待っていた。

            3人が乗ると、モーターボートは沖に停泊している大型ヨットに向かって走り出した。

            3人がヨットに乗り込むと、素早くボートが引き上げられていく。

            大型ヨットは夜明けにはハバナに帰っているだろう。 漁師達はこのヨットは映画スターがジャマイカに遊びに来ている船だ、と言い合っていた。

           

            1ヶ月後、ロンドンは晴れ渡った小春日和の陽気だった。

            Mはボンドを呼んでデスクの前に座らせたものの、なかなか用件に入らなかった。

            しかも、いつもの様に007とは呼ばずに、ジェームスと呼んでいるのがボンドには気になった。 何かMにとって個人的な問題が絡んでいるのだろうか?

          「ジェームス、誰かが土性骨を据えて決断せねばならん。 ここではわしが全ての責任を負って是々非々を判断せねばならんのだ。 このわしが、このけたくそ悪い仕事を進めていかねばならんのだ」

            ボンドはMが気の毒になってきた。 秘密情報部のトップとして、これまでMは弱音などおくびにも出した事は無かった。 今度ばかりは、Mは何か自分自身に関係した問題を抱えているに違いない。

          「何か私でお役に立てる事があればおっしゃって下さい」

            Mは分別くさくボンドを見やった。

          「ジャマイカのハヴロック事件を覚えとるか?」

          「新聞で読んだだけです。 女中の話しでは、キューバから来た3人連れが犯人とか。 警察では特に手掛かりは掴んでいない様です。 この件については、特に何の連絡も入っていなかったと思いますが」

          「そうなんだ。 この件はわし宛ての親展として報告させていたからな」

            Mはここで軽く咳払いをした。

          「実はなジェームス、ハヴロック夫妻はわしの友人なんだ。 2人の結婚式には、わしが仲人として出席した。 1925年のマルタだった」

          「そうだったんですか」

          「2人ともいい人間だった」 Mはぽつんと言った。

          「とにかく、C局へ調査を命じた。 バチスタ側からは何も掴めなかったが、2週間前にカストロ側から情報が入った。 カストロ派の情報機関は、かなりバチスタ政権に喰い込んでいるからな」

            Mはそう言うと、おもむろに事件の背景を語り始めた。

            黒幕は元ゲシュタポのフォン・ハマーシュタインと云う男だと言う。

            ハマーシュタインはキューバのバチスタ政府にスパイ組織の頭目として雇われていたが、バチスタ政権がゆらぎ始めるのを見てキューバ脱出の用意を始めた様だ。

            それまでの強請りや脅し、賄賂などでかなりの財産を貯め込んでいたので、金の一部を部下の1人のゴンザレスに持たせて、カリブ海域で一流の荘園を買い漁らせた。 金で言う事を聞かない者には、子供を誘拐したり火を点けたりして、相手が手離す様に仕向けたのだ。

          「ハマーシュタインはハヴロックの荘園がジャマイカ一番と聞いて、ゴンザレスに手に入れる様命じたんだろうな。 たぶん、金で売らなかったら2人を殺して娘を脅して買い取れ、とでも命令したんだろう。 ところでその娘だが、もう25歳になっているはずだ」  Мは視線を遠くに向けた。「わしはまだ会った事は無いがね。 だがあの2人の娘だ、さぞ別嬪だろう」

            2週間前、ハマーシュタインはクビになったとの事だ。 「たぶん今までのボロが出たんだろう」

            ハマーシュタインは部下を連れてさっさとキューバから逃げ出した。

          「奴らはどこに逃げたんです?」

          「アメリカだ。 バーモントの北、カナダとの国境近くだ。 エコー湖にある億万長者の別荘を借りて住んでいる。 写真で見ると、なかなか居心地のいい所のようだな。 湖を控えた山の奥だ」

          「どうしてそこまで調べがついたんです?」

          「FBIのフーバーが送ってきた。 ハマーシュタインはカストロ派への武器の密輸で目を付けられていたんだ。 フーバーはとても協力的でな。 裁判にかけるだけの証拠があるなら、奴をとっ捕まえてやる、と言ってきてくれた。

            そこで法務総裁に相談した。 だが、ハバナから証人を連れてこれなければ見込みは無い、と言うんだ。 まったく出来ん相談だ。 これまでの事だってカストロ派の情報機関でようやく解ったんだからな。 そもそもキューバ政府は公式には何もしてくれんよ。

            次にフーバーは、ビザを取り消して米国から追い出してやろうか、と言ってくれた。 私はせっかくだが、と言ってそのままにして貰っている。 世界のあっちこっちをウロチョロされたら追うのだけでも手間だからな」

            Mはそこまで語ると、改めてパイプにタバコを詰め始めた。

          「そこで、カナダの騎馬警官隊に話してみたんだ。 総監は好意的だったよ。 国境から飛行機を飛ばしてエコー湖の空中写真をたくさん送ってくれたんだ。 必要とあらばそれ以上の協力も惜しまん、とも言ってくれた」

            Mはゆっくりとイスを回してボンドに向き直った。

          「そこでだ、次はわしが決断せねばならなくなった」

            これでボンドにもなぜMが悩んでいるかが解った。 いよいよの段になって、Mは考え込んでしまったのだ。

            これは正義の裁きだろうか?

            それとも、ただの復讐か?

            ボンド自身の気持ちには迷いは無かった。

            ハマーシュタインは普通に暮らしていた老夫婦をジャングルの掟で殺したのだ。 法でハマーシュタインに制裁を加える事が出来ないのであれば、ジャングルの掟と同様の掟で制裁を加えるべきだ。

          「私は少しもためらいません。 こんな事をした奴を逃げ延びさせていたら、イギリスは腰抜けと思われてしまいます。 力の掟で処分すべきです」

            Mはボンドから目をそらして宙を見つめた。 自分の心の中を見つめている様だった。

            やがてゆっくりとデスクの引き出しを開けると、薄いファイルを取り出した。

            それには、いつもの様に“極秘”のマークは付いていなかった。

            Mは引き出しからゴム印を出すと、ファイルの表紙に丁寧に押した。 そしてファイルを回すと、そっとボンドの方に滑らせた。

            まだ湿っているスタンプの赤インクは、“読後焼却すべし”。

            ボンドは頷いてファイルを取り上げると、そのまま黙って部屋を出た。

           

            2日後、ボンドはオタワにあるカナダ騎馬警官隊の本部を訪ねていた。

            指示通り“ジェームス”とだけ名乗り、総監に面会を申し込む。

            若い警部補に案内されて、大きな部屋に通された。

            窓際に濃紺のスーツを着た、若々しい男が立っていた。

          「ジェームスさん?」 かすかな笑顔を見せる。 「私は、そう、ジョーンズ警視正と云う事にしておきましょう。 ま、お掛け下さい」

            ボンドはジョーンズ警視正と名乗る男と握手してからイスに腰かけた。

          「総監が自分でお迎え出来なくてたいへん残念がっていました。 ひどい風邪でしてね」 ジョーンズ警視正は楽しそうな顔をした。 「今日はサボるのが一番いいと考えたのでしょう。 私はただの下っ端の1人です。 たまたま何回か国境の方に狩りに出かけた事があったので、あなたのチョッとした休暇のお手伝いをせよ、と言われました。 私1人が、です。 いいですね?」

            ボンドは思わず笑みをこぼした。 それなら彼の役所にとばっちりがかかる事は無い。

          「よく解ります。 ロンドンでも同じ様に考えています。 私がこの建物を出たら、お互いにここでの事は無かった事にしましょう。 たとえ私がどうなっても、そちらではご心配無く。 そういう事でお願いします」

          「では早速・・・」 ジョーンズ警視正はぶ厚いファイルを開いた。 1枚の紙を取り出すと、「お勧めする衣類のリストです」 なるほど、典型的なカナダのハンティングスタイルだ。 「そこの番地は大きな古着屋の住所です」 

            次にジョーンズ警視正は、ライフル銃や望遠照準器を用意してある、と言った。 そして銃の所持許可証や狩猟許可証を取り出した。

          「これは、カナダでエッソ・ガソリンが出している地図です」 ジョーンズ警視正はそう言うと、1枚の地図を広げて、ここオタワからフレラスバーグまでの道順を説明した。 「5時間はかからんでしょう。 肝心なのはフレラスバーグに着くのが午前3時頃にする事です。 その時間なら自動車屋の男は寝ぼけまなこですからね。 あなたが来た事など、ろくに覚えていないでしょう」

            次にジョーンズ警視正は1枚のスケッチを取り出した。

          「禁酒法時代の古い密輸ルートのスケッチです。 もちろん現在は使われていません」 そしてフラレスバーグからエコー湖までのルートを説明した。

          「どれくらいの道のりです?」

          「10マイル半くらいです。 道に迷いさえしなければ3時間でしょう。 だから目的地に着くのは6時頃ですね」

            最後にジョーンズ警視正は1枚の航空写真を取り出した。 ボンドもロンドンで見た写真が大きく引き伸ばされている。

            手入れの行き届いた、細長い石造りの家と屋根のあるテラスが写っていた。 庭の側には石畳みのテラスがあって、その先の芝生の庭は小さな湖まで続いていた。

            湖は石造りのダムで造られた人工湖の様だ。 ダムの真ん中あたりに飛び込み台がある。

            湖の対岸は急な森だった。

          「以上が、私がお話し出来る全てです」 ジョーンズ警視正は空になったファイルを閉じた。

          「ありがとうございます」

            ボンドとジョーンズ警視正は立ち上がった。

            ジョーンズ警視正はボンドをドアの所まで送ると、手を差しのべた。

          「できたら私もお供したいくらいですよ。 これでも戦争中はモントゴメリー将軍の第8軍にいたんです。 とにかく幸運を祈ります。 新聞にどう出るか楽しみにしていますよ」

           

            その晩と翌日をボンドはモントリオール郊外のコージーと云うモーテルで過ごした。

            オタワに出て、柔らかいゴム底の登山靴や迷彩服、ブドウ糖の錠剤を用意した。 ハムとパンを買ってきて、手作りのサンドイッチを作った。 また、大きなアルミの水筒を見つけたので、バーボン・ウィスキーを3/4ほど入れて、残りの1/4をコーヒーで満たした。

            モーテルの食堂で簡単な夕食を摂ってからひと眠りする。

            夜中を過ぎた頃、ボンドはレンタカーのプリマスに乗り込みフレラスバーグへと向かった。

            終夜営業のガレージにクルマを預け、2晩分の料金を払う。 ボンドは荷物を背負うと、街道沿いに30分ばかり歩き、右の小道に入った。

            森の中は深い静寂に包まれていた。 空の高い位置に満月が出ていて、ボンドはライトを点けなくとも小道がたどれた。

            夜明け前には、ボンドはアメリカ側の108国道と120国道を越えていた。

            これからは最後の登り坂だ。 国道から充分に離れたのを確認すると、ボンドは立ち止まってタバコに火を点けた。 ついでに密輸ルートのスケッチを燃やしてしまう。

            既に東の空が白み始めていた。 ボンドはテンポよく坂を登っていった。

            丸い尾根は木立に覆われ、足元の谷は見通せなかった。

            ボンドは太い樫の木を見つけると、その木に登ってみた。 そして太い枝の上に這い進んだ。 四方八方、果てしない山並みが続いていた。

            山のふもと、2千フィート程の緩い傾斜の森の外れに、広い帯の様な牧草地があった。

            薄い朝もやのベールを通して、湖と芝生の庭と家が見える。

            ボンドはポケットから狙撃用の望遠鏡を取り出すと、朝日に照らし出されていく家の周りを観察した。

            牧草地の端から湖畔の家のテラスまでは5百ヤードぐらいだ。 ダムの飛び込み台までは3百ヤードぐらいだろうか。

            ハマーシュタインは湖で泳いだりするだろうか?

            とにかく、時間は1日たっぷりある。 夕方まで待って湖まで降りてこなかったら、5百ヤードの距離でテラスを狙おう。 しかし、初めて手にするライフル銃で、5百ヤードは遠すぎる。 牧草地の端から、もっと降りていった方がいい。 それならば、連中が出て来る前に牧草地の向こう側まで行っておかねばならない。

            連中はいったい何時に起きるのだろう?

            そんなボンドの疑問に答える様に、母屋の左の窓の白いブラインドがクルッと巻き上がった。 ボンドには、巻き上がった時のパチンと云う音が聞こえた様な気がした。

            エコー湖だ。

            こだまする湖だ!

            こっちの物音も向こうに聞こえてしまうのだろうか? いや、谷底の音が湖面にはね返って上の方にまで聞こえるのだろう。 だとしても、用心するに越した事は無い。

            左の煙突から、細い煙りがショボショボと昇り始めた。 朝食の支度だ。

            ボンドは後ずさりすると地面に降りた。 こっちも腹ごしらえだ。 リュックの中から、用意したサンドイッチを取り出す。 パンが喉に詰まりそうになった。 体中に緊張が張りつめてきているのが分る。 

            ボンドは水筒のキャップを外すと大きく一口飲む。 コーヒーを混ぜたバーボンウイスキーが喉の奥に火を点けて下がっていく。 バーボンのぬくもりが腹にしみわたった。

            ボンドは立ち上がると、ライフル銃を肩にかけると、木立の間を慎重に降りていった。

            ボンドは枯れ枝を踏まない様に、足元に気を付けて歩いていく。

            が、突然に森全体がボンドの侵入に気づいて騒ぎ始めた。

            先ず、2匹の小鹿を連れた母鹿がボンドを見つけて、ギョッとする程の大きな足音をたてて逃げて行った。

            真っ赤な頭のキツネがボンドの行く手に現れては、けたたましい声を上げる。

            怖がらないでくれ。 この鉄砲は君達を撃つために持って来たんじゃ無いんだ。 ボンドは心の中で、そう叫び続けながら丘を下っていった。

            やがて、森の外れの、樫の大木の陰にたどり着いた。 時計を見ると8時になっていた。

            ボンドは牧場の向こうの木立を観察して、目的にふさわしい木を見つけ出す。

            大きなカエデの木があった。 その陰からなら、湖面も家も充分な射程距離だ。

            ボンドは腹這いになって、牧場の草の中を進み始めた。

            その時、どこか上の方のあまり遠くない所で、枝の折れる音がした。 ボンドは片膝を付いて耳をそばだたせ、五感を研ぎ澄ました。

            やはり連中は森の中にまで見張りを潜ませていたのだろうか? 10分以上もじっとしたまま、ボンドは辺りの気配を窺っていた。 こういう時に先に動いたら命は無い。

            やがて音がしたあたりとボンドとの中間に、2匹の鹿が姿を現した。 2匹は別に慌てる様子も無く、トコトコと牧場を左の方に抜けていく。

            枝を折ったのは彼らだろう。 ボンドはホッとため息をついた。

            背の高い生い茂った草地の中を、ボンドは這い進んで行った。 時々顔を上げて、目標のカエデに真っ直ぐに進んでいる事を確認する。

            あと20フィートぐらいだ。 家が木立に隠れて見えない位置にくると、ボンドは横になって最後の踏ん張りに向けて手首や膝を揉んだ。

           

          *****

           

            引き続き 「読後焼却すべし/後編」 へどうぞ。

           

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          007おしゃべり箱 Vol.52A−4 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「読後焼却すべし」ストーリー編/後編』

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            「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

             

            「読後焼却すべし/後編」

             

            For Your Eyes Only ~ Latter Part

             

             「読後焼却すべし/前編」 からの続きです。

             

              危険を告げる様な物音はしていなかった。

              しかし突然、「1インチでも動いたら命は無いわよ」と、女の囁き声がした。

              ボンドは心臓が飛び出すくらい驚いた。

              顔のすぐ横に、鋼鉄の矢先があった。 ゆっくりと顔を向ける。

              汗に濡れた日焼けした若い女が、弓で矢を構えていた。

            「いったい君は誰だ?」 ボンドはそう言いながら、右手をゆっくりと腰の拳銃の方にずらしていく。

            「その右手をじっとさせてないと、こいつがあんたの肩を射抜くわよ。 あんた、ここの用心棒なの?」

            「違う。 君は?」

            「ばか言わないでよ。 それじゃあんた、ここで何してるの?」

              女は怪しげな目つきでボンドを見つめている。

            「先ずこの矢をどけてくれよ。 そしてこんな草原の中から出よう」

              ボンドは返事を待たずに、四つん這いになって進み始めた。

              この女が何者にせよ、早いとこ追っ払ってしまわなくては任務に支障をきたす。

              ボンドは目指すカエデの木にたどり着いた。 女も弓矢を手にしたまま、少し距離をおいてやって来た。

             

              ボンドは太い幹の陰から家を窺った。 黒人の女中2人が、庭のテラスに朝食の準備をしていた。

              ボンドは木の幹を背にして座ると、女を見つめた。

              女も草むらに座り込むとボンドを見つめ返してくる。

            「あんた、密猟者ね。 鹿狩りのシーズンはまだ3週間も先よ。 それに、こんな麓の方には鹿は居ないわ。 もっと上の方よ。 あたしが鹿の居そうな場所を教えてあげてもいいけど」

            「君も狩猟かい? 君の狩猟許可証を見せてくれないかな?」

              女は素直に胸のポケットから1枚の紙を取り出した。

              許可証はバーモント州のペニントンで発行されていた。

              名前はジュディ・ハヴロック。 年齢は25歳。 出身地はジャマイカと記されていた。

              そうだったのか!

              ボンドは許可証を返すと、敬意をこめて彼女を見つめた。

            「ジュディ、君は大したお嬢さんだ。 あいつをその弓と矢でやっつけようというのか。 しかし君は“人を呪わば穴2つ”という中国の諺を知らないかい? あいつらを相手にして無事に逃げおおせると思っているのかい?」

              彼女は目を丸くしてボンドを見つめた。

            「あんたは誰なの? 私の事をどこまで知ってるの?」

            「名前はジェームス・ボンド。 ロンドンから派遣されたんだ。 ロンドンでは、あの家の中の男が荘園の事で君に圧力をかけてくるだろうと考えて、男を倒す事に決めたんだよ」

            「あいつら、私が可愛がっていた子馬に毒を飲ませたのよ」 彼女は吐き出す様に言った。 「私が子犬の頃から育てたテルザティン犬も撃ち殺したわ」

              次に連中は手紙を送ってきたそうだ。 “死は多くの手を持つ。 その1つが、今お前の頭上にある” そして、決められた曜日の消息欄に“承知した。ジュディ”、と載せればいい、というのだ。

              警察に届けたが、キューバ人のしわざらしいと云う事で、手の打ちようが無いと言う。

            「そこで私はキューバに行って、一流のホテルに泊まってカジノで大金を使ったのよ」

              とっておきのドレスを着て伝家の宝石を身に着けた彼女に、誰もが興味を示した様だ。 「小説家のフリをして、ギャングの事を聞いて回ったの。 そして、あの男にたどり着いたのよ」ジュディは湖畔の家を指した。

            「どうやってここを探り当てたんだい?」

            「アメリカに渡ってピンカートン探偵局に調べてもらったの」

            「ここへはどうやって?」

            「ベニントンまで飛行機で来て、それからは歩いたわ。 4日かかった。 でも私はこういう事は慣れてるのよ」

            「それで、その弓矢でハマーシュタインを撃つつもりなのかい?」

            「そうよ」 ジュディは澄ました顔であっさりと答えた。

              その時、家の方で声がして、男3人と女2人がテラスに出て来た。

              ボンドは望遠鏡を取り出して覗いてみる。

              男の1人は小ざっぱりした服を着ている。 他の2人はどん百姓タイプだ。 女達は派手な水着姿だった。

              ジュディが近寄って来たので、ボンドは望遠鏡を手渡した。

            「おしゃれな身なりの小男がゴンザレス少佐だろう。 他の2人は用心棒に違いない。 女はキューバから連れて来た娼婦だろうな。 ハマーシュタインは出て来ていない」

              ジュディは望遠鏡でひとしきり眺めるとボンドに返した。

              女達が家のドアの方に振りかえって、挨拶らしい声を上げた。

              ドアを開けて、がっしりとした初老の男が出て来た。 海水パンツ1枚の姿で、芝生の庭に歩み出て朝の体操を始めた。 ハマーシュタインだ。

              ボンドは肚を決めた。 一発勝負の仕事に失敗は許されない。 可哀想だが彼女には首根っこにガツンとお見舞いして大人しくしておいて貰おう。

              ボンドはそっと拳銃に手を伸ばした。

              ジュディが何歩か後ろに下がった。 そして無表情に弓矢を構える。

            「おやめなさい。 私がこんな所まで来たのは、ロンドンの探偵風情に頭を殴られる為じゃ無いのよ。 あんたの脚なんか撃ちたく無いけど、あんたが邪魔立てするなら撃つわ」

            「馬鹿なまねはよせ。 そいつを下ろせ。 こういう仕事は男に任せるんだ。 第一、そんな弓矢で4人の男を片付けようってのは無茶だ」

            「私の父と母は、あいつらに殺されたのよ。 あんたの親じゃ無い。 これは私がやる事なの。 あんたになんかに手出しはさせないわ。 私はここで一昼夜過ごしたのよ。 この弓矢でハマーシュタインを仕留める算段は立ててあるんだから」

              ジュディは強情に目をいからしている。 ボンドは観念した。 どんな段取りを考えているのか知らないが、ここは彼女に試させて、後は自分が後片付けをするしかないだろう。

              しかし、どうやってこの頑固な女を説得しようか?

            「わかったよ、ジュディ。 だがね、こっちは君の弓矢なんかよりも数倍も射程が長いライフル銃を持っているんだぜ。 今だって撃とうと思えば撃てるんだ。 でも、ちょっと距離がある。 奴が海水パンツを穿いているところを見ると、いずれは湖に入るに違いない。 そこを狙うつもりなんだ。 ここは一緒にやった方が確実だよ。 君は私の援護射撃をしてくれないかな?」

              ボンドはなだめる様に、そして努めて穏やかに語りかけた。

            「嫌よ」 ジュディはきっぱりと言った。 「援護射撃とやらは、あんたがやって。 父と母の仇は私が撃つの。 文句は言わせないわ」 ジュディはそう言うとボンドに向かって弓を引き絞った。 「一緒にやった方がいい、と言うあんたの意見には賛成だわ。 だけど、あんたは私に協力するしか無いのよ。 勘違いしないで」

              厄介な女が現れたもんだ。 が、こうなったら仕方が無い。 弓矢で脅かされるのは癪にさわったが、彼女の岩をも通す一念に手助けしてやりたい、とも思い始めていた。

            「じゃ、好きな様にやってくれ。 こっちは他の連中を引き受けるよ。 首尾よく片付いたらここで落ち合おう」

              ジュディは弓から矢を外した。

            「あんたが物分かりが良くてよかったわ。 この矢は刺さったらなかなか抜け無いのよ。 それと、ハマーシュタインが泳ぎに下りてくるだろうって云うあんたの読みは当たってるわ。 私は奴を狙う絶好の場所とタイミングを見つけてあるの。 だから私の事は心配しないで、ちゃんと隠れていてよ。 その望遠鏡で陽の光を反射させる様なヘマをしないでね」

              ジュディはチラッと満足そうな笑顔を見せると、背を向けて木立の間を下りていった。

             

              2人の女が朝食の後片付けをして、家の中に入っていった。 用心棒の姿も見えない。

              ハマーシュタインはベンチのクッションにそっくり返って、傍らに座っているゴンザレスに何か話しかけている。 食後の休憩の様だ。 目立った動きが無いので、ボンドは幹に寄りかかって腰を下した。

              ロンドンではMに威勢のいい言葉を口にしたが、実を言うとボンドは今度の任務は気が重かった。

              イギリスを発つ前から、奴らがどんなに酷い連中なのかを自分に言い聞かせていた。 これは保健所の職員がネズミを駆除する様な仕事なのだと、思う様にしてきた。

              連中はスメルシュと同じく英国の敵なのだ、と言い聞かせてきた。

              しかし、ボンド自身にとっては、彼らを倒さねばならない理由は何も無いのだった。

              出し抜けに、自動小銃の連射音が谷中に響き渡った。

              ボンドははっと立ち上がった。

              一羽のカワセミがクルクルと回って、芝生の上にストンと落ちた。

              トミー・ガンを手にしたハマーシュタインが素足のまま歩いてきて、カワセミをグイと踏みつけた。

              いつの間にか用心棒や女達が出て来ていた。 その連中がげらげら笑ったり、媚びる様に拍手をしたりしている。

              ハマーシュタインは振り返ると、百発百中なんだぞ、とでも言う様に笑い声を上げた。 そして女達に何か言いつけた。 2人の女は嬌声を上げて家に駆け込んで行く。

              ハマーシュタインは2人の用心棒を従えて湖水の方へ下りて来た。

              女達が家の中から走り出して来る。 それぞれ手にシャンパンの空き瓶を持っていた。

              用心棒の腕比べでもするのだろうか。

              2人の用心棒はそれぞれトミー・ガンを持って、ダムの石垣に20フィートばかり離れて位置についた。 湖水に背を向けている。

              ハマーシュタインは両手に空き瓶を持って芝生の端に立った。

              女達はその後ろで、両手で耳を塞いでキャーキャー騒いでいる。

              ハマーシュタインが何やら怒鳴った。 そして、両腕を後ろに振りながら「いーち、にっ」と叫んだ。 そして「さんっ」で空き瓶を湖の上に放り上げた。

              2人の用心棒はクルッと振り返ると、腰に当てたトミー・ガンをぶっ放した。

              雷鳴の様な銃声が、静かな谷間をつんざいた。

              左側の瓶は粉々に砕けたが、右側の瓶は一発当たっただけで左より何分の1秒か遅れて2つに割れた。

              左側の用心棒の勝ちだ。 2人共芝生の方に戻っていく。

              ハマーシュタインが女を手招きした。 女達は渋々と前に出て来る。

              ハマーシュタインが勝った方に何か言っている。 訊ねられた男は左側の女の方に頷いて見せた。 女は媚びを含んだ目で男を見返す。

              ハマーシュタインとゴンザレスは大きな笑い声を立てる。 そしてハマーシュタインはその女の尻をたたいた。 「一晩だけだぞ」と云う声が、ボンドにも聞こえた。

              女達は嬌声を上げながら湖水に飛び込んでいった。

              ゴンザレスは上着を脱いで、芝生の上に腰を下した。 肩に拳銃のホルスターを吊っているのが見えた。 彼はハマーシュタインが時計を外して飛び込み台の方に歩いていくのを、じっと見守っていた。

              2人の用心棒はトミー・ガンを手にしたまま、湖岸から下がった場所であたりに気を配っている。

              普段の日常の様子からこんな調子なのなら、ハマーシュタインがこれまで生き延びてこられたのも当然だろう、とボンドは思った。 とにかく、それだけの用心をしている男なのだ。

              ハマーシュタインが飛び込み台の端に立った。 軽く膝を曲げて両腕を後ろに引く。 その腕が前に振られて、足が飛び込み台から離れた。

              その一瞬、ハマーシュタインの背中に銀色の矢が突き刺さり、次の瞬間、彼の体は水面に落ちていった。

              ゴンザレス少佐が立ち上がった。 口をぽかんと開けて湖面をのぞき込んでいる。 自分が何を見たのか、はっきりと分かっていない様だ。

              2人の用心棒は、はっきりと気が付いた様だった。 地面に片膝を立てて、ダムの後ろの木立にトミー・ガンを向けている。

              ボンドは口の中がカラカラになってきていた。

              ゆっくりと湖面の波が静まって、ハマーシュタインの体が水面に現れた。

              俯せになった肩甲骨のあたりに、1フィートばかりの矢が突き立ってキラリと光った。

              ゴンザレス少佐が大声を上げると、2挺のトミー・ガンが銃声を上げた。

              ダムの後ろの木立に、バリバリと銃弾が撃ち込まれる。

              ボンドは用心棒の1人に狙いを付けると、引き金を引いた。

              男は後ろ向きにひっくり返った。

              もう1人の用心棒は、腰だめで連射しながら湖面の方に走っていく。

              ボンドはその男を狙って撃った。

              外れた。

              もう一発。

              男は前につんのめる様にして、湖面に倒れ込んだ。

              一発外した為に、ゴンザレスにチャンスを与えてしまった様だ。

              彼は先に倒れた用心棒の死体の陰に飛び込むと、トミー・ガンを手にしてボンドに向かって撃ち返してきた。

              ボンドが身を隠しているカエデの木に、弾丸がブスブスと突き刺さる。

              ボンドの姿を見つけたのか、それともライフルの銃口の火を頼りに撃ってきてるのかは分らないが、いい腕だ。

              ボンドも2発撃ったが、倒れた用心棒の死体がビクンビクンと動いただけだった。

              弾丸をこめ直して、ライフルを構える。

              が、その時ゴンザレスは立ち上がって、テラスの方に駆け出していた。

              ボンドのライフルがその足元の芝生を2カ所ばかりはね上げた時には、ゴンザレスは庭の鉄のテーブルをひっくり返して、その陰に隠れてしまった。

              奴はこの堅固な盾に隠れてから、狙いが正確になってきた。

              カエデの幹はたて続けにトミー・ガンの弾丸を浴びている。

              ボンドも負けじと撃ち返したが、一発はテーブルに当たり、もう一発は庭の向こうに飛んでいった。

              ゴンザレスはテーブルの右から撃ったり左から撃ったりと、ボンドに狙いを付けさせない。

              ボンドのすぐわきやすぐ上に何発も弾丸が降りそそいだ。

              ボンドはしゃがみ込むと、右に走った。 奴の不意を衝いて牧草地の端から狙ってやろう、と思ったのだ。

              しかし、ゴンザレスもテーブルの陰から飛び出したのが目に入った。

              奴も膠着状態にケリをつけようと思ったのだろう。

              ゴンザレスはダムに向かって走っていく。

              木立に入って、ボンドを追い立てようと云う肚だろう。

              ボンドは足を止めると、ライフルを構えた。

              ボンドが立ち止まったのに気が付いたのか、ゴンザレスもダムの上で片膝を付いた。 ボンドに向けて連射してくる。

              ボンドは弾丸の音を聞きながら、冷静に狙って引き金を引いた。

              ゴンザレスの体が揺れた。 そして、両腕を広げて空に向かって弾丸をばら撒きながら、湖面へと落ちていった。

             

              ボンドはライフルを肩に掛けると、さっきのカエデの所にもどった。

              ジュディもそこに来ていた。 腕で頭を抱えて、木に突っ伏している。

              右腕から血を流れていた。

              ボンドは近寄ると、震えている肩に手をかけた。

            「落ち着くんだよ、ジュディ。 もうすっかり片付いた。 腕はどうだい?」

            「何でもないわ。 何かが当たっただけよ。 それより、凄く怖かった。 マシンガンの弾がバリバリと飛んできて」

              ボンドは力づける様に肩をつかんだ。

            「あの連中はプロの殺し屋なんだ。 それも、とびきり悪い奴らだ。 だから、こんな事をするのは男の仕事だと言っただろ? さあ、その腕を診よう。 そして、すぐに出発しよう。 州警察がやって来る前に国境を越えちまわないとね」

              ジュディは腕を出した。 ボンドは傷口をコーヒー入りウィスキーで洗うと、リュックから厚いパンの一切れを出してハンカチでしばった。

              次にブラウスの袖を縦に切り裂くと、一方を後ろに回して首の後ろで結んでやる。

              ジュディの唇が3インチのところにあった。

              彼女の体は温かい野獣の様な匂いがした。

              ボンドはその唇にそっと接吻する。 そしてグレイの瞳をのぞき込んだ。

              その目はびっくりした様で、嬉しそうだった。

              ボンドは笑顔を浮かべると、傷付いた腕をそっと袖で作った吊り紐にかけてやった。

            「私をどこに連れていくの?」

            「ロンドンさ。 君に会いたがっている爺さんが居るんだよ。 だがその前にカナダに入らないとね。 オタワの我々の友人に君のパスポートの手続きを取って貰おう。 身の回りの物も揃えなくてはならないし。 2〜3日はかかるだろうな。 その間はコージー・モーテルと云う所に泊まるんだよ」

            「面白そうだわ。 私、モーテルって泊まった事が無いの」

              ボンドはかがみ込んで、ライフルとリュックを肩に掛けた。 彼女の弓と矢筒も拾い上げると、もう一方の肩に掛ける。 そして草原を登り始めた。

              ジュディもその後ろについて歩き出した。

              髪を束ねていたリボンを取ると、金髪がはらりと肩にかかった。

             

            *****

             

              引き続き 「危険/前編」 へどうぞ。

             

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            007おしゃべり箱 Vol.52A−5 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「危険」ストーリー編/前編』

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              「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

               

              「危険/前編」

               

              Risico ~ First Part

               

                その日、Мは機嫌が悪かった。

              「007、今、手はふさがってるか?」

              「今のところ、書類仕事だけです」

              「書類仕事だけとは、どういう意味だ?」 Мはパイプの吸い口を未決書類の入ったケースに向けた。 「書類仕事の無い人間がいるか?」

              「つまり、動き回る仕事は無いっていう意味ですが」

              「それなら、そう言え」

                Мはテープでまとめられたファイルの束を手にすると、ボンドの方に乱暴に投げて寄こした。

              「こいつも書類だ。 ほとんどが警視庁の麻薬取締班のだ。 それと内務省と厚生省からのも入っている。 ぶ厚いのは、ジュネーブの国際アヘン取締機構からの報告書だ。 こいつを持ってって頭に入れるんだ。 そして明日にはローマに飛んで、この大物を追い詰める。 分かったな?」

                ボンドははいと答えながら、Мの機嫌が悪い理由を理解した。

                Мが何よりも腹を立てるのは、こういった秘密情報部の本来の仕事以外の事に部下を使わされる事だった。

              「何だ? 何か質問があるか?」 Мは顎を突き出すと、ぶっきらぼうに言い放った。 まるで、さっさと行け、と言わんばかりだ。

              「2つあります」 ボンドは穏やかに言った。 「1つは、なぜこの様な仕事を引き受けたのか? 2つ目は、支局はどうかかわっているのか? です」 

                Мは苦々し気に口元を歪めると、イスを回して窓の外に視線を向けた。 そしてパイプを手にすると、せわし気に煙を吐き出した。

                これで少しは癇癪が収まったらしく、Мはボンドに向き直った。

              「007、君も解っていると思うが、わしはこんな麻薬事件などに引っぱり出されるのが気に食わんのだ。 今年の春には君をメキシコにやって、麻薬密売者を追い詰めさせたが、あの時は警視庁の特別部からの頼みで、やむなく引き受けた。 そうしたら、また君の手を借りたい、と言ってきた。 わしは断わったよ。 ところが、ヴァレンス副総監は内務省や厚生省に手を回して、大臣達からゴリ押ししてきたんだ。 こっちは手が塞がっている、と突っぱねたんだが、2人の大臣は総理に泣きついたんだな。 総理から電話がかかって来た」

                Мはここでため息をついた。

              「これでもう否応なしだ。 それに総理もこっちの泣き所を心得ていてな、密輸されるヘロインの量を考えると我が国を弱らせようとする何者かの意図がある、と言うんだ。 イタリア・ギャングの陰で糸を引いている輩が居るに違いない、とな」

                Мは苦笑いした。 「どうもロニー・ヴァレンスが総理に吹き込んだセリフらしいがね。 それはともかく、麻薬取締班はやっきになってるし、警視庁の密行班はイタリア警察と連携して、打てるだけの手は打っているのだが、どうも埒が明かない様だ」

              「確かに、どこかの国が後押ししてるのかもしれませんね」

              「そうなんだ。 そこでわしはアメリカに電話してみた。 CIAのアレン・ダレスは協力的だったよ。 また、CIAとは別に、財務省の麻薬取締局がイタリアに1班潜入させている、と教えてくれた。 その連中はCIAのローマ支局とも緊密に連携しとるらしい。 まあ、お互いに縄張りを荒らし合わない様に必要なんだろう。

                ただ、ダレスが言うには、どんな形でもCIAの部下を巻き込ませる事は出来ないし、財務省の方でも潜入させている取締班がこっちと協同で動く事は歓迎せんだろう、だった。

                しかし、ダレスは使っているピカ一の情報提供者の名前を教えてくれたよ。 どうも二重スパイらしいんだがね。 本人も表向きを誤魔化す為に、ちょっと麻薬の密輸をやっているらしい。 で、こっちの人間が仕事の事で会いたい、と男に伝えてもいい、と言ってくれたんだ。 私は、それは願ってもない事だ、と言って頼んだよ。 で、昨日、そのクリスタトスと云う男と段取りが付いた、と返事を貰ったんだ」

                Мはボンドの前のファイルに手を振ってみせた。 「詳しい事はそれを読めばすっかり解かるだろう」

                危険な、そして汚い仕事になるな、ボンドはそう思いながらファイルを手にした。

              「分りました。 金がかかりそうですね。 いくら使えるんですか?」

              「10万ポンドだ。 総理がそう言った。 だが、あまり厄介な事になったら、倍の20万ポンドになってもかまわん。 麻薬を扱う組織ってのは、犯罪組織の中でも一番固い結束をしているからな」

                Мはそう言うと、未決書類のケースから電報の綴じ込みを手にした。 そして、「気を付けてな」と、顔も上げずに言った。

               

                ローマに入ったボンドに与えられた指示は、「エクセルシオ酒場で1人でアレキサンドラを飲んでいる、大きな髭の男を探せ」 だった。

                ボンドはこの指示が面白いと思った。 新聞を小脇に挟むとか、上着の襟に花を挿すとか、スパイ同士の大時代な符号よりも、ご婦人向けのカクテルを目印にする方が、ずっと気が利いている。

                ボンドが酒場に入って店内を見回した時、店には20人くらいの客が居た。 しかし、大きな髭の男は居なかった。

                どうやらクリスタトスは、小さなテストから始めた様だ。

                ボンドは今一度店内を観察した。 店の奥のテーブルの上にオリーブやカシューナッツの小皿に挟まれて、クリームとウォッカのカクテル・グラスが立っている。

                ボンドは迷わずそのテーブルに行き、イスを引き出して腰を下した。

                ボーイがボンドの横に立った。

              「いらっしゃいまし。 クリスタトス様は今電話中です」

                ボンドは頷いた。 「ネグロニをくれ。 ジンはゴードンでね」

                ボーイはカウンターに戻っていく。 「ネグロニいっちょう。 ゴードンを使って」

                ボーイと入れ替わる様に、男が1人やって来た。 「これは失礼」 そう言うとイスに腰を下した。 「ちょっとアルフレッドと話があったのでね」

                握手は無しだ。 はた目には古い仲間を装わねばならない。

              「あれの息子はどうだい?」 ボンドは初球のテストを打ち返した。

              「相変わらずの様だな。 息子がどうだって?」

              「いや、小児麻痺はたいへんだからね」

                クリスタトスの黒い眼がじっとボンドを見つめた。 確かにこいつは素人でな無さそうだ、とその眼が言っている。

                ネグロニが来て、2人は楽に座り直した。

                お互い、同じ穴のムジナなのだ。 ボンドは少しばかりリラックスした気分になっていた。

                しばらく当たり障りのない会話をした後で、「場所を変えよう」 とクリスタトスが言葉をはさんだ。 「連れて行きたいレストランがある」

                その晩、ボンドとクリスタトスはスパニヤ広場のはずれにある、コロンバ・ドーロと云う小さなレストランに入った。

                ボンドはまだ自分がテストの続きを受けている様で面白かった。

                クリスタトスは、まだボンドを観察し、値踏みし、取引の相手として信用出来るかどうか、迷っているのだ。

                確かにクリスタトスのこういった用心は、Мの勘が外れていなかった証拠だ。

                つまりこの男は、何か大きな事を知っている。

              「こういう話しは、たいへん危険が多くてね」 レストランのテーブルに着くと、クリスタトスはおもむろにつぶやいた。

              「我々の仕事は儲けが大きい。 しかも取引は夜に限られている。 そもそも危ない仕事だろう」 ボンドは声をひそめた。 「資金はある。 ドルでもスイス・フランでも、ベネゼエラのボリヴァーでも、どれでも用意できる」

              「そいつは良かった。 こっちはイタリアのリラはあり余ってるんでね。 それはそうと、何か食おう。 空きっ腹では大きな取引は出来ないからな」

                クリスタトスは大判のメニューを広げた。

              「ボンドさん、回りくどい言い方は止めよう。 いくら出す?」

              「百パーセント上手くいったら、5万ポンド出そう」

              「ふむ、ちょっとまとまった額だな」 クリスタトスは冷ややかに応じた。 そして「私はメロンとチョコレート・クリームにしよう。 夜は軽い食事と決めているんだ。 この店には自家製のキャンティがある。 お勧めするよ」 と言った。

                ボーイが来て、イタリア語の短いやり取り。 ボンドはジュノエーゼ・ソースを添えたタダリアテリ・ヴァルディを注文した。

                クリスタトスは黙ったまま楊枝を口にくわえた。 目付きが鋭くなってきている。 そして、落ち着かない様子で店内を見回した。 ただ、ボンドには目を向けようとしない。

                クリスタトスは誰かを裏切ろうかどうしようか、迷っているのだろう。

                ボンドはもうひと押ししてみる事にした。

              「場合によっては、もっと出せる用意があるのだがね」

                クリスタトスは肚を決めた様だ。 「そうかい」 と言うと、イスを引いて立ち上がった。 そして「ちょっと失礼。 トイレに行ってくる」 そう言うと、店の奥へと行ってしまった。

                ボンドはロールパンをちぎって、黄色いバターをこってりと付けて口に入れた。

                後はただ彼の出方を待つだけだ。

                彼はアメリカに信用されている男だ。 きっと意を決して、どこかに電話をかけているのに違いない。

                ボンドはいい気分になって、窓の外に目を向けた。

               

                ボンドのテーブルと反対側の帳場の隅のテーブルに、1組の男女が座っていた。

                男は陽気にスパゲッティを口に運んでいる。 金髪の女がちょっとボンドを見やってから、そっと囁いた。

              「あの男、笑った顔に凄みがあるけど、相当な色男よ。 色男のスパイなんて変だわ。 間違いないの?」

                男はナプキンで口の周りをぬぐうと、派手なゲップをした。

              「こういう事にかけてサントスはヘマはせんよ。 あいつはスパイの匂いには敏感なんだ。 それにスパイで無かったら、誰があんなブタ野郎と晩飯なんか付き合うもんか。 だが、念には念を入れようか」

                男はポケットからクリスマスに使う様なクラッカーを出すと、パーンと鳴らした。

                支配人がやりかけていた仕事を止めて飛んで来た。 「どうかなさいましたか?」

                男が手招きして支配人の耳元に何やら話しかけた。 

                支配人は黙ったまま頷くと、調理場の隣りの“事務室”と書かれたドアに入っていった。

                しばらくして出て来ると、ボーイ頭を大声で呼ぶ。 「4人様のお席を大至急だ」

                ボーイ頭は支配人の目を見つめて頷いた。

                ボーイ頭は指を鳴らして手伝いのボーイを集めると、あっちこっちのテーブルに頭を下げてイスを1つずつ借り集める。 ボンドのテーブルからもイスを持って行った。

                最後の1つは事務所から運んで来た。

                ボーイ達がテーブルに4人分のナイフとフォークを並べる。

                ところが、そこで支配人が眉をひそめた。 「なんだ? 4人分用意しちまったのか? 俺は3人と言ったんだぞ。 3人様の席だ」 支配人はそう言うと、事務所から出したイスをボンドのテーブルに戻した。 そしてボーイ達に、もういい、と合図の手を振る。

                ほどなくして3人のイタリア人が店に入って来た。 支配人が3人を用意の出来たテーブルに案内する。

                男はそんな様子を横目で眺めていた。

               

                クリスタトスがテーブルに戻って来た。

                料理が運ばれて来て、2人は食事を始めた。

                食事の最中、2人は愚にもつかない事をしゃべり合った。 イタリアの選挙の話しやアルファロメオの新車の話しなど、クリスタトスはよくしゃべった。

                食事が終わって、コーヒーが来た。

                クリスタトスは両手をテーブルについて、テーブルクロスを見つめる。

              「この話しは乗る事にしよう。 今まではアメリカ人しか相手にしていなかったから、これから話す事はアメリカ人には話していない。 そのつもりで聞いてくれ」

              「分かっている」

              「その組織と云うのはアメリカに送る事は禁じられているんだ。 イギリスだけが目当ての組織なんだ。 いいね?」

              「分る。 何にでも縄張りは付きものだからな」

              「そうなんだ。 ところで情報を渡す前に、商売人らしくきちんと話をしておこう」

              「もちろんだ」

                クリスタトスはいっそうテーブルクロスを睨んだ。

              「米ドルで1万ドル欲しい。 あんたがその組織をつぶせたら、もう2万ドルだ」 クリスタトスはちらっと目を上げて、ボンドの顔色を窺った。 「そう欲張るつもりは無い。 そっちの資金を全部寄こせと言ってるわけじゃ無い。 どうだい?」

              「値段は結構だ」

              「よかった。 で、第2の条件。 どこでこの情報を仕入れたかは、秘密にしておいて貰いたい」

              「当然の条件だな」

              「第3。 その組織の首領は極め付きの悪党でね。 そいつを始末せねばならない。 殺すんだ」

                ボンドは座り直した。

                ははあ、読めてきたぞ。 この男は私怨をはらそうと目論んでいるのだ。 しかも、殺し屋に金を払うのでは無く、殺させてやるからと、金を取ろうと云うのだ。 この男はこの大芝居で秘密情報部を道具に使う肚だ。

              「なぜ殺さなきゃならないのかね?」 ボンドは静かに尋ねた

              「余計な質問をしなければ、つまらん嘘も聞かずに済むって諺がある」 クリスタトスは冷ややかに答えた。

                ボンドはコーヒーを飲んだ。

                こっちにとっては、どうでもいい事だ。

                仕事が上手くいって、例えばクリスタトスが得をしたところで、誰も文句は言わない。

                もしその首領とやらが組織そのものだったら、Мの命令に従えば、殺すだけだ。

              「必ず殺すとは、約束出来ないな。 ただ、向こうがこっちを殺そうとするなら、殺してやるさ」

                クリスタトスは顔を上げた。

              「いいだろう。 金を払ってくれるのはそっちだからな。 では情報をやろう。 ただし、後はそっちでやるんだぞ。 こっちは何も手は出さないからな」

                クリスタトスはそう言うと、イスをボンドの方に寄せた。

                そして、静かにだが早口で、密輸ルートの詳細を語り始めた。

                ボンドは注意深く聞きながら、記憶のメモを取り続けた。

              「なるほど、それでその首領と云うのは誰なんだ?」

                クリスタトスは咥えていた細い葉巻に手をやって、そのまま口元を隠した。

              「ハトと云うあだ名で呼ばれている、エンリコ・コロンボと云う男だ。 この店のオーナーだよ。 だから連れて来たんだ。 当の本人を見せてやろうと思ってね」

                何とも大胆な事をするもんだ。 ボンドは一瞬びっくりしたが、顔色に出さずに先を促した。

              「向こうに金髪の女と一緒の太った男が居るだろう。 あいつがそうだ。 女はウィーンから来たリスル・バウム。 高級淫売だよ」

              「あの女がねえ」 ボンドは視線を向けずにそう言った。

                そもそもこの店に入った時から、その女の事は気が付いていた。

                陽気で大胆で人なつっこい顔立ちで、男なら誰でもその華やかな佇まいに気をそそられるだろう。 しかもボンドは、先刻から女が時々自分の方に視線を向けているのに気が付いていた。

                相手の男は陽気な金持ちといった、典型の男だった。 彼は気前よく何でも買ってやってるに違いない。 女もしばらくは、この恋人が気に入ってるだろう。

                ボンドはそんな、陽気で贅沢で人生に張りを持っている男に好感を感じていた。

                しかし、こうなってくると、そうは言ってはいられない。

                ボンドは2人の方に目を向けた。

                2人は何か派手に笑っている。 男が軽く女の頬をたたいてイスから立つと、事務所に引っ込んでしまった。

              やはりこの男がイギリスに大量の麻薬を密輸している元凶なのだ。

                Мがその首に10万ポンドを賭けた男だ。

                ボンドは残された女を、ずうずうしく見つめた。 女は顔を上げてボンドの視線を受け止めたが、すぐに目をそらした。 そして口元に笑みを漂わせながら、タバコの煙を天井に吹き上げる。

                女はボンドに、横顔を見せつけ様としているのが分った。

               

                ボーイ達が空いたテーブルの後片付けと、新しい客の準備を始めた。

                支配人がボーイ頭に、6人の席を用意する様に言った。

                ボンドのテーブルから、イスが再び取り上げられた。

                ボンドはクリスタトスに、コロンボについて細かい質問を始めた。 住まいはどこか? 拠点の倉庫はどこにあるのか?

                だからボンドは、自分のテーブルから持って行かれたイスが、何げなく次々とテーブルを回って、事務所に運び込まれたのに気付かなかった。

               

                イスを事務所に運び込ませると、エンリコ・コロンボは手を振って支配人を下がらせた。

                イスの厚いクッションを外してデスクの上に置く。 そして、横のジッパーを開いて、手を突っ込むと、中から取り出したのは小型のテープレコーダーだった。

                コロンボは時々巻き戻しながら、テープの声に耳をすました。

                ボンドが言った「あの女がねえ」まで聞くと、コロンボはテープを止めて、じっとテープレコーダーを睨んだ。

                やがて、「くそったれめ」と呟くと、事務所のドアを開けた。

                コロンボはテーブルに戻ると、女の耳元でせかせかと呟いた。 女は頷いて、チラッとボンドを見る。 ボンドとクリスタトスは、席を立つところだった。

              「何よッ、いやらしい人ね!」 女が声を上げた。 「みんな、あんたには用心しろって言ってたけど、やっぱりそうなのね! こんな薄汚い店で食事をしただけで、あたしの事を売女扱いしないでちょうだいッ!」

                女はハンドバッグをつかむと立ち上がった。 丁度出口に向かうボンドの通り道だった。

                コロンボも立ち上がった。 怒りに顔を赤黒くさせている。

              「何をッ、オーストリアの売女のくせに!」

              「あたしの国の悪口は言わせないわ。 何よ、自分こそイタ公のヒキガエルじゃないさ」

                女はそう叫ぶと、半分残っているワインのグラスを、まともにコロンボの顔にぶつけた。

                コロンボが女に掴みかかってきた。 女は後ろに下がる。 ボンドのすぐ前だ。

                コロンボはナプキンで顔を拭きながら、女に怒鳴った。 「二度とこの店に面を見せるな!」

                そう言い捨てると、イスを鳴らして奥の事務所に引っ込んでしまった。

              「タクシーを見つけるお手伝いをしましょうか?」 ボンドは女の肘に手をかけて行った。

                女はボンドの手を振り払った。

              「男なんてみんなブタだわ」 と、プリプリして言う。 が、ここで失礼だと気が付いたのか、「でも、あなたは・・・ご親切にどうも」 とぎこちない口調で言い足した。

                そして女は、ボンドを従えて出口へと向かった。

                支配人が飛んできて、神妙な顔でドアを開ける。 「失礼しました。 おかげで助かりました」

                流しのタクシーが1台、速度を落とした。 ボンドは手を上げてタクシーを停めると、ドアをあけた。

                女が乗ると、ボンドもすかさず乗り込んでドアを閉めてしまう。 窓を開けてクリスタトスを見上げた。 

              「明日の朝に電話するよ。 いいね?」 そして返事を待たずにシートに収まってしまった。

                女は向こう側の隅で小さくなっている。

              「どこへやります?」

              「ホテル・アンバサドリへ」

                タクシーが走り出した。 しばらく沈黙が続く。 ボンドは女に向き直った。 「どうです? 部屋に帰る前に、気分直しに1杯」

              「あなたは親切なかたですのね。 でも、今夜は疲れてしまったので遠慮しますわ」

              「では、明日の昼食は?」

              「私、明日はベニスだわ」

              「それは奇遇だ。 こっちもベニスに行くんでね。 明日の晩に食事はどうかな?」

                女がほほ笑んだ。

              「あなたイギリス人でしょ。 私、イギリス人って内気なんだとばっかり思っていたのに、ずい分と積極的ね。 お名前は? 何をなさっているの?」

              「そう、イギリス人さ。 名前はジェームス・ボンド。 小説家だよ。 冒険小説が得意でね、今、麻薬の密輸を背景にしたのを書いてるんだ。 ただ、その実情には疎いもんだから、いろいろとうろつき回ってネタを探してるんだ」

              「それでクリスタトスなんかと食事をしてたのね。 あいつは麻薬の密輸であくどい事をやってるって、評判だわ」

              「ほう、どんな評判なんだい?」

              「私、詳しくは知らないわ。 皆が知っている程度の事よ」

              「ところが、私が知りたいのは、そういった話しなんだ。 小説と言っても、私が書くのはまるっきりの作り話じゃ無くて、真相を土台にしたストーリーを書こうと思ってるんだよ。 だから、そんな裏話しは値千金なんだよ。 話しを聞かせてもらえたら、ダイヤのブローチをプレゼントするけどね」

                ボンドは手を伸ばして、女の膝の上の手を取った。

                タクシーがアンバサドリ・ホテルに近づいていた。

                女は手を引っ込めると、ハンドバッグを取った。 ボンドの方を向いて、真剣な目線を向ける。

              「いいわ。 会ってあげる。 でも、こんな話しは人なかでは出来ないわ。 私、午後はアルベロニ海岸で日光浴をしているわ。 半島のとっ先よ。 だから、あさっての午後3時にそこに来てちょうだい。 ポンポン船に乗って来ればいいわ。 黄色いパラソルが目印よ。 ノックしてリスル・バウム嬢がご在宅か尋ねてちょうだいな」

                ホテルのポーターがタクシーのドアを開いた。 女に続いてボンドもタクシーを降りる。

              「さっきは助けて下さってありがとう。 じゃ、おやすみなさい」 女は手を差し出した。

              「じゃあ、おやすみ」 ボンドはその手を軽く握って、そう応えた。

               

              *****

               

                引き続き 「危険/後編」 へどうぞ。

               

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              007おしゃべり箱 Vol.52A−6 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「危険」ストーリー編/後編』

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                「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                 

                「危険/後編」

                 

                Risico ~ Latter Part

                 

                 『危険/前編』 からの続きです。

                 

                  その日、ボンドはアルベロニ行きの12時40分の渡し船に乗った。

                  桟橋で降りると、アルベロニ海岸まで、半島を回る様に半マイル歩く。

                  有名なこの半島の突端は、妙に人けの無い世界だった。

                  かつては豪奢だった別荘が、空き家になって並んでいる。 砂丘や藪が背の高いフェンスで囲ってあって、「地雷―危険」と書かれた札がドクロのマークと共に立っていた。 まだ戦争中の地雷の処理がそのままになっている様だ。

                  小道から海岸に出る手前に、朽ちかけた木のゲートがあった。 “アルベロニ海岸”と色あせた文字が見える。

                  ゲートをくぐると、荒れ果てた木の小屋が何軒か並んでいて、その向こうに砂丘が100ヤード程続いていた。 その先は静かな青い、鏡の様な海が広がっている。

                  海水浴客など1人も見えない。 夏の盛りでも、あまり流行っていないだろう。

                  ボンドは狭い踏板の上を歩いて、砂浜に出た。

                  左はずっと砂浜が続いていて、右の方は半マイルばかり先に半島の先端の防波堤が伸びていた。

                  浜辺の背後は砂丘で、その砂丘のはずれの500ヤード程先の所に、ポツンと1点、派手な黄色が見えた。

                  ボンドは渚づたいに歩いて行く。

                  女は黒のビキニ姿で、白黒模様のタオルの上に横たわっていた。 薄目を開けると、ボンドを見上げる。

                  ボンドは大きなパラソルの陰に、女の隣りに腰を下した。

                「ちょっと早かったわね。 それに、ノックしなさい、と言ったのに」

                「こんな砂漠みたいな場所で君のパラソルだけが、ただ1つの日陰だよ。 ランデブーには酷い場所を選んだもんだなあ」

                  女は笑った。

                「でも、仕事で来たんでしょ。 あたしが麻薬の密輸の話しをして、あなたがダイヤのブローチをくれる。 それとも気が変わったのかしら?」

                「そんな事は無いさ。 で、どこから始めようか?」

                「そっちから質問しなさいよ。 何を聞きたいの?」

                  女は起き上がって膝を抱え込むと、用心深い目付きをボンドに向けた。 

                「噂によるとコロンボと云う男が黒幕だそうじゃないか。 彼の事を話してくれないか? 仕事はどう采配してるとかね」

                  女は目を伏せた。

                「そんな秘密をあたしがしゃべったとエンリコが知ったら、どんな目に合わされるか知れないわ」

                「彼は気付きやしないさ」

                  女は真面目な顔をしてボンドを見つめた。

                「ダメよ、ボンドさん。 あの人には解らない事など無いの。 それにあの人は、とても疑り深い人なのよ。 この私に尾行を付けていたとしても、不思議でも何でも無いわ」

                  女がボンドの袖に手をかけた。 怯えた様な顔をしている。

                「ねえあなた、もう帰った方がいいわ。 こんな事をして、大変な間違いだったわ」

                  ボンドは辺りを見回した。

                  例の小屋が並んでいたあたりに、陽炎でチラチラしながら、3人の黒っぽい服の男達が見えた。

                  3人は散開した分隊といった様に横に広がって、歩調をそろえて歩いて来る。

                  ボンドは立ち上がった。 タオルに俯いている女を見下ろす。

                「分ったよ。 コロンボに伝えてくれ。 こっちは奴の伝記をかいてやる、とね。 じゃあ、あばよ」

                  そう言い残すと、ボンド半島の先端に向かって走り始めた。 走りながらネクタイを外してポケットに突っ込む。

                  先端まで行ったら向こう側の浜を逆戻りすれば、人里に出られるだろう。

                  既にボンドは汗だくになっていた。

                  3人の男はマラソン選手の様に足を早めてきた。 女の側を通る時1人が手を上げると、女もそれに応えて片手を上げた。

                  ボンドは半島の先の堤防の上に登った。 追っ手との距離はそのままの様だったが、2人が柵を越えて横に展開していく。 2人はドクロのマークなど気にしていない様だ。

                  ボンドは海岸に沿った堤防の上を走った。

                  このままでは2人に追いつかれてしまう。

                  喉がゼイゼイする。 ズボンが足にベットリとまつわり付いた。

                  3人の追っ手と撃ち合いをして血路を切り開くか、そんな事を思った時、行く手の日差しの中にモリを持った一団が見えた。

                  その時、砂丘の方から腹の底に響く様な、爆発音が聞こえた。 砂丘のもう1人の男は、立ち止まってわけのわからない悲鳴を上げている。 そして頭を抱えて、しゃがみ込んでしまった。

                  ボンドは少し気が楽になった。 行く手の漁師たちはひとかたまりになって、ボンドの方を眺めている。

                  ボンドはわずかばかりのイタリア語を思い出そうとした。 「私はイギリス人だ。 悪者に追われている」 そして後ろを振り返った。

                  追っての男はまだ追いかけて来ていた。 前方の漁師たちは、ボンドの行く手をはばむ様に散開した。 そしてモリをボンドの方に向かって構えている。

                  漁師たちの中央に立っていたのは、エンリコ・コロンボだった。

                  ボンドは走るのを止めて歩き出した。 そして上着の下から拳銃を抜く。

                  コロンボはボンドが近づいて来るのを、じっと見つめていた。 20ヤードばかりになって、おもむろに口を開いた。

                「そのオモチャはしまっておいた方がいいな、英国秘密情報部のボンド君。 こっちは最新式のガス式のモリ銃だよ。 下手に動かん方がいい」

                  ボンドは足を止めた。 すぐ傍らに鉄の杭が立っていたので、それに背を預けて腰を下した。 拳銃を膝の上で構える。

                「モリを5本撃ち込んでも、お前さんの腹に飛んで来る弾丸は止められないぜ」

                  コロンボはニヤリと笑って頷いた。 ボンドもニヤリと笑い返す。

                  が、後ろから忍び寄って来た男にルーガー拳銃で頭を殴られて、気絶してしまった。

                 

                  意識を取り戻したボンドは、自分が船室のベッドに寝かされているのに気が付いた。

                  船はゆっくりとローリングしている。

                  1人の男がベッドの脇に立っていて、ボンドの額を冷たいタオルで拭いてくれていた。

                「大丈夫ね、ともだち。 楽にする」 男はさっきモリを構えていた1人だ。 「元気あるか? 痛み直ぐに無くなる」 たどたどしい英語でそう言うと、ボンドの腕時計を見せて9時を示した。 「ボスが会う。 いいか?」 

                「OK」 ボンドが応えると、男は船室を出て行った。 鍵はかけなかった。

                  ボンドはゆっくりとベッドから下りた。

                  タンスの上に、自分の持ち物が全て並べてあった。 が、拳銃だけは無かった。

                  どうも妙だ。 さっきの水夫の素振りからすると、コロンボは自分を敵として見なしていない様だ。 それにしては、自分を捕まえるためにずい分と手間をかけたものだ。

                  その上、偶然とは言え、手下の1人が死んでしまっている。

                  この友好的なもてなしの意味は何だろうか? ボンドと何か取引きをしようと云う魂胆なのだろうか?

                  9時になって、さっきの男が迎えに来た。

                  狭い通路を通て、サロンに案内される。 水夫はボンドを残して出て行ってしまった。

                  部屋の中央にテーブルがあって、料理や酒が並んでいた。

                  ボンドは船室の窓を開けて、顔を出してみた。 船は200トンぐらいの、元は漁船の様だった。 暗い海の向こうに、黄色い灯りが連なって見える。 どうやらアドリア海を陸に沿って走っている様だ。

                  ハッチのボルトがガシャンと音を立てた。 ボンドは窓から頭を引っこめた。

                  コロンボが階段を降りて来た。 肌シャツにデニムのズボン、履き古したサンダルといういで立ちだ。

                「さあ、来たれ我が友よ」 コロンボは楽しそうに言いながら、イスの1つに腰を下した。 「何を飲む? ウィスキーか? それともシャンパンかね?」 そしてテーブルの上を指しながら「 こっちはボロニアきっての美味いソーセージだ。 オリーブはうちの自家製だよ。 あれだけ走ったんだから、さぞ腹も減っただろう」 そう言うとニヤリと笑った。

                  ボンドは勝手にウィスキー・ソーダを作ると、イスに腰かけた。

                「私に会うためにずい分と手間をかけたもんだね。 あんたの店で私を引っ掛けた手口はお見通しだよ。 こっちはすっかり本部に報告しといたよ。 罠を承知で乗り込んでみる、とね。 明日の昼までに私が戻らなかったら、イタリアの警察だけで無く国際警察からも荒手がドカドカと押し寄せて来るだろうな」

                  コロンボは不思議そうな顔をした。

                「罠を承知でやって来たのなら、なぜ私の手下から逃げようとしたんだ? 君をこの船に迎えに出しただけなんだぜ。 もっと友好的に出来たハズなんだぞ。 それを、こっちは腕利きの手下を1人なくすし、君だってもう少しで頭をぶち割られるところだったんだ」

                「殺し屋みたいなツラつきの男が3人も出てくれば、あんたが何かバカげた事をたくらんでいると思うじゃないか。 第一、案内だけならあの女だけで充分だよ。 男どもは余計だぜ」

                  コロンボは首を振った。

                「リスルはもっと君から探り出すつもりだったんだ。 今頃は君と同じくらいに俺の事を怒っているだろうな。 人生ってのはむずかしいもんだね。 こっちは誰とでも仲良くしようと思ってるのに、たった1日で敵を2人も作っちまった。 ついて無いよ」

                  コロンボは残念そうに言うと、ソーセージを厚く切ってイライラと口に押し込んだ。

                  そして、ボンドに険しい顔を向けた。

                「君は、こんな手間をかけずに会おうと思えば会えた、なんて簡単に言うが・・・」 ここでコロンボは両手を広げてみせた。 「そんな事がこっちにどうして解かる? だいたい君は、俺を殺せと言われて引き受けただろ。 自分の命を狙う奴と、どうして友好的な会合なんて出来るんだ? そうだろう? さあ、聞かせてもらおうじゃないか」

                  コロンボは長いロールパンを取ると、がぶりと嚙み付いた。 その目は怒りに燃えている。

                「何の話しだね?」 

                  ボンドがそう言うと、コロンボはかじりかけのロールパンをテーブルに放り出して立ち上がった。 

                  そして部屋の隅のタンスに行くと、ボンドを見つめながら引き出しからテープレコーダーを取り出す。

                  コロンボはそれをテーブルに持ってくると、スイッチを入れた。 

                「・・・商売人らしくきちんと話しをしておこう・・・」 テープレコーダーからクリスタトスの声が流れ出た。 コロンボはテープを進める。

                「・・・その組織の首領は極め付きの悪党でね。 そいつを始末せねばならない。 殺すんだ」

                  ボンドはウィスキーのグラスを取り上げた。 この最後の条件を考えるために、かなり間があったはずだ。 何て答えたんだっけ? テープレコーダーから自分の声が流れてきた。 「それは約束出来ないな・・・」

                「この会話では、私が殺し屋だとは言えないだろう」

                  コロンボはテープレコーダーのスイッチを切った。

                「俺にとっては殺し屋同然だ!」 コロンボは悔しそうに叫んだ。 「しかもイギリスの殺し屋ときた。 いいか、俺は戦争中は地下運動でイギリスのために働いたんだぞ! 勲章だって貰ってるんだ!」

                  コロンボはポケットに手を突っ込むと、銀の名誉市民章をテーブルの上に放り出した。

                  ボンドはコロンボを見返した。

                「テープは最後まで聞いたんだろ。 あんたはイギリスの味方じゃ無くて、とっくに敵になっているんだ」

                  コロンボはイライラとテープレコーダーを叩いた。

                「もちろん、全部聞いたさ。 だが、あんな話しはデタラメだ!」 そう言って拳でテーブルを叩いた。 「ウソも嘘。 大ウソだ! ひと言残らず真っ赤な嘘だ!」

                  ぐいと立ち上がると、イスが後ろにひっくり返った。 コロンボはイスを起こすと、テーブルの上からウィスキーのボトルを取り上げた。 「まあ、まるっきり嘘とは言い切れんかもしれんな」 そう言ってボンドのグラスにウィスキーを注いだ。 そして、ボンドに探る様な視線を向けた。

                「なあ君、そもそも俺は密輸屋なんだ。 たぶん地中海で最も成功している密輸屋だろうな。 現に イタリアに入ってきているアメリカタバコの半分は、俺がタンジールから運んだ物だ。 貴金属の闇ルートは俺が握ってるし、ダイヤモンドもシエラレオネや南アフリカからの闇ルートもそうだ。 昔はオーレオマイシンやペニシリンなんかも扱ってたんだ。 逃亡犯の密航にも手を貸した事がある。 だがな・・・」 コロンボは再びテーブルを叩いた。

                「だがな、麻薬やヘロインはやってないぞ! 今まで1度もやった事は無いし、これからも手を出すつもりは無い! 誓ってもいい」 「奴は君に自分の事を語ったんだ。 俺の名前の代りに奴の名前をあてはめればいいのさ。 アヘンからヘロインを精製しているのも、ロンドンヘ定期便みたいに密輸しているのも奴の仕業だ」

                  またずい分と、あからさまに話しをする男だ。

                「私にその話を信じろ、と言うのかな?」

                「では、君はクリスタトスの話しの方を信じるのかね?」

                  コロンボはニヤリと笑って、ボロニアソーセージを食い千切った。

                  ボンドはこの貪欲で陽気な海賊に奇妙な好感を感じ始めていた。 が、チョッと搦め手から攻めてみる。

                「しかし、なぜクリスタトスはあんたを殺してくれ、なんて言ったのだろう?」

                「そりゃ俺が知り過ぎている男だからさ。 それにイギリスへのルートは大きいからな。 それなりの大者として俺を選んだんだろう。 奴とは密輸稼業で時々ぶつかってるんだ」

                  ここでコロンボはいたずらっぽく笑った。

                「君はボスから、ヘロインの密輸ルートをあばけ、とでも言われて来たんだろう」

                  ボンドは答えなかった。

                「まあいいさ。 いずれにしても君はヘロインの流入をなんとかしろ、と言われて、このイタリアにやって来たわけだ」

                  ボンドは静に頷いた。

                「では、あと数時間で君の任務は終わるよ。 君は信じないかもしれないが、夜明けには君の任務は終わるんだ。 君がイタリアまで派遣された真相が見られるぜ」

                「私に代ってヘロインの密輸ルートを片付けてくれると言うのかい?」

                「結果として、そうなるな」

                「それで、いくら欲しいんだ?」

                「金などいらん。 いずれはかたを付けなくてはならなかったんだ。 しかし、1つだけ約束してもらえないかね?」

                「どんな事だろうか?」

                「今の話しはここだけの事として欲しいのだ。 もし必要があっても、ロンドンの大将の耳に入れるだけにしてもらいたい。 こっちに影響が来ない様にして欲しいんだ。 いいかな?」

                「それは約束しよう」

                  するとコロンボは立ち上って再びタンスまで行った。 引き出しを開けてワルサーPPKを取り出す。

                「それならば、これは返しておくよ。 必要になるからな」 コロンボはそう言うとボンドに拳銃を手渡した。 「それに、ひと眠りしておいた方がいい。 朝の5時に集合だ。 みんなでラム入りコーヒーを飲むんだ」

                  コロンボは手を差しのべた。 ボンドはその手を友人として握った。

                 

                  サロンに集まった男達は誰もが一癖ありそうな面構えをしていた。

                  シャツの下にルーガー拳銃を差し込んで、ポケットにはジャックナイフを忍ばせている。

                  コロンボはそんな連中にラム入りコーヒーを配っていた。

                  コロンボは1人1人に声を掛けて、肩を抱いたり尻を叩いたりしながら、誉めたり小言を言ったりしている。

                  ボンドはコロンボが人生を楽しんでいるのが解った。

                  冒険とスリルと危険の人生。

                  確かに彼は密輸を行う悪党だが、そんな悪党ぶりを楽しんでいる。

                  コロンボは時計を見ると、男達を持ち場に向かわせた。 そしてボンドを促すと、ブリッジに上がる。

                  船は岩だらけの海岸線に沿って、ゆっくりと進んでいた。

                「あの岬を回った向こうに港がある。 桟橋にはこっちと同じくらいのアルバニアの船が着いていて、ロール状の新聞用紙を荷下ろししているはずさ。 こっちは岬を回ったら全速力でその船に横づけして、乗り移る。 アルバニアの連中は荒っぽいからな、きっと撃ち合いになるぜ。 君もせいぜい上手く立ち回ってくれよ。 連中は我々の敵だが、イギリスの敵でもあるんだからね」

                「いいとも。 承知した」

                  ボンドの声が終わらないうちに、足元の甲板がブルブルと震え出して、船は岬を回っていった。

                  コロンボが言った通り、石造りの桟橋に船が着いている。 向こう側の甲板の上に、新聞用紙の大きなロールが積んである。 

                  船尾からトタン屋根の倉庫に向かって、木の踏板がのびていた。

                  あたりには20人ばかりの人影があった。 中の数人が手を止めてこっちを見ている。

                  1人が倉庫に駆け込んでいった。

                  それを見たコロンボが、鋭く命令を下した。

                  ブリッジのサーチライトが点いて、アルバニア船に横づけする所を照らし出した。

                  コロンボは手下の男達と共に、一斉に乗り移っていく。

                  ボンドはアルバニア船を突っ切ると、桟橋に飛び降りた。

                  甲板の上で撃ち合いが始まった。 サーチライトが打ち抜かれて、あたりは薄暗い早朝の明かりだけになる。

                  敵の1人がボンドの目の前に落ちて来た。 ぶざまにのびたまま身動きしない。

                  倉庫の入り口からマシンガンが火を吹きだした。

                  いやに馴れた手つきで、バリバリッ、バリバリッ、と撃ちまくってくる。

                  ボンドは暗い船の影の中を走った。

                  マシンガンの男はボンドに気が付いて、バリバリと撃ってきた。

                  ボンドは踏板の下に転がり込む。

                  弾丸がうなりを上げてボンドの側を通り抜ける。 頭上の踏み板にもブスブスと突き刺さった。

                  ボンドは腹這いになって前に進んだ。

                  上の方で続けざまにドシンドシンと音がして、用紙のロールが踏板の上を転がっていく。

                  すかさずボンドは飛び出した。 マシンガンの男に狙いを付けて引き金を引く。

                  男はマシンガンの火をねずみ花火の様にまき散らしながら倒れた。

                  ボンドは倉庫に向かって走り出した。 が、すぐに足を滑らせてつんのめってしまった。

                  体が糖蜜の溜まりに突っ込んでだ。 ボンドは横に転がった。

                  ボンドの側をロールが転がっていく。 パシャッと黒い糖蜜をはね飛ばした。

                  ツーンとした甘い匂い。 1度メキシコで嗅いだ事のある匂いだ。

                  糖蜜じゃない。 生のアヘンだ。

                  ボンドは倉庫の入り口に駆け寄った。

                  中はひんやりとして静かだった。 新聞用のロールが、通路を残して整然と積み上げられている。 通路の突き当りにはドアがあった。

                  ボンドは死の匂いを嗅ぎつけた。

                  コロンボがドタドタと駆け寄って来た。

                「中に入るな」 ボンドは高飛車に叫んだ。 「手下も入れるな。 こっちは裏口に回る」

                  返事も待たずにボンドは走って倉庫の角を回った。

                  裏側の角の所まで来ると、ボンドは顔をのぞかせた。

                  裏口に男が1人立っていた。 クリスタトスだ。 のぞき穴の様なところから倉庫の中を窺っている。

                  その手にはドアの下から伸びたコードの付いたスイッチが握られていた。

                  フードをたたんだクルマが1台、エンジンをかけたままクリスタトスの側に停まっている。

                  ボンドは膝をついてワルサーを構えると、引き金を引いた。

                  クリスタトスの足元で土が舞い上がる。 外れた。

                  クリスタトスが振り向いた。 次の瞬間、もの凄い爆発音と共に、倉庫の壁のトタン板がボンドをはじき飛ばした。

                  ボンドは慌てて起き上がる。 倉庫は奇妙な恰好にひしゃげていた。

                  クリスタトスはクルマに乗りこむところだった。

                  乱暴にギヤを入れると、土ぼこりを巻き上げて走り出す。 そのまま坂道を登り始めた。

                  ボンドは両手でワルサーを構えると、慎重に狙いを付けた。

                  続けざまに3発撃つ。

                  運転席のクリスタトスがガクンとのけぞった。 両手がハンドルから離れて左右に広がる。 そしてシートの向こうに崩れ落ちた。

                  死体がアクセルを踏み続けたままなのだろうか、クルマはそのまま道の轍に沿って走り続けていく。

                  ボンドは立ちすくんだまま、フラフラと坂道を登っていくクルマを見送った。

                 

                「いよう! 友よ!」 コロンボが走り寄ってきた。 そしてボンドに抱きつき、左右の頬に接吻した。

                「おいおいコロンボ、勘弁してくれ」

                「おう! ダンディーなイギリス人ってとこだな!」 コロンボはゲラゲラとわらいながら怒鳴った。 「敵を恐れず、されど無謀を恐れる、か? だがな、あのマシンガン野郎をやっつけてくれなかったら、こっちは全滅させられちまうところだったんだぜ。 実際、手下を2人もやられちまったし、手負いも出たんだ。 そっちはあのクリスタトスの野郎を片付けたようだな。 俺は、エンリコ・コロンボはこの男に惚れたぞ。 堂々と言うぞ」

                  コロンボはボンドの肩をたたいた。

                「ぼちぼち引き上げだ。 アルバニア船は船底を抜いたからすぐに沈むよ。 ここには電話は無いから警察が来る前におさらば出来る。 さっさと逃げ出すぜ。 それに、ベニスからこっち側には、ろくな医者がいないからな」

                  焔がひしゃげた倉庫をメラメラと舐め始めた。 甘い匂いのする煙を吐き出している。

                  アルバニア船は甲板が波に洗われていた。 ボンドとコロンボはその甲板を渡って、コロンビナ丸によじ登った。 船の上でボンドは握手ぜめになった。

                  2人が乗るとすぐに船は錨を上げて岬に向かう。

                  港には数人の漁師が立っていた。 みな険しい顔をしていたが、コロンボが手を振って叫ぶと、手を振り返してきた。

                  1人の漁師が何か怒鳴ると、一同はどっと笑った。

                  コロンボがボンドに振り返る。 「アンコナで観る映画より面白かったから、また来てやってみせてくれ、だとさ」

                  ボンドは急に肩の荷が降りた様な気分になった。

                  船室に降りると、裸になって体を洗った。 水夫の1人から剃刀と新しい服を借りて着替える。

                  改めて拳銃を手にすると、火薬の臭いが鼻についた。 思わず、さっきの活躍と大勢の死を思い出す。

                  ボンドは船室の窓を開けた。 海は朝日を照り返して光っていた。 黒々とした対岸は、今は緑色に輝いて美しい。

                  急にベーコンを炙る旨そうな匂いが漂ってきた。 ボンドは窓を閉めてサロンに飛んでいく。

                  コロンボがラム入りコーヒーを飲みながら、山の様なベーコン・エッグスを平らげていた。

                「さっきの仕事で、クリスタトスの麻薬精製の1年分の原料を灰にしちまったんだ」

                  コロンボはトーストをかじりながらそう言った。 「ところで、面白い事を教えてやろう」 コロンボはボンドの目をのぞき込んだ。 「奴はヘロインの密輸で一文も資本を出してないんだ。 どうしてだと思う? 原料は全部ソ連からの贈り物なのさ。 コーカサスのケシ畑からいくらでも採れるし、中継にはアルバニアはもってこいだからな。 ヘロインをイギリスに向けてぶっ放す道具が、クリスタトスだったんだ。 奴はソ連の手先をしながら、カネを稼いでいたのさ」

                  コロンボは満足げに頷いてみせる。

                「俺たちは力を合わせて、その陰謀を30分ばかりでぶち壊してやったんだ。 これで君は国に帰って、麻薬ルートは破壊した、と報告出来るぜ。 それに、このルートの出処はイタリアじゃ無いって真相を報告する事も出来るんだ。 相手はソ連だとね。 たぶんソ連の破壊活動の一部なんだろうな。 ま、俺にはそこまで詳しい事は判らんがね」

                  コロンボはそこまで言うと、笑顔を見せた。

                「英国情報部のジェームス・ボンドよ、あんたはきっと、そいつを調べてこい、とソ連に行かされるだろうな。 もしそうなったら、君の仲良しのリスル・バウム嬢が案内役になってくれる事を祈るよ」

                「仲良しとはどういう意味だい? 第一、彼女はあんたの女だろう?」

                  コロンボは首を振った。

                「それがなあ、俺には仲良しは大勢いるんだ。 君だって報告書をまとめる為に、まだ数日はイタリアに居るだろう?」 コロンボは笑っている。 「俺の話しの裏付けを取ったり、アメリカ側の連中にだって真相を説明してやらねばならんしな。 そういう仕事の合間には連れも欲しかろう。 彼女がその役を買ってくれるさ」

                  コロンボは片目をつぶってみせた。

                「もっとも、彼女にくだくだ言う必要は無いだろうね。 俺の勘では、リスルは君の帰りを首を長くして待っているよ」

                  コロンボはズボンのポケットを探ると、テーブルの上にカチンと投げ出した。

                「理由はこれさ」 コロンボは真顔でボンドを見つめた。 「心から君に贈るよ。 たぶん彼女もそのつもりだろう」

                  ボンドは手に取ってみた。 厚い真鍮のプレートが付いた鍵だった。 

                  鍵には文字が彫ってあった。 アルベルゴ・ダニエリ 68号室。

                 

                *****

                 

                  引き続き 「珍魚ヒルデブランド/前編」 へどうぞ。

                 

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                007おしゃべり箱 Vol.52A−7 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「珍魚ヒルデブランド」ストーリー編/前編』

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                  「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                   

                  「珍魚ヒルデブランド/前編」

                   

                  The Hildebrand Rarity ~First Part

                   

                    礁湖ベル・アンスはセーシェル諸島でも1番大きなマヘ島の南端近くにあった。

                    北西モンスーンのシーズンは何ヶ月も前に終わっていたし、南東モンスーンのシーズンは来月からなので、4月のこの時期の海は鏡の様に静かだった。

                    ボンドは足に付けた水かきで静かに水を蹴って、海底を進むアカエイを追っていた。

                    そのアカエイは幅が6フィートぐらいで、長さは尻尾の先まで10フィートはあるだろう。

                    その尻尾には猛毒のトゲがある。 アカエイの針でチクリとやられたら命は無い。

                    サンゴ礁が目の前に迫って来た。

                    色とりどりのサンゴの間を、ウグイの群れが通っていく。

                    ボンドはアカエイの海側に回った。 エイを岸の方に追い上げる為だ。

                    海面を進むボンドの影に追われる様に、アカエイは海底近くを這う様に進んでいく。

                    アカエイが止まった。

                    ボンドも泳ぐのを止めて静かに頭を上げると、水中眼鏡の中の水を出す。

                    海底を覗くと、アカエイの姿は隠れていた。

                    海底の砂地を注意深く見つめると、砂に埋もれた微かな輪郭が分った。

                    鼻の穴みたいな小さな所から、規則的に細かい砂が舞い上がっている。

                    的はその穴の1インチ向こう側だ。

                    ボンドはチャンピオン式の水中銃を持っていた。 2重のゴムバンド式のやつだ。

                    尻尾が飛んで来そうな間合いを慎重に見定めてから、ボンドは引き金を引いた。

                    海底の砂がわっと舞い上がって、アカエイの姿が現れた。

                    モリの紐がピーンと張りつめる。 アカエイは毒のトゲの付いた尻尾を振り回している。

                    その尻尾が届かない距離を測りながら、ボンドは紐を引っぱった。

                    このアカエイの尻尾は、昔、インド洋の奴隷商人がムチに使っていたと云う。

                    今ではこのセーシェル諸島では、これを持っているだけで罪になるのだが、家の中ではひそかに使っている者もいる様だ。 この辺りでは、不貞の妻に対しては「アカエイを喰らわせる」と言うらしい。

                    アカエイはだんだん弱ってきていた。 ボンドは前に出て、浅瀬にアカエイを引っぱっていく。

                    浜に上がると、紐を引っぱってアカエイを砂浜の上の方まで引きずり上げた。

                    アカエイは白い腹を陽光に照らし出されながら、口を不気味にパクパクさせている。

                    さて次はどうしようか。 ボンドは思案気にアカエイを見下ろした。

                   

                    シュロの木の下から、カーキ色のシャツとズボンを付けた背の低い太った白人が出て来た。

                  「ほほう、大した獲物だな」

                  「ああフィデル、すまんが若い者を呼んでくれないか? こいつはまだくたばりそうも無いし、こっちのモリが刺さったままなんだ」 ボンドは振り返ると、そう言った。

                    このフィデル・ハービーは、セーシェル諸島の殆ど全ての島を持っているハービー一族の末裔なのだった。

                  「ああ、水中銃は後で若い者を取に寄こすとしよう。 だが、あんたは引き上げだ。 ビクトリアまで送っていくよ。 面白い話しがあってね、用事が出来たんだ。 ところで、こいつの尻尾は欲しいかね?」

                  「いや、まだ女房はいないんでね。 すると、今夜の宴会はどうるんだ?」

                  「中止だよ。 行こう。 あんたの服は?」

                   

                    フィデル・ハービーはステーションワゴンを海岸通りに乗り入れた。

                  「面白い話しとは、何だい?」

                  「ミルトン・クレストってアメリカ人を知っているかい? クレスト・ホテルとかクレスト財団とかの持ち主だよ。 で、その男はインド洋で一番上等なクルーザーを持っていてね、そのクルーザーが昨日港に入って来たんだ。 200トン近くもある“なみがしら号”って名前さ。 とにかく、おっそろしく豪華な船なんだ。 だから、そのクレストって男がグランド・スラムをダブルにした様な嫌な野郎でも、かまうもんかって気になるよ」

                  「誰がかまうと言うんだい? そもそも、それが私と何の関係があるんだい?」

                  「実はね・・・」 と言って、フィデル・ハービーが語ったところによると、クレスト氏は自分の財団の仕事で、シャグリン島にしか生息していないある魚の標本を採る為にやって来たらしい。

                    ボンドとハービーはクレスト氏のクルーザーに乗って−べっぴんの奥さんと一緒だそうだ−シャグリン島まで案内して魚の採取を手伝う、と云う事だと言う。

                  「まあ面白そうな話しではあるけど、私に関わりがあるとは思えないがね」

                  「何を言ってるんだ。 あんた、退屈してるじゃないか。 ましてや、次にキャンパラ丸が来るまでまだ1週間もあるんだぜ。 クレスト氏には、あんたはこの辺りじゃ潜りのナンバー・ワンだから魚探しならもってこいだと売り込んだんだよ。 クレスト氏は喜んでいたよ。 それで話しは決まったわけさ」

                    ボンドは笑った。 「まったくこの島の連中の、海を怖がる事といったら、どうかしてるよ。 このセーシェル諸島では泳げる奴は少ないんじゃないかな」

                  「カトリック教会のせいさ。 服を脱ぐのに抵抗があるんだよ」

                  「まったくなあ、近くの海には子安貝だけでも50種類以上いるんだぜ。 こいつを売れば左ウチワで暮らせるものを」

                  「はは・・・、そいつは名案だね。 “セーシェル諸島の貝(シー・シェル)を売ろう”ってわけか」

                    フィデルは吹き出した。

                    クルマがマヘ島のおそまつな首府に近づくまで、2人はそんな軽口をたたいては笑い合った。

                   

                    ボンドがМからセーシェル諸島へ行ってこいと言われたのは、1ヶ月近く前の事だった。

                    海軍がセーシェル諸島に新しい基地を計画している、という。

                  「治安の状況を見てきてくれ。 それと住民がストライキや何らかのサボタージュを起こす様な隠れた兆候が無いかどうか、だ。 現地からの報告では、そんな事は無い、と言ってきとるんだが、海軍が気を揉んでいてな」

                    ボンドの報告書は1週間前に送ってあった。

                    結論は、セーシェル諸島は景色が良くて住民は人なつっこいから、仕事の点ではストライキやサボタージュみたいな結果になってしまう事が懸念される、だった。

                    それっきりボンドには、次の定期船が来るまで何もする事が無くなった。

                    この1週間、ボンドはバービーの家に泊まってブラブラしていた。 だから、目先の変わった事があれば、飛び付かざるを得ない状況ではあった。

                    ボンドとバービーは荷物を取に家に寄ると、すぐに波止場に向かった。

                    白い大型のクルーザーが沖に停泊している。

                    2人は船外エンジンの付いたボートに乗り込むと、環礁の切れ目を抜けてクルーザーに向かった。

                    “なみがしら号”は決して優雅なクルーザーでは無かった。 船腹が大きく、船体はごつい線を見せている。 だがこの船は7つの海を乗り切れる船だ、とボンドは感じていた。

                    ボートを寄せるとすぐに水夫が2人現れて、ボンドとバービーを中に案内した。

                    サロンの空気は凍り付きそうな冷たさだった。

                    ベネチアン・ブラインドを半分降ろした窓は広々と大きく、中央のテーブルを囲んだ肘掛イスも深々としていた。 絨毯は毛足の長いパイル地だ。

                    一方の壁には、酒のボトルが並んだ飾り棚があって、その隣に大きなレコードプレーヤーのセットがあった。

                    都会の住宅の豪奢な居間、といった趣きだ。 富と安楽が部屋の隅々にまで漂っている。

                  「どうだい? 俺の言った通りだろう?」 ハービーがニヤニヤ笑いながら言った。 ボンドは感心して頷いた。

                  「こんなに冷房が効いている部屋は久しぶりだよ。 ホッとするね」 

                    その時、2人の後ろから声がした。 「この空気はただ冷やしたのじゃ無いんだ。 缶詰にした空気だよ」

                    いつの間にかミルトン・クレストがサロンに入って来ていた。

                    50歳をちょっと過ぎた、一筋縄ではいきそうも無いしぶとそうな男だ。

                    弛んだ瞼の奥の目はが、人を小ばかにした様に光っている。 への字に曲げた口は、愛嬌か軽蔑か? どうやら軽蔑の方らしい。

                  「君がボンドか? よく来てくれた」 クレスト氏はボンドに歩み寄ると、手を差しのべた。 「ただの潜りか? それともアクアラングをやるのか?」

                  「素潜りです。 深いとこはやりません。 ほんの道楽でしてね」

                  「では、本業は何だね?」

                  「公務員ですよ」

                    クレスト氏は吠える様な笑い声を上げた。

                  「そいつは願ったりだ。 君達イギリス人は執事や従僕にはうってつけの人種だからな。 私は慎ましくて従順な召使いが欲しいと思っていたところなんだ」

                    甲板のハッチが開く音がしたおかげで、ボンドの癇癪玉が破裂しないで済んだ。

                    小麦色に日焼けした裸の女性が階段を降りて来たのだ。

                    いや、裸に見える様なだけで、薄茶のサテンのビキニを付けてはいた。 が、裸に見える様なデザインの水着だった。

                  「おう、お前か。 どこに居たんだ?」 クレスト氏は鷹揚に言うと、2人に向けて手を振った。 「これは、一緒に行くバービー君とボンド君だ」  そして女の方に手を向けた。 「これが家内のリズだ。 5人目の女房だよ」

                    クレスト夫人は可愛い笑顔を見せた。

                  「どうぞよろしく、バービーさんにボンドさん。 ご一緒出来て嬉しいですわ。 お飲み物は何になさいます?」

                  「ちょっと待った。 船の中は万事私が決めるんじゃなかったかな」

                    クレスト氏が穏やかな口調で横槍を入れた。 

                  「あら、あなた、もちろんですわ」 女が慌てて応えた。

                  「よろしい」 クレスト氏はそう言うと、一同を面白そうに見回す。 「この“なみがしら号”の主人が誰だか、はっきりとさせておかねばな」 そう言って大げさに頷いた。

                  「ところでハービー君、君の名前は何といったっけ? フィデル? ふん、誠忠=フィスフルのフィデルか。 いい名だ。 だがめんどくさいからフィドと呼ぶ事にしよう」 

                    クレスト氏は笑い声を上げた。

                  「ではフィド、ブリッジに上がって船を出発させようじゃないか。 外海に出て針路を決めてしまえば、後は航海士のフリッツに任せておけばいい。 この船には他に2人が機関室とキッチンに居る。 皆ドイツ人だよ。 ヨーロッパでは筋金入りの船乗りはドイツ人しかいないからな」

                    クレスト氏はボンドに向き直った。 「ところで君の名は? ジェームスか。 ジムでいい。 ではジム、君は公僕らしく家内を手伝ってくれ。 食前に1杯やる時のつまみを作るんだ。 家内はイギリス生まれだから、話しも合うだろう。 いいな」 そして階段を駆け上がりながら子供みたいに叫んだ。 「さあ来い、フィド。 とっとと出発だ」

                   

                    ハッチが閉まると、ボンドは大きく息を吐いた。

                  「主人の冗談をあまり気になさらないで」 クレスト夫人がとりなす様に言った。 「あれでもシャレのつもりなんです。 それに、人を怒らせるのが好きなんです。 嫌な癖ですけど」

                    ボンドは安心させる様に笑顔を見せた。 亭主がこういったシャレとやらをバラ撒くそばから、こうして夫人が言い訳を並べているのだろう。

                  「アメリカへ帰ってもこんな調子なんですか?」

                  「国に帰れば、あんな態度をとるのは私にだけですわ。 お解りでしょうけど、主人の父親はドイツ人なんです。 しかも生粋のプロシャ人。 だからあの人はドイツ流のバカげた考え方が染み付いているんですの」

                    やっぱりそうか。 暴君的ドイツ人の典型だ。 美しい妻も、奴隷を飼っている程度にしか思っていないだろう。

                  「結婚して何年になるのです?」

                  「2年ですわ。 私、あの人のホテルの1つで受付をやってましたの。 それが奥さんに迎えてもらえて、まるで夢の様ですわ。 それに、しょっちゅう何か買ってくれて、私にはとても良くしてくれるんです」

                  「そうでしょうな。 ご主人はそういうのがお好みらしい」

                  「ほんと」 しかし、夫人の声にはあきらめに似た響きがあった。 「あの人は大変な暴君ですからねえ、そういうふうに使えないと、すぐに癇癪を起すんです」 

                    ここで夫人はあまり明け透けにしゃべり過ぎたと気が付いて、慌てて言い足した。 「あらまあ、私ったら何をおしゃべりしてるんでしょう。 同じイギリスのかただと分って、つい身内の様におしゃべりしてしまって・・・。 それに私、上に何か着てきますわ」

                    その時、重々しいエンジンの音が聞こえてきた。 「ほら、船が出ますわ。 後ろの甲板で船出をご覧になてはいかが? 私もすぐに行きますわ。 そう言えば、夜はデッキの方がいいですわよ。 クッションはいくらでもあるし。 船室は空調が効いていますけど、やっぱり狭苦しいですから」

                    ボンドは礼を言ってデッキに出た。 そこは麻の敷物が敷かれていて、船尾にはフォームラバーの半円形のソファがあった。

                    ボンドは船尾から遠ざかるマヘ島の緑を、ぼんやりと眺めた。

                    ディーゼルエンジンの音を聞きながら、つい夫人の事に考えが及ぶ。

                    クレスト夫人の夫に対する態度には、痛々しいくらいに奴隷じみたところがある。 玉の輿に乗ったはいいが、どうやら苦労は絶えない様だ。

                    彼女はホテルの受付になる前に、モデルをやっていたのではないだろうか? 自分でも気付かずに、裸同然のなりで、自分の肢体を見せびらかしてしまっている。

                    しかし、彼女にはモデルにありがちな、冷たい感じは無い。 

                    ただ、その美しさには、まだ青っぽいところが残っている。 齢は30歳くらいだろう。 

                    彼女の一番目立つのは、豊かな金髪だ。 しかし、彼女はそのふさふさの金髪を見せびらかそうとはしていない。 無理に色気を出そうとしないのだ。

                    そもそも、口紅も付けていないし、マニキュアもしていない。 クレスト氏が、ドイツ流の自然な姿を命じたのだろうか?

                    ボンドは肩をすくめた。 おかしな取り合わせの夫婦だ。

                    しかし、この夫婦の間には、何か張りつめたものが漂っている。

                    女房が酒を用意しようとした時の、亭主のあからさまな態度は何だ。

                    夫人のいじいじした態度も気になった。

                    いずれにしても、この船で4日も5日も暮らすのは、あまり気持ちのいいものではなさそうだ。

                    ボンドは癇癪が抑えきれなくなる事が、無い事を祈った。

                   

                  「よおジム、 のんびりしてるな」 上のボート・デッキからクレスト氏の声がかかった。 「女房に仕事を押し付けちまったか? まあよかろう。 女なんてものは、その為に居るんだからな」

                  「奥さんは服を着て来るそうですよ」

                    クレスト氏はボート・デッキの手摺りに手をかけると、ヒョイと飛び降りた。

                  「来たまえ、船の中を案内しよう」

                  「ええ、一通り見せて貰えますか?」

                    クレスト氏はボンドをじろりと見つめた。

                  「この船を作ったのはブロンスン造船所だ。 私がその会社の株の95%を持っているので、思い通りの船を作らせたんだ」 クレスト氏はそう言うと、“なみがしら号”の性能を誇らしげに語った。

                    それから30分、ボンドはクレスト氏に連れられて、贅沢に造られたクルーザーの内部を見て回った。

                    クレスト氏は自分の部屋なで来ると、ノックもせずに開けた。

                    夫人が鏡台の前に座っていた。

                  「おや、酒のつまみはどうした? ジムの為にめかし込んでいるのか?」

                  「ごめんなさい、あなた。 今、行くところだったんです。 ファスナーが引っ掛ってしまって」

                    夫人は慌ててコンパクトを取り上げると、2人におずおずとした笑顔を見せて、出て行ってしまった。

                  「羽目板はヴァーモントの樫の木だよ。 敷物はメキシコのタフト絨毯だ。 そっちにあるのは・・・」 クレスト氏は自慢げに説明をしているが、ボンドはベッドわきのテーブルの陰に掛けてある物に目を止めた。

                    長さが3フィート程もあるアカエイの尻尾で作ったムチだった。

                    ボンドは足を進めてそのムチを手に取った。

                  「こいつはどこで手に入れたんです? 私は今朝、この怪物を1匹退治したんですがね」

                  「バーレーンだ。 あそこでは女房の仕置きに使うんだよ」 クレスト氏は笑いながら応えた。 「もっとも、うちの女房にはひと殴りで十分だよ。 ご利益あらたかだな。 うちではこいつをカントクさんと呼んでるんだ」

                    ボンドはムチを元に戻した。 「そうですか。 しかしセーシェル諸島ではこいつの所持は禁じられているんですよ。 使うなんてとんでもない」 つい目付きが厳しくなる。

                    ドアに向かっていたクレスト氏が振り向いた。

                  「おいおい、この船はアメリカ合衆国の船なんだぜ」 と冷ややかに言った。 「さて、夕食の前に1杯やろうじゃないか」 クレスト氏はそう言うと、ボンドをサロンへと促した。

                   

                    夕食の後、クレスト氏は今度の旅の説明を語り始めた。

                  「アメリカでは財団制度というのがあってな、資産家が節税対策に利用するんだ。 慈善団体とか医療や科学に貢献するって事で財団を作るんだな。 とにかく、金を自分や一族以外で使うのなら税金はかからん」 

                    そこでクレスト氏は財団を作って、スミソニアン研究所と云う自然史の研究所に渡りを付けて、世界各地から珍しい標本を集める事にしたらしい。

                  「これで俺は科学探求の旅をしてるって事になるんだ。 毎年3ヶ月は自腹を傷めずに結構な船旅が楽しめるって寸法さ」

                    フィデル・ハービーが首を振った。

                  「お話しはうまそうですが、そういった珍しい標本ってのはそう簡単に手に入らないんじゃないですか?」

                    クレスト氏がゆっくりと首を振った。 イスの背に反り返ってハービーを見つめる。

                  「君は何も知らんのだな。 金さえあれば何でも手に入るのさ。 例えばパンダが欲しいとする。  そういう時は、資金難で困っている動物園から買い上げればいいんだ。 貝だってそうさ。 札束を突きつければ、たとえ後で向こうが悔しがって泣こうが、とにかく手に入れられるんだ。 時には政府相手に面倒な事もある。 保護されている生き物なんかの場合がそうだ。 それでも最後は金だよ。 よし、実例を挙げてやろう。 俺はプレスリン島の黒オウムが欲しかったし、アハダブラの大亀も欲しかった。 土地の子安貝を網羅したのも欲しかった。 ところが、前の2つは法律で保護されているんだな。 そこで俺は町の様子をちょっと調べてから、総督を訪ねたんだ。 閣下、この地の子供達に水泳を教える為の公共プールが必要だと思います。 いいですよ、クレスト財団が費用を負担しましょう。 5千ドルですか? 1万ドル? では1万ドル出しましょう。 俺はそう言って小切手帳にサインする。 ところで閣下、ちょっとお願いが、と1万ドルの小切手を持ったまま言うんだ。 実は黒オウムと大亀の標本が欲しいのですが、スミソニアン研究所へ持って帰るお許しが頂ければ非常に有難いんですが、とね。 とにかく、多少の文句は聞かされるが、スミソニアンの名前と小切手を持ったままなのが強みさ。 結局、俺も総督もめでたしめでたしと云う事になるんだ。 わかるかな?」

                    クレスト氏は、どうだ、と言わんばかりに笑顔を浮かべた。

                  「子安貝の方はアベンダナ君から譲ってもらったよ。 子安貝の話しになった時、彼が子供の頃から集めているという標本を見せてくれたんだ。 見事な標本だった。 イザベラとマッパという貝なんかは、丁度探してくれと頼まれていたのも揃ってた。 が、生憎と売る気は無いと言う。 彼にとっては子供の頃からの宝物だと言うんだ。 俺は奴の顔を見て、いくら?と言ったさ。 ダメです。 これは売り物じゃ無いんです。 そこで俺は小切手帳を出して5千ドルの小切手を切って、奴の鼻先に突き付けてやったんだ。 奴は小切手をじっと見つめてたな。 5千ドルだぜ。 奴は小切手をたたんでポケットにしまうと、わっと泣き崩れやがった」

                    クレスト氏は、信じられない、という様に両手を広げてみせた。

                  「たかがつまらん貝殻なんだがな。 俺は、気を落としなさんな、と言って標本を頂くと、さっさと退散さ。 あいつが悲しみのあまり自殺でもしちまう前にね」

                    クレスト氏はいい気分でふんぞり返った。 「どうだ? うまいもんだろうが」

                  「アメリカへ帰ったら、きっと勲章がもらえますよ」 ボンドは応えた。 「ところで、お目当ての魚と云うのはどういう魚なんです?」 と、クレスト氏に先を促した。

                    クレスト氏は立ち上がると、机の引き出しからタイプで打った紙を持って来た。

                  「これだ。 珍魚ヒルデブランド。 1925年4月にウィトウォータースタンド大学ヒルデブランド教授によって、セーシェル諸島シャグリン島沖で捕獲された」 クレスト氏がそう読み上げた。

                  「翻訳されたのが裏にかいてあるから、そっちをかいつまんで話そう」 

                  「こいつはイットウダイと云う魚の珍種らしいんだ。 標本はまだ1つしかなくて、発見者の名前からヒルデブランドと名付けられた。 長さは6インチで、色は鮮やかなピンク色。 黒い縦じまがある。 背びれも腹びれもひれは全てピンクで、尾だけが黒いんだ。 同じ種族のどいつよりもひれが鋭いから、見つけても手では掴まん方がいいらしい。 教授の記録では、南西の礁湖の端で3フィートぐらいの深さで見つけた事になっている」

                    クレスト氏は紙をテーブルの上に放り出した。

                  「まあそういう訳だな。 何千ドルもかけて千マイルの旅をするのも、このつまらん6インチの魚を見つける為だ。 こっちは2年前に税務署の野郎に、この財団はインチキだ、なんてぬかされた恨みがあるからな」

                  「でも、あなた・・・」 夫人が口をはさんだ。 「でも、あれは当たり前ですわ。 標本やらなにやらをどっさり持って帰らなければならないんでしもの。 あの恐ろしい税務署の人達が言うには、私達は科学的な旅をしているとはっきりしめさなければ、この船と過去5年間の経費は認められない、と言われたのよ」

                  「余計な口を出さん方がいいぞ」 クレスト氏が猫なで声で言った。 「出過ぎた事を口走ると、後でカントクさんにお目にかかる事になるんだからな」

                    夫人の手がすっと口元を押さえた。 目を大きく見開いている。

                  「やめて、あなた。 お願い」 夫人が蚊の無く様な声で言った。

                   

                  *****

                   

                    引き続き 『珍魚ヒルデブランド/後編』 へどうぞ。

                   

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                  007おしゃべり箱 Vol.52A−8 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「珍魚ヒルデブランド」ストーリー編/後編』

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                    「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                     

                    「珍魚ヒルデブランド/後編」

                     

                    The Hildebrand Rarity ~Latter Part

                     

                     「珍魚ヒルデブランド/前編」 からの続きです。

                     

                      マヘ島を出て3日目の朝、船はシャグリン島に到着した。

                      島は典型的なサンゴ島だった。 砂地とサンゴ礁と低い藪の20エーカーぐらいの島で、周りは50ヤードほどの礁湖で、その外側を環礁がレースの様に取り巻いている。

                      フィデル・ハービーがモーターボートを降ろした。 一行は環礁のすき間から島に向かう。

                      一行が上陸すると、カツオ鳥や軍艦鳥などがいっせいに飛び立った。 が、すぐに舞い降りてしまった。

                      海鳥の糞のツーンとしたアンモニア臭が漂い、藪も糞で真っ白になっている。

                      鳥以外にこの島に住む生き物は、ヤシガニくらいだろう。

                      クレスト氏は天幕を立てる様に命じると、中におさまって様々な道具をボートから降ろすのを眺めている。

                      クレスト夫人はすぐに泳ぎ始めた。

                      ボンドとハービーは水中マスクを着けると、ふた手に分れて礁湖を調べる事にした。

                    「見つけたら怒鳴るだけで、後は見逃さん様にしていればいい。 そいつを捕獲するのにいい道具を持って来てるんだ」

                      ボンドはお伽の国の様な水中を注意深く覗きながら、礁湖の中をゆっくりと進んでいった。

                      泳ぎながらも、頭の中はクレスト夫人の事に向かっていた。

                      夫人は昨日1日、部屋から出てこなかった。 頭痛の様だ、とクレスト氏が言っていた。

                      ボンドは彼女の青い目に、何回か憎しみの色が浮かんだのに気が付いていた。

                      いつかは彼女も、亭主に逆らう日が来るのかもしれない。

                      嫌な亭主を殺しても、あのアカエイのムチが法廷に出されれば、陪審員は誰も有罪とはしないだろう。 そんな事ぐらいわからないのだろうか?

                      ボンドの口から彼女に教えてやろうか? 「ねえ奥さん、あの憎いご主人を殺したって大丈夫ですよ」

                      ボンドは思わず水中マスクの中で笑ってしまった。

                      冗談じゃない。 他人の夫婦に口を出す事など無いのだ。

                      それに彼女は今の生活を嫌がりながらも、仕方なく受け入れているのだ。

                      ボンドは頭からクレスト夫妻の事を追い出すと、どれくらい島を回ったのか見ようと、顔を上げた。 ハービーのシュノーケルが100ヤードたらずの向こうに見える。

                      もう2人で島を1周りしてしまった様だ。

                      2人はぶつかった所から砂浜に上がった。 ハービーがマスクを取った。

                    「こっちはどこにでもいる魚しか見なかったな。 でも、いいめっけもんをしたよ。 大きな真珠貝の群れに出くわしてね。 あれはかなりの金になるな。 近いうちに改めて採りに来よう。 ところで、一杯やって何か食いたいな。 その後で受け持ちを交代してもう1周りしようぜ」

                      クレスト氏が2人の声を聞きつけて、天幕から出て来た。 「ダメだったか?」 と言いながら、脇の下を掻いている。 「アブに喰われた。 ひどい島だな、ここは。 女房はこの臭いが我慢出来ないと言って、船に戻ったよ」

                      そしてクレスト氏は天幕の中を示した。

                    「飯は用意してある。 勝手にやってくれ。 それに氷の袋にビールが冷やしてあるからな。 おい、そのマスクを貸してくれ。 俺もちょいと海の底とやらを覗いてみよう」

                     

                      ボンドとハービーは天幕の中に入ると、ビールを飲みながらチキンサラダを食べ始めた。

                      クレスト氏は浅瀬でボチャボチャやっている。

                    「確かにあのオヤジの言う通りだ」 ハービーが手の甲で口を拭いながら言った。 「ひどい島だな。 鳥の糞とカニばかりで、回りは海だけなんだから。 サンゴ礁がいいなんて言うのは、寒い所に住むヨーロッパ人のたわ言だよ」

                      その時、クレスト氏が立ち上がって手を振りながら大声を上げた。

                    「どうした? トゲのある魚でも踏んづけたか?」 ボンドはそう言うと、水中マスクを取り上げて小走りに海へ向かった。 海に入るとクレスト氏の方へ泳いでいく。

                      ところどころにサンゴの塊りがぽっこりと群れている。 チョウチョウウオの様な浅瀬の魚が何種類も岩の間を泳ぎ回っていた。 小さなエビがボンドの方に触覚を振っている。

                      底の方では緑色の大きなウツボが穴から顔を出していた。 そいつの金色の目が用心深くボンドの方を窺っていた。

                      遠くのかすんだ水中から、ぽっとピンク色の魚が近づいてきた。 悠然とボンドの下で弧を描くと、サンゴの下にあった糸くずみたいなものをパクリとやって泳ぎ去っていった。

                      ボンドは立ち上がってマスクを取った。

                    「確かにあのヒルデブランドですね。 ここからは静に引き上げましょう。 怯えさえさせなければ、またこの辺りに回って来ますから」

                      クレスト氏もマスクを取った。 「どうだ! 俺が見つけたんだぞ!」 そう叫ぶと、砂浜へ上がって行く。

                    「おい、フィド! 見つけたぞ。 俺が、このミルトン・クレストがだ! お前たち玄人が午前中いっぱいかけても見つけられなかったのを、俺が見つけたんだ! それも生まれて初めてマスクを着けて、ものの15分でみつけたんだ! どうだ? おそれ入っただろう?」

                    「ええ、おそれ入りましたよ、ダンナ。 ところで、どうやって捕まえるんです?」

                      クレスト氏は片目をつぶってみせた。 「ちゃんと用意してある。 友達の化学者からせしめて来たんだ。 ロテノンと云う薬品でね、ブラジルで土人が魚取りに使う草の根を精製した物なんだ。 水に流すだけで魚は浮かび上がって来るって寸法さ。 一種の毒薬だよ。 魚のエラの血管を締め付けて、魚を窒息死させるんだ。 人間には無害だよ。 人間にはエラは無いからな」

                      クレスト氏がボンドに振り返った。 「さあジム、君は海に入っていて見張ってるんだ。 俺とフィドでロテノンを持って行く。 そっちがよしと言ったら薬品を流すからな」

                      クレスト氏とハービーは潮の流れの上流に向かった。

                      ボンドはさっきの場所へ泳いでいった。 さっきのウツボが穴から顔を出してボンドをにらんでいる。 岩の一片に化けていた小さなタコが、用心深く足を伸ばして砂地に下りていく。  青と黄色のエビが岩の間から出て来て、不思議そうにボンドを見ていた。 小さなフグがヒレをプロペラの様に回して泳いでいった。

                      ボンドは顔を上げてみた。 20ヤードばかり向こうに、クレスト氏が平たい缶を持って立っている。

                    「いいか?」 クレスト氏が声を上げた。

                      ボンドは首を横に振った。 「あいつが現れたら親指を上げてみせるから、そうしたらそいつを流すんですよ」

                    「ようしジム、爆撃の照準手はお前さんなんだからな」

                      ボンドは顔を伏せた。

                      水の中は自分たちの暮らしに忙しい連中でいっぱいだ。 それがたった一匹の魚の為に、何百何千という礁湖の住民が死ぬのだ。

                      この環礁の中の魚ガ恐れているのは何だろう? 小さなバラクーダか? それとも、時々姿を見せる嘴の長い魚か? 

                      しかし今、クレスト氏という死神が、翼を広げて立っているのだ。

                      ボンドの視野の中にハービーの脚が現れた。 顔を上げると、彼は柄の長い網を持っていた。

                      ボンドはマスクをずり上げた。 「なんかナガサキを狙った原爆の照準手になった様な気持ちだぜ」

                    「魚は冷血動物だよ、何も感じないさ。 どうしたんだ? 相手はたかが魚じゃないか」

                    「わかってるよ」

                      ハービーは猟と釣りばかりやって暮らしてきた男だ。 一方、ボンドも時には何のためらいも見せずに人を殺した事もあった。 何をためらっているんだ?

                      アカエイを仕留めた時だって、ボンドは平気だった。 しかし、ここの魚は善良な住民なのだ。

                    「おい!」 クレスト氏の声が飛んで来た。 「おしゃべりなんかしてる場合じゃ無いぞ! ジム、海の中を見張れ!」

                      ボンドはマスクを着けると、海面に横たわった。

                      すると、まるでボンドと待ち合わせでもしたかの様に、あのヒルデブランドが姿を現した。

                      そいつはボンドの事などまるで無視して、こっちにやって来る。  ボンドの下をゆっくりと漂っていた。

                    「ばか、こっちへ来るな! あっちへ行け」 ボンドはマスクの中で怒鳴った。 モリでつつくと、ヒルデブランドは慌てて逃げていった。

                      ボンドは顔を上げて、怒った様に親指を上げてみせた。

                      バカげたつまらないサボ行為だ。 やったとたんにボンドは恥ずかしくなってしまった。

                      濃い茶色の液体が礁湖の水面に広がってくる。

                      ボンドは最後の1滴が流されるまで、じっと見つめていた。 クレストなんかクソ喰らえだ!

                      薬がゆっくりと流れに乗って広がって来た。 巨大な死神となったクレスト氏が、薬の流れと一緒に歩いて来た。

                    「さあ、手は打ったぞ。 後はそっちの番だ」 はしゃいだ様な声を上げる。

                      ボンドは再び水面に顔を伏せた。 海の中の世界は変化は無かった。

                      それが、バカらしい様な唐突さで、全てが狂ってしまった様だった。

                      あらゆる生き物が夢遊病に取り憑かれてしまったみたいだった。

                      クルクルと狂った様に泳ぎ回っていた魚が、枯れ葉の様にばたりと砂地に落ちた。

                      ウツボが口を開けたまますーっと立ち上がって穴から出ると、ふわっと横倒しになった。

                      小さなエビが尻尾をピクピクさせたかと思うと、ヒョイとひっくり返る。

                      岩に張り付いていたタコが仰向けに底に沈んでいく。

                      やがて辺りは潮に乗った魚の死骸でいっぱいになった。

                      ボンドは肩に手をかけられたのに気が付いた。 クレスト氏だった。

                    「あんちくしょうはどこだ?」

                    「薬が来る前に逃げちまったみたいですよ。 まだ探してますけど」

                      クレスト氏の返事を待たずに、ボンドはさっさと水の中に顔を突っ込んだ。

                      虐殺はなおも続いていた。 死骸は増える一方だ。

                      だが、薬の流れはもう過ぎてしまった様だ。 例の魚がやって来ても大丈夫かもしれない。

                      が、その時、遠くのぼやっとかすんだ水中にピンクの影が見えた。

                      ヒルデブランドはゆっくりと環礁の切れ目をこっちに向かって泳いで来る。

                      ボンドは空いている手で水面を叩いた。 それでもヒルデブランドはやって来る。 ボンドは魚の死骸をかき分けて歩み寄ろうとした。

                      魚はちょっと止まって、ピクピクと体を震わせると、ボンドの足元にストンと落ちた。 それっきり動かない。

                      ボンドはかがみ込んで魚を拾い上げた。 トゲのあるヒレがチクチクする。

                      ボンドは水の中につけたままクレスト氏の所まで持って行き、「はい」と言って手渡した。

                     

                      その日の午後、帰途についた“なみがしら号”では、クレスト氏が無礼講の酒盛りを命じていた。

                    「リズ、今日はお祝いだ。 最後の目標が片付いたんだからな。 もう、こんななセーシェル諸島なんかとはおさらばして、文明社会に戻れるんだ。 モンパサに戻ったら、亀とオウムを積み込むんだ。 そうすればローマでもパリでもどこへだって行かれる。 どうだ? え?」

                      クレスト氏はそう言いながら、大きな手で夫人の顎をグッと掴んだ。 そして血の気の失せた唇に冷ややかにキスした。

                      夫人はギュッと目をつぶっている。 クレスト氏が手を離すと、指の跡が白く付いていた。

                      夫人は掴まれた顎を手のひらでさすりながら、笑い声を上げた。

                    「痛いわ、あなた。 あなたは自分の力加減が解らないんだから。 そうね、お祝いしましょう。 楽しいわ。 それに、パリに行かれるなんて素敵。 ところで、宴会のご馳走の注文は?」

                    「バカ、キャビアに決まっとる。 ハンマッヒェル・シュレンマーのポンド缶を2缶開けるんだ。 つまみは他にも用意するんだぞ」

                      クレスト氏はボンドに振り返った。 「そっちはどうだ? 異存は無かろう?」

                    「結構なご馳走ですね」 ボンドはそう答えてから話題を変えた。 「ところで獲物はどうしたんです?」

                    「フォルマリンだ。 標本はそうする様に言われとるんでな。 ボート・デッキに他のビンと一緒に並べてある」

                     

                      その晩、クレスト氏はひどく酔った。

                      ひどく意地悪くなって、人を傷つけずにはいられないのだ。

                      最初に矢面に立たされたのはボンドだった。

                      クレスト氏によると、現在世界には大国は3つしかない、と言うのだ。

                      アメリカとソ連、そして中国。

                      他の国は賭け札が持てず、ただポーカーゲームを見ているだけしか出来ない。

                      特にイギリスなどかつての大国は、仲間に入れてもらおうと金を借りたりするが、お義理に付き合ってもらってるだけだ。

                      廃墟の中にクイーンがいるだけの国だと言い放った。

                      フランス? 旨い料理と女がカモだけという以外に取り柄は無いな。 イタリア? 陽光とスパゲッティだけの国だ。

                      ドイツは? そう、ドイツ人にはまだ少しは根性があるが、2つの大戦に負けて真底参っている。

                      こうしてクレスト氏は、世界中の国を次々と揶揄していった。

                      ボンドはこのクレストという男に、つくづくウンザリしてしまった。 そこで一言やり返した。

                    「あなたの話しを聞いていると、あなたの国について鋭い批評を聞いたのを思い出しましたよ」

                    「ほう、言ってみたまえ」

                    「アメリカって国は赤ん坊から青年になる前に、いきなりもうろくジジイになってしまった、と言うんです」

                      クレスト氏はしばらくボンドを見つめていた。

                    「ふうむ、なかなかうがった事を言うな」 そして夫人の方に細い目を向けた。 「おい、お前もイギリス人だから、この男と同じ様に考えてるんだろう」

                    「そんな、あなた、考えたこともありませんわ。 それにボンドさんはジョークをおっしゃっただけですわよ。 そうでしょう、ボンドさん」

                    「そうですよ。 クレストさんがイギリスは廃墟にクイーンが居るだけだなんて言うから、それと同じジョークですよ」 ボンドはそう言ったが、クレスト氏の目は夫人から離れなかった。

                    「ふん、バカバカしい。 何をビクビクしとるんだ? もちろんジョークに決まっとる。 しかしこのジョークは面白いから覚えておこう。 うん、こいつは忘れんぞ」

                      その時ボンドは、クレスト氏は色々な酒をまる1本は飲んでいる、と気が付いた。

                      早く酔いつぶれてしまえばいいのに。

                      しかし、次はフィデル・ハービーの番だった。

                    「なあフィド、君の一族の島だが、最初に地図で見た時には蠅の糞かと思ったぞ」 クレスト氏は笑い声を上げた。 「浜をあさって過ごす一生など、まともな人生とは言えんな。 もっとも、君の一族には、私生児が百人以上も居るそうじゃないか。 こいつは魅力的だな」 クレスト氏は口元をほころばせた。

                      ハービーは落ち着き払っていた。

                    「そいつは叔父のギャストンですよ。 みんなそんな事は喜んでやしません。 そんな事をしたら、一族の財産に穴があいてしまいますからね」

                    「一族の財産だって?」 クレスト氏はさもおかしそうに笑った。 「いったい何があるんだ? 貝殻か?」

                    「そればかりじゃないですよ」 ハービーはクレスト氏の意地悪には慣れていない様だ。 「もちろん、百年前は亀の甲羅や真珠貝などで稼いでいましたけど、現在ではもっぱらコプラですね」

                    「ははあ、一族の私生児を人夫にして、だろう。 名案だな。 私もそういう大家族を作りたかったな」

                      クレスト氏は再び夫人に目を向けた。 ゴムみたいな唇をゆがめている。

                      次の悪態が出てこない内に、ボンドは立ち上がるとさっさとデッキに出るドアを開けた。

                     

                      ボンドはデッキの手摺りにもたれながら、夜の海を眺めた。

                      頬に当たる風が心地よい。

                      足音がしたので振り返ると、クレスト夫人がボート・デッキから降りて来るところだった。

                    「ベッドに入る、と言って逃げてきたんです。 本当にここで寝られます?」

                    「ええ、中の缶詰の空気より、外の方が気持ちがいいですよ。 ところで・・・」ボンドは話題を変えた。

                    「ご出身はどちらですか?」

                    「ニュー・フォレストのリングウッドです。 いい所でしたわ。 もう一度行ってみたい・・・」

                    「あなたもお国を出ていろいろと世間を見てきてるでしょうから、今のあなたには退屈ばかりかもしれませんよ」

                      クレスト夫人は手を伸ばして、ボンドの袖をつかんだ。

                    「お願い、そういう言い方はなさらないで。 あなたには解らないんだわ・・・」 彼女の口調には、捨て鉢の様なトゲがあった。 「私にはもう我慢が出来なくて・・・。 だって、まともな人と会う事が無いんですもの」 おずおずと笑い声を立てた。 「本当なんです。 あなたの様なまともなかたと、こうやってお話しする事なんて久しぶりなんです」 そして、いきなりボンドの手を取ると固く握った。

                    「ごめんなさい。 それだけでも良かったの。 じゃあ、これでもう休みますわ」

                      その時、2人の後ろから静かな声が聞こえてきた。

                    「ほほう、これはこれは驚いたな。 潜り屋の手伝いと濡れ場とはな」

                      クレスト氏がサロンの入り口に立っていた。

                      ボンドは両手をだらんと下げたまま、彼の方に一歩詰め寄った。

                    「早合点しないでもらいたいな。 それに口のきき方に気を付けた方がいい。 だいたい、今まで痛い思いをせずに済んだのは、めっけものなくらいだ」

                    「ほほう! 聞いたか? この青二才の言いぐさ!」

                      クレスト氏は、ふん、とバカにした様な顔をすると、ポケットから笛を出してヒモを持ってクルクルと回した。

                    「どうやらこの船のドイツ人は水夫はただの水夫じゃ無い、と聞いていなかった様だな。 おい、もう1歩でも近づいてみろ。 この笛を吹いてやる。 するとどうなるか分かるか? ボンド氏はどぶんさ」 そう言って海の方に手を振った。 「舷側からどぶんだ。 誰か落ちたぞ。 大変だって事になって船はUターンするが、スクリューが浮かんでいる人間にぶつかる事もある。 どうだ? かわいそうなジム。 いいやつだったのになあってわけだ」 そして、はっはっと笑い声を上げた。

                      クレスト氏は夫人の方に視線を向けると、指を曲げて彼女を呼んだ。

                    「来い、寝る時間だぞ」

                    「はい」 夫人は小さく応えると、チラッとボンドに目をむけて「おやすみなさい」と言い捨てて、サロンに駆け込んでいった。

                      クレスト氏が両手を上げた。 「安心しろよ。 いつものジョークだよ」 そう言うとサロンに入っていった。

                      なんて嫌な奴だ! ボンドは肩をすくめた。 そして手摺りに寄りかかって泡立って光る水尾をながめながら、気持ちを落ち着かせた。

                     

                      ボンドが後部デッキでクッションを積み上げて寝床を作っている時、女の悲鳴が響いた。

                      ボンドはサロンを駆け抜けると、廊下に飛び出した。 が、そこで足を止める。

                      女のすすり泣きと、クレスト氏のくどくど言う声。

                      いったい自分に何の関係があるんだ? 女があの亭主に我慢している以上、他人の出る幕は無い。

                      ボンドはゆっくりと廊下を戻った。 サロンを通る時にまた悲鳴が聞こえたが、ボンドは悪態を吐きながらデッキに出た。

                      急造ベッドに横になって瞼を閉じる。

                      しかし、あの女はどうしてああも意気地が無いのだろう?

                      ウトウトしかけたところで、ボート・デッキでクレスト氏のいびきが始まった。

                      ビクトリア港を出た次の晩も、クレスト氏は夜中にボート・デッキに出て、モーターボートと小舟の間に吊ったハンモックで寝ていた。 その時はいびきはかかなかったが、今夜は凄い。

                      しこたま酒を飲んでいるのだからたまらない。 腹の底からゴロゴロいういびきだ。

                      とにかく、凄いいびきだ。 仕方が無い。 ハービーの部屋に引っ込んで、床にでも寝かせてもらおう。 明日の朝、体のふしぶしが痛くてもしょうがない。

                      ボンドは起き上がった。

                      その時、ボート・デッキでドスンと重い音が響いた。 次に、もがき回る様なげえげえいう恐ろしい声。

                      クレスト氏がハンモックから落ちたのだろうか?

                      ボンドはボート・デッキに上がるハシゴに手をかけた。

                      ボート・デッキに顔が出る前に、唸り声が止んだ。 そして、せかせかと走っていく足音がした。

                      ボンドはボート・デッキに飛び上がると、倒れている人影に向かった。

                      クレスト氏は死んでいた。 

                      大きく開いた口から飛び出しているのは、舌では無く、魚の尻尾だった。 色はピンクと黒。 ヒルデブランドだ。

                      クレスト氏は押し込まれた魚を引っぱり出そうとした様だ。 しかし、背ビレや胸ビレが口の中に引っ掛かってしまったのだ。 鋭いヒレの先が、口の周りを破って突き出している。

                      さすがのボンドも、この恐ろしい死にざまに身震いした。

                      やったのは2人の内のどっちだろう?

                      夫人だろうか? 動機は充分だ。

                      しかし、フィデル・ハービーはどうだろう? クレオール人の血には、残忍さと醜悪なユーモア感覚がある。

                      彼の愛する島、愛する一族が笑いものにされたのを、ボンドは聞いている。 ボンドは途中で出て来てしまったが、あれからもっとセーシェル諸島をバカにする様な事を言われたら、どうだろうか?

                      いずれにしても犯人はあとさきの事を考えずに行動した様だ。

                      このままではボンドも容疑者にされかねない。 上手く片付けなくては。

                      もし、ハンモックのヒモが切れてクレスト氏が転がって、ボート・デッキの端から落ちたら、そのまま海に落ちてしまわないだろうか?

                      この静かな海では、チョッとあり得そうも無いが、そういう事にでもしなければなるまい。

                      ボンドはサロンから卓上ナイフを持ってくると、慎重にハンモックの吊りヒモをすり切れた様な切り口にしていった。

                      次に、標本ビンから点々と垂れているフォルマリンと口の周りのデッキの血を、濡れ雑巾で拭き取った。

                      最後は死体の始末だ。 ボンドは死体をデッキの端まで引きずるとハシゴを降りて、下から死体を担ぐ様にして引っ張った。

                      そのまま手摺り越しに投げ飛ばす。

                      大きな水しぶきが上がって、死体は水尾のさざ波に消えていった。

                      ボンドはもう一度デッキに上がってあたりを見回してから、ナイフと濡れ雑巾を海に投げ捨てた。

                      そしてハシゴを降りて後部デッキの急造ベッドにもぐり込む。 ボンドは10分もしない内に眠りについた。

                     

                      翌朝、3人は申し合わせた様に寝坊した。

                      ボンドは10時頃になって、暑い日差しで目が覚めた。

                      シャワーを浴びてハービーの様子を見に行く。 ハービーは二日酔いだった。

                      昨夜ボンドが退出した後の事をたずねたが、あまり覚えていない、と言う。

                      それでもクレスト氏に酷くからまれた事は覚えていた。

                    「だから最初に言っただろう。 極め付きの嫌な奴だって。 ま、そのうちに誰かが、あの嫌らしい口を塞いでくれるさ」

                      キッチンでボンドが、ひとりで朝食を作って食べていると、クレスト夫人がやってきた。 彼女も朝食を作って食べ始める。 目の下にくまが出来ていた。

                    「ほんとにごめんなさい。 私もチョッと飲み過ぎたみたいで。 それと、主人の事は許してあげて下さいね。 根はいい人なんですけど、酔うと始末に負えなくて。 でも、次の朝には決まって後悔してるんですのよ」

                      11時になってもどちらもボロを出さないので、ボンドはつついてみる事にした。

                      後部デッキではクレスト夫人が寝そべって雑誌を読んでいた。

                      ボンドは彼女を見下ろしながら言ってみた。

                    「ところで、ご主人はどこです? まだお休みですか?」

                    「そうだと思いますわ。 昨夜、何時頃か覚えてませんけど、ハンモックを持ってボート・デッキに上がって行きましたから」

                      ハービーがひょいと顔を出した。

                    「操舵室にでもいるんだろう」

                    「しかし、もしまだボート・デッキで寝てるとしたら、日焼けでえらい事になってしまうぞ」

                    「まあ! たいへんだわ」 クレスト夫人がはっとした様に言った。 「そうですよね。 今、見てきます」

                      クレスト夫人がハシゴを上がっていく。 が、頭をデッキの上に出したところで止まった。 そして心配そうな顔を下に向ける。

                    「いませんわ。 それに、ハンモックがこわれてる」

                      ボンドはしらばっくれた。 「フィデルの言う通り操舵室かもしれない。 見てきましょう」

                      操舵室には、航海士兼機関士のフリッツが居た。

                    「クレストさんを知らないかい?」

                    「いえ。 なぜです? どうかしたんですか?」

                      ボンドは心配そうな顔をしてみせた。

                    「ボート・デッキに居ないんだ。 ハンモックがこわれていた。 大変だ! みんなを呼べ! 船中を探すんだ!」

                      こうして行くべきところへ行きついたのだった。

                      リズ・クレストは、もっともらしいヒステリーの発作をしてみせた。

                      ボンドは彼女を船室に送ると、そのまま泣かせておいた。

                    「あんたのせいじゃないんだ。 きっと夜の間に落ちたんですよ。 日が出てからだったら、誰かが気が付くはずだからね。 今から引き返してもどうにもならないでしょう」

                    「ああ、ミルト! どうしてこんな事に!」

                      ボンドは「だいじょうぶですよ」と告げると、船室を出てそっとドアを閉めた。

                     

                      船はキャノン岬を回ると速度を落とした。 滑る様に広い湾に入っていく。

                      山を背にした町は既に夕闇に沈み、黄色い光がチカチカとまたたいている。

                      税関と出入国管理官のランチが、波止場から向かって来るのが見えた。

                      リズ・クレストがボンドの方を振り返った。

                    「心細いわ、ボンドさん。 しばらく力になっていただけます? 恐ろしい様々な手続きが済んでしまうまで」

                    「ええ、いいですよ」

                      フィデル・ハービーが顔を向けた。

                    「心配する事は無いですよ。 ここの連中はみんな私の友達です。 それに、司法長官は私の叔父なんです。 もっとも、供述書は作らなきゃなりませんが、型通りの手続きで終わりますよ。 あさってには出港出来るでしょう」

                    「本当に? でも私、実は、どこへ行ったらいいのか、次に何をしたらいいのか、私自身が解っていないんです」

                      リズ・クレストはボンドの方に目を向けた。 「あの、ボンドさん・・」 口ごもりながらおずおずと口を開く。

                    「どうでしょうか? 私とモンパサまで一緒に行って頂けないかしら? あなたが予定したナントカ丸よりも早く着けますわよ」

                    「キャンパラ丸ですよ」 ボンドは思わぬ誘いに戸惑いながら、それを隠す様にタバコに火を点けた。

                      この綺麗な女と4日間の船旅!

                      しかし、クレスト氏の口に魚を押し込んだのは、この女かもしれない。

                      それとも、フィデルか?

                      フィデルなら叔父や従兄弟達の力で、いくらでももみ消せるのは分かっている。

                    「そいつはありがたいな。 もちろん、お供しますよ」 ボンドはのん気そうに言った。

                      フィデル・ハービーが笑った。

                    「いいなあ、羨ましいよ。 ところで、例のナントカ云う魚は、早いとこスミソニアン研究所に送っちまわないと大変だろ? きっと電報でやいのやいのと言って来るぜ。 なんたってこれからはクレスト財団のボスは、奥さんなんだからな」

                      ボンドはリズを冷静に観察した。

                      人を殺すのに、あんなやり方をした女と4日間の船旅だとしたら考えものだ。

                      何か上手く断る理由を考えた方がいいかもしれない。

                      しかし、リズの青い無邪気な目には、何の動揺も見せていなかった。

                    「そんな事、問題じゃありませんわ。 あれはみんな大英博物館に寄贈するつもりなんですもの」

                      ボンドは彼女のこめかみから、汗が玉の様に吹き出しているのに気が付いた。

                      しかし、いずれにせよ、やけに蒸し暑い夕方だった。

                      エンジンの音が止んだ。 錨を降ろす大きな音が、静かな湾に響き渡った。

                     

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                      引き続き 「ナッソーの夜」 へどうぞ。

                     

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                    007おしゃべり箱 Vol.52A−9 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「ナッソーの夜」ストーリー編』

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                      「007おしゃべり箱」は映画007シリーズのあれこれをおしゃべりしています。

                       

                      「ナッソーの夜」

                       

                      Quantum of Solace

                       

                      「前から思っていたのですが、どうせ結婚するならエアー・ホステスを選びますね」 と、ボンドは言った。

                        総督府でのディナー・パーティーは、かなりぎこちないものだった。

                        ついさっき、他のお客だった1組の夫婦は飛行機に乗る為に副官が空港へ送りに行き、総督とボンンドはさらさ模様のソファに腰を下ろし、これからご歓談と称される時間を過ごすところだった。

                        ボンドはここナッソーが嫌いだった。 誰もかれもが金持ち過ぎるのだ。 そして誰もが資産家にふさわしい上品さで接してくる。

                        先ほど発って行ったハーヴェイ・ミラー夫婦もその典型だった。 若い時分から天然ガスの会社をやってきたと云う陽気だが退屈なカナダ人の億万長者と、可愛いおしゃべりな奥さんだった。 

                        彼女は英国人らしかった。 ディナーではボンドの隣りで、「ロンドンでは最近どんなショーをご覧になったの?」とか「サヴォイ・グリルでの夕食は楽しいですよね。 映画女優や著名なかたが多く見られて」と、陽気に話しかけてきた。

                        ボンドは劇場などウィーンで尾行していた相手を追って入った事があっただけで、ここ何年もご無沙汰している。 しかたなく、以前にMのお供で出掛けたブレイズ・クラブでの記憶を頼りにお茶を濁していたのだが、そんなミラー夫人との会話はどうしてもちぐはぐになってしまったのだった。

                        総督からディナーに招かれた時は何も考えずにありがたくお受けしたが、招待とはほんのお義理で、実はハーヴェイ・ミラー夫妻の相手をさせると云う下心があったのだろう、と気が付いたのだった。

                       

                        ボンドがここナッソーに来て1週間、明日はマイアミに発つ予定だった。

                        仕事は月並みな調査だった。 キューバのカストロ派に流れ込んでいる武器の密輸ルートをあばく事だった。

                        ボンドは難なくそれらしい2隻の大型ヨットを探り出した。 

                        次に、出港の時に逮捕して騒ぎを大きくするよりはと、夜中に警察のランチでその2隻に忍び寄って、焼夷弾を投げ込んだのだ。 そして全速力で退散して遠くから大花火を高みの見物。

                        保険会社にはお気の毒だが、怪我人も出さずにボンドは命じられた事を手際よくやってのけたのだった。

                        この一件を知っているのは、警察部長と2人の警官だけだ。 Mには簡単な電話をしたが、総督には報告していない。

                        実際問題として、ここナッソーの議会で問題になりかねない様な犯罪について、総督の耳に入れるのは賢明とは言えないだろう。

                        総督だってこんな顛末を聞かされたって困るだけだ。 ボンドの印象では、ここの総督は何にでもすぐ困りそうな人物だった。

                        しかし、総督は薄々勘付いている様だった。

                        総督はボンドがこの植民地にやって来た目的を知っていたし、今晩ボンドがディナーに招かれて握手した際のぎこちなさは、ボンドが行った荒療治への嫌悪と畏怖の現れだろう。

                        とは言っても、ボンドはこの総督は嫌いではなかった。 彼は、地道で、誠実で、生まじめな正義派だ。 平凡な公務員かもしれないが、総督として万事に目配りしているのが解る。

                        それにしても、この総督は今回の様なちょっとした事件を、今までどれくらい見てきたのだろうか?

                        国同士の政治の小競り合いからの影響などを、どの様に対処してきたのだろうか?

                        ボンドには興味があったが、そんな総督府での火花の様な裏話など、この堅苦しい用心深い男から引き出せはしないだろう。 何より、彼はボンドの事を、明らかに危険な男と見なしている様なのだ。

                        が、まだ時刻は9時になったばかり。 総督とボンドは、お互いに二度と会う事は無いだろうと、ホッとして寝室に引き上げるまで礼儀正しく“ご歓談”をしなければならない時間が、あと1時間もあった。

                        結婚するならエアー・ホステス、などとボンドが口走ったのは、ミラー夫妻がモントリオール行きの飛行機に乗るために引き上げてから、話しの継ぎ穂が無くなってしまったからだった。

                       

                      「ほほう、それはまたなぜですかな?」 総督は丁寧な押さえた口調で言った。

                      「いえ、なぜと言われても困りますが、べっぴんに世話を焼いてもらって、いつも笑顔で機嫌を取ってもらうのはいいだろう、と思っただけです。 エアー・ホステスで見つからなかったら、日本人ですね。 日本娘と結婚するのもいいでしょうねえ」

                        ボンドは別に結婚などするつもりは無かった。 また、もし万が一結婚するとしても、そんな面白みの無い従順だけが取り柄の相手は決して選ばないだろう、と思っていた。

                        ボンドは総督を面白がらせるか怒らせるかして、何か人間的な話題に引き込みたかったのだった。

                      「日本娘の事は知りませんが、エアー・ホステスは仕事として我々に接しているのであって、勤務時間外は全然違うかもしれん、と云う事は考えた事はありませんかな?」

                        総督の口調は理路整然としていて落ち着いていた。

                      「言われてみればそうかもしれませんね。 いえ、実を言うと、所帯を持つと云う事を真面目に考えた事が無いんです」

                        ちょっと話が途切れた。

                        総督の葉巻の火が消えて、火を点け直すのにちょっとヒマがかかった。 総督は葉巻の煙を吐き出すと、ボンドに向き直った。

                      「そう言えば以前、君と同じ考えをした男がいた」 総督の単調な口調に、ちょっとナマの火、興味の火の様なものがこもっていた。 「エアー・ホステスに恋をして結婚したんです。 そう言えば、ちょっと面白い話しだ。 もっとも、君は人生の裏面は散々見てきているだろうから、退屈かもしれませんな」 総督はそう言うと、半ば自嘲的な笑い声を上げた。

                      「いえ、ぜひ伺いたいです」

                        ボンドは熱意を込めて言った。 総督の言う人生の裏面とやらがどれ程のものか判らなかったが、少なくともこれ以上マヌケなやり取りをしないで済みそうだ。 ついでにこの柔らかいだけで座り心地の悪いソファからも逃げ出してやろう。

                      「ブランデーをもう少し頂いていいですか?」 ボンドはそう言って腰を上げると、グラスにブランデーを1インチばかり注いだ。

                        そして別のイスを引っぱってきて、総督と酒を置いたトレーをはさんだ位置に据えて腰を下した。

                        総督は葉巻の煙を見つめていた。 やがて、細く立ち上る紫煙の向こうに視線を向ける様にして、おもむろに語り出した。

                       

                      「彼の名前はマスターズ。 フィリップ・マスターズだ。 私の1年後に植民省へ入ってきたんだ。 最初の勤務地はナイジェリアだったな。 性格としてはちょっとおくてな所がある男なのだが、仕事は良くやっていた。 原住民とも上手くやっていた様だった。 開けた考えの男だったしね。

                        労働党政権になって、進歩的な考えの総督が赴任してきた。 その新総督は、下っ端の1人が控え目ではあるが既に自分の考えの一部を実践しているのを見て、驚くと同時に喜んだ。

                        総督はフィリップ・マスターズに階級以上の職責を与えて激励した。 やがて彼に転勤の時期が来たので、総督は1階級飛び越えてバミューダの総督府付き書記官補に推薦する報告書を提出した」

                        ここで総督は葉巻の煙越しにボンドを見た。 「退屈でしょうな。 が、直ぐに要点に入りますから」

                        ボンドは首を振ると、話しの続きを待った。

                      「当時はまだアフリカへの飛行機航路が出来たばかりで、フィリップ・マスターズはロンドンへ帰るのに週に1便のインペリアル航空−今の英国航空の前身だが−の飛行機に乗った。

                        アデンや何やらを経由していくので、ロンドンまでは2日間だった。 その2日の間に、フィリップ・マスターズはローダ・レウェリンというエアー・ホステスに一目惚れしたのだよ。 そしてロンドンに着く直前に、勇気を奮い起こして彼女を食事に誘った。

                        とにかく、その1ヶ月後にローダ・レウェリンはインペリアル航空を退社して、2人は結婚した。 それからさらに1ヶ月後、マスターズの休暇が終わって、私が居るバミューダに赴任してきたのだ」

                      「なるほど、ちょっとお伽噺的な2人の出会いですね。 しかし女の方は彼の生活が刺激的で華やかだと思って結婚したのかもしれませんね。 総督府のティー・パーティーの主役を夢見ていたのかもしれませんよね」

                      「たぶん、そうでしょうな」 総督は穏やかに言った。 「ローダが結婚に踏み切った動機は、たぶん君が言った通りでしょう。 それはともかく、我々は皆、彼女の溌剌としたところや、可愛い笑顔、陽気にみんなをもてなすやり方などに感心してしまった。 それにマスターズも別人の様になっていたのです。 あの頃は、並んだ妻と見劣りがしない様にと、かなりめかし込んでいてね、なんだか気の毒みたいな気がしたものだ。 毎日仕事が終わると、彼は急いで家に帰り、とにかく何もかもがローダの事ばかりだった。

                        しかし彼は仕事は熱心にやっていたし、誰もがこの夫婦に好意を持っていたので、半年ばかりの間はまだ結婚式の鐘が鳴っている様なありさまだったな。

                        ところが、これは憶測に過ぎないのだが、幸福な家庭に波風が起き始めていた様なのだ。 あなたも想像がつくのではないかな? “なぜ書記官の奥さんは私を一緒に買い物に誘ってくれないの?” “今度のカクテル・パーティーはいつになったら出来るの?” “昇進はまだなの?” “この家で1日中何もする事が無いなんて退屈だわ。 私の身にもなってよ” といった具合できりが無かったのだろう。

                        夫に対するサービスなど消えてしまって、マスターズがサービスする側になってしまったのだ。 もちろん、自分から進んでやっただろうがね。  毎朝出勤する前にエアー・ホステスに朝食をベッドに運んで、帰宅すればローダが散らかした家の片付けをしていた様だよ。

                        その上、ローダが奥さん連中と張り合える様に、新しい服を買ってやる為にタバコを止め、たまに飲む酒も止めてしまったのだ。

                        マスターズがだんだんと覇気がなくなってきて、こういった事が書記官たちの噂になって、直接の上司である私の耳にも入ってきた。

                        マスターズにとってローダは太陽であり月であったから、彼はいろいろと妻の気をまぎらわせる事を探した様だ。 そして、ゴルフがいいと云う事になった。 まあ、誰が決めたというよりも夫婦でそう決めたわけだな。 バミューダはゴルフが盛んだったからね。 有名なミッド・オーシャン・クラブはゲームの後にクラブ・ハウスで酒と噂話しだ。 それこそ彼女が望んでいたもの−上流社会の洒落た暇つぶしだろう。

                        入会金やゴルフ・クラブを揃える金、レッスン代、そんな諸々の費用をどうやってマスターズが工面したのかは知らないが、とにかくそれだけの事をして、実はそれが大当たりだったのだよ。 

                        それからのローダは、毎日ミッド・オーシャン・クラブへ通いつめて、熱心にレッスンを受けて、直ぐにハンディを取るまでになった。 小さなコンペに参加して、月例試合ではメダルを取る様になったのだ。

                        そうして、半年も経たない内に男のメンバー達の人気者になった。 私は別に驚きはしなかったがね。

                        今でも憶えているが、綺麗に日焼けした小柄な体をやけに短いショーツにくるんで、グリーンの裏のついた白いキャップをかぶって、そんなスタイルが引き立つ様な鮮やかなスイングをしているのをちょくちょくみかけたものだ。 ゴルフ場であれほどの美人は見た事は無いな」

                       

                        総督はチラッと目を光らせた。

                      「ある時、男女混合の4人のコンペがあってね、ローダはタタサール家の長男と組んだんだ。 タタサール家は一流の商人で、いわばバミューダ社会の支配層みたいなものだ。 そこの長男と云うのが手に負えん男だった。 かなりの色男で、水泳も上手いしゴルフも上手い。 MGのオープンカーやモーターボートなどの道具立ても揃えているという、まあよくあるタイプの若者だ。 食指を引かれた女はみんな手に入れていた。

                        その2人が接戦の末にコンペで勝った。

                        フィリップ・マスターズは18番ホールのグリーンを囲んだ群衆の中から2人に声援を送っていたな。 彼がそんな派手な騒ぎ方をしたのは、それが最後だった。 その後、私の知る限り、彼がそんなにはしゃいだ姿は見ていない。 

                        そして、程なくしてローダはタタサールと出歩き始めたのだ。

                        一度そうなったら、もう糸が切れた凧みたいにとめどが無くなった。 ねえボンドさん・・・」

                        総督は握りしめたこぶしをテーブルの端に下した。

                      「見ていて嫌なものでしたよ。 ローダは夫が受ける痛手など、少しも考えなかったのだ。 情事を全く隠そうとしなかったのだ。 ローダはタタサールと一緒になってマスターズを殴り続けている様なものだ。

                        もちろん、2人の事はすぐに世間に知れ渡った。 可哀想にマスターズは植民地始まって以来の笑い者になってしまったのだ。

                        とうとうバーフォード総督夫人がローダを呼び出して説教したのだが、バーフォード夫人もマスターズが退屈な男だと判っていたし、ご自身も若い頃は無茶な事を1度や2度はやっていたので説教もつい甘くなってしまっていたのだろう。

                        ボンド君、あなたが失意の男を見た事があるかどうか知らんが、じわじわとやられていくのですぞ。 フィリップ・マスターズがまさにそうだった。

                        見ていて恐ろしいくらいだった。

                        もちろん、私も出来るだけの事はやったし、皆も何やかやとやってみた。 が、マスターズは手負いの犬みたいになっていて、我々から逃げる様に隅に引っ込んで誰かれ構わずに吠えたてるありさまだった。

                        ある日、私の家での男ばかりのパーティーにマスターズを誘い出す事が出来た。 彼に酒を飲ませて少しでも気を紛らわせようとしたのだ。 

                        確かに彼を酔わせる事は出来たが、次に起こったのは浴室でガシャンという音。 マスターズはカミソリで手首を切ろうとしたのだった。

                        この一件で我々は根負けしてしまい、私が選ばれて総督に相談に行く事になった。

                        ところが、総督もマスターズの件は既に知っていたのだ。 当然だろう。 彼の仕事はメチャメチャだったからね。

                        総督も何とかする手立てを考えていた様だ。 総督だって、マスターズの前途を全てダメにする様な報告を本省へ上げるのは、最後の手段だと思っていたのだ。

                        丁度運よく、私が総督に会った次の日にロンドンから連絡があって、ワシントンで開かれる沿岸漁業権の協議会に総督代理を出す様に、と言って来た。

                        総督はマスターズを呼ぶと、ずけずけと話した様だ。 ワシントンへ派遣してやるからその半年間に家庭の問題を解決させろ、と言って追っ払ったのだ。

                        マスターズは1週間もしない内に出発。 こっちはホッと安心のため息。 我々は皆ローザ・マスターズに会わない様にしていた」

                        ここで総督は口をつぐんだ。

                       

                        大きな灯りが煌々と点いている総督府の居間はひっそりとしていた。

                        総督は立ち上がると酒が置いてあるテーブルに行き、ウィスキー・ソーダを2つ作ると1つをボンドに手渡した。

                        ボンドは礼を言いながら「酷い話しですね」と、応じた。 「マスターズも気の毒でしたね。 ローダと云う妻は、申しわけ無い、と云う様なそぶりは見せなかったのですか?」

                        総督はグラスに口を付けると、新しい葉巻に火を点けた。

                      「いいや、ローダは楽しんでいたよ。 彼女にとっては夢に見ていた生活だからね。 島で一番の相手、街やナイト・クラブでの歓楽、ロマンスのお膳立ては全て揃っているのだ。 その上、面倒な亭主は長期出張だ。

                        彼女にしても、そんな生活がいつまでも続くものでは無い、と承知していただろう。 が、その時はフィリップ・マスターズはすぐに取り戻せると思っていたのだろう。

                        みんなの所を回ってまた自分の魅力を見せつけてやれば、みんなは許してくれると」

                      「ところが、彼女はすぐに試練にぶつかった。 その頃、タタサールはちょっとローダに飽きてきていたし、総督夫人の差し金で両親がやかましく言い出したのだ。 たぶん、いいかげんにしないと勘当する、とか言われたのだろう。 タタサールにとってはいい口実が出来た様なものだ。 それにちょうど夏だったので、島には若いアメリカ娘が溢れていた。 目先の変わった獲物に目移りしていた。 そこでローダ・マスターズに肘鉄を喰らわした。 それだけの事だった。

                        それがフィリップ・マスターズがワシントンから帰って来る2週間前くらいの事だった。

                        ローダも覚悟は出来ていただろう。 彼女は泣きもせず、ただ総督夫人の所へ行き、今までの事を反省してこれからはフィリップ・マスターズの良き妻になると言って、家の中を片付けて仲なおりに相応しい舞台を用意した。

                        夫と仲なおりしなくてはならないと彼女が思い知らされたのは、ミッド・オーシャン・クラブの元の仲間たちの態度からだった。

                        彼女はみんなの鼻つまみ者になってしまったのだ。 ボンド君、君も解ると思うが、南国のカントリー・クラブの様な解放的なところでも、やはりこういう事はある。 それに総督府の連中だけで無く、街の商人達のグループまで彼女に眉をひそめるのだ。 急に彼女はガラクタ扱いされてしまった。 相変わらず色っぽい様子を見せようとしたが、ちっとも効き目が無い。 1、2度赤恥をかかされてからは、ゴルフ・クラブへも行かなくなった。

                        やはり、フィリップ・マスターズの妻としてやり直せねばならない、と痛切に感じただろう。

                        そこへマスターズが帰ってきたのだ」

                       

                        総督は一息ついて、分別くさくボンドを見つめた。

                      「君は未婚だからどう思うか解らんが、私は夫婦の間柄というものは皆同じだと思うのだ。

                        夫婦の間になんらかの人間性が通じている限り、その夫婦関係は続けていかれる。 が、思いやりがすっかり無くなり、相手がたとえ死のうが生きようがいっこうに構わないと思うようになったら、もうダメだ。

                        今まで私は何百組という夫婦を見てきていたのたのだよ。 一方が酷い背信をしたにもかかわらず、取り繕った夫婦も見たし、財産の破産と夫婦関係は全く別だと云う事を見せてくれた夫婦もあった。 殺人の様な罪を犯した相手を許す夫婦を見てきた。 

                        だから、伴侶の不治の病、半身不随、そんなものは容易に乗り切れるのだ。 夫婦であれば。 

                        しかし、夫婦であるにもかかわらず自分に対する侮辱、これは許す事は出来ないのだよ。

                        夫婦の間で慰謝=思いやりが死んでしまった場合、これはどうにもならないのだ。

                        私はそんな事を考えて、人間関係の基本的条件にちょっと大げさな名前を考えた。

                       “慰謝の量の法則”と呼んだのだ。 相手に対して“慰謝の量”がゼロになった時、夫婦は終わるのだよ」

                      「確かに言い得て妙ですね。 ちょっと大げさな気もしますが、おっしゃる意味はよく解ります。 相手に対する“慰謝の量”。

                        恋も友情も、それが土台なのでしょうね。 で、マスターズもそうだったんですか?」

                        総督はこの質問には答えなかった。

                      「ローダ・マスターズはほとんど化粧もせず、一番おとなしい服を着て夫を待っていた。 家に入って来たマスターズはマントルピースに歩み寄ると、そこからぼんやりと妻を見おろした。 そして内ポケットから1枚の紙を取り出した。

                      “この家の間どりを変える事にする。 家の中を2つに分けるんだ。 君の部屋は台所と寝室だ。 僕はこの部屋と予備の寝室だ。 浴室は僕が入っていない時なら使っていい” 

                        そして彼女の膝にその紙を落とした。 ローダが何か言いかけたが、彼は手を上げて押しとどめた。 “僕が口をきくのはこれが最後だ。 君が何か言っても僕は返事はしない。 何か伝えたい事があったら手紙にして浴室に置いておけばいい。 家計費として月に20ポンド渡すが、それは弁護士を通して毎月1日に郵送する。 その弁護士には今離婚の手続きを進めてもらっている。 僕は離婚するつもりだし、君はそれについて争いようが無い事は解っているだろう。 ここのバミューダ勤務はあと1年だ。 それまでに離婚手続きは終わらせる。 それまでは世間体は普通の夫婦としてふるまうんだ”

                        ローダの顔には涙があふれていた。 まるで誰かに殴られた様に怯えていた。

                        “では、身の回りの物を集めて台所に引きとってくれ” マスターズは冷ややかに言い放ったのだ」

                       

                        総督は一息ついて、ウィスキーをすすった。

                      「この話しはマスターズから聞いた少しばかりの話しと、ローダが総督夫人に打ちの明けた内容をまとめたものだ。 どうやらローダは夫の気持ちを変えさせようとあらゆる手段を試みた様だったが、マスターズが心変わりをする事は無かった。

                        1年の間、2人はそうやって別々に暮らしていたが、人前ではお互いに礼儀正しかった。

                        我々はみな、その変化に驚いていた。 我々は2人のそんな取り決めなど知らなかったからね。 彼の仕事ぶりを見て、我々は皆ホッと安心したんだ。 何かの奇跡でこの夫婦の結婚生活も救われたんだと思っていた。

                        1年経って、マスターズが離任する時が来た。 2人が型通りの挨拶まわりをした時に、家の後始末のためにローダが残る、と言っていたが、船に彼を見送りにローダが来ていないのに我々はちょっと驚いた。 そんな程度だった。

                        しかしそれから2週間経たない内に、彼らの離婚裁判のニュースがイギリスから漏れてきたのだ。 ローダ・マスターズは総督府に行き、総督夫人に打ち明けて、だんだんに事の全容が世間に漏れてきた。 そして実に恐ろしい話しが現れたのだ」

                        総督はそこまで語ると、手にしたグラスに目を落とした。

                      「マスターズは出発の前日に浴室で彼女からの手紙を見つけたらしい。 どうしても会って話さなければならない、と云う内容だ。 マスターズは6時に居間で会おう、と書き残した。

                        6時になって、ローダがおずおずと台所から出てきた。 もう既に彼女もあきらめていた。 静かに立ちすくんだまま、家計の残りがたった10ポンドあるだけで、他には全くお金が無いと語った。 彼が出ていったら、後はどうにもならない。

                      “僕がやった宝石と毛皮のケープがあるだろ”

                      “あれでも50ポンドになればいい方だわ”

                      “何か仕事を見つけるんだな”

                      “仕事を探すのに時間がかかるわ。 この家は2週間以内に出なければならないから、住む場所も探さなくてはならないのよ。 これっきり何も分けてくれないの? 私は飢え死にしてしまうわ”

                      “君はきれいだ。 飢え死にはしないさ” マスターズは冷ややかに彼女を見た。

                      “フィリップ、助けてよ。 私が総督府に物乞いに行ったら、あなたの将来にも差し障るのよ”

                        彼らは家具付きの家を借りていたので、家の中に彼らの物は無かった。 ただ1つ残っていたのがクルマだった。 マスターズが中古で買ったモーリスだ。 それに、やはり中古で買ったレコードプレーヤー。 これはローダがゴルフに凝る前に、妻を喜ばせようとしてマスターズが買った物だった。

                        フィリップ・マスターズは最後にローダの顔を見た。

                      “よろしい、クルマとレコードプレーヤーをやろう。 さ、話しは済んだ。 さようなら” 彼はそう言うと寝室に引っ込んでしまった」

                       

                        総督はボンドの目を見た。

                      「少なくとも、マスターズは最後に少しだけローダに思いやりを見せたわけだ」 総督は陰気な笑顔を浮かべた。

                      「そうですね」 ボンドも総督に合わせて顔をほころばせた。

                        が、総督は、まるで苦い薬でも飲む様に、ウィスキー・ソーダの残りをグイと飲み込んだ。

                      「マスターズが発ってしまいローダは独りぼっちになった。 彼女は街に出て質屋周りをして、どうにか宝石で40ポンド、毛皮のケープで7ポンドを手に入れた。 次に自動車屋に行って、支配人に会った。 このモーリスがいくらになるか支配人に尋ねたのだ。

                        “しかし奥さん、このクルマはローンが残っているんですよ。 1週間程前に手紙を送りましたが、お聞きになっていませんか? あなたが必要な清算をしてくれるという返事でしたが” 支配人はファイルを取り出すとパラパラとめくった。

                      “ああ、このクルマはちょうど200ポンド貸しになっていますね”

                        ここでローダはわっと泣き出してしまった。 結局、支配人はクルマはもう200ポンドの値打ちは無くなってしまっていたが、そのまま引き取る事に同意した。 ただ、今すぐそのままで置いていってくれと言った。 

                        ローダは言われた通りにするしかなかった。 訴えられなかっただけでもありがたいと思い、歩いて暑い通りに出た。 電気屋へ行ってもどういう事になるか、彼女には見当が付いていた。

                        案の定、自動車屋と同様で、しかも今度はレコードプレーヤーを引き取ってもらうのに10ポンド付けなくては店の方が納得しなかった。 

                        ローダは通りかかったクルマに家の近くまで乗せてもらい、家に帰った。 家に入るなり彼女は泣き崩れてしまった。 既に彼女は打ちひしがれていたのに、フィリップ・マスターズはそんな倒れた彼女をさらに足蹴にしたのだ」

                        総督は一息ついた。

                      「まったく信じられん様な話しだよ。 普段は蠅も殺さない様な大人しい男が、考えられん様な残酷な事をやったのだ。

                        さっき言った法則が解るかね? ローダがどんな罪を犯したにせよ、夫に対して慰謝の量を少しでも与えていたら彼もここまではしなかっただろう。

                        マスターズはローダを苦しめるだけ苦しめたかったのだ。 彼の妻への憎しみは、バミューダを離れた後でも彼女を苦しませずにはいられなかったのだ」

                        そう語った総督は、顔をゆがめながら、手元のグラスをじっとみつめていた。

                      「そんな目に合わされたら、さぞ参ってしまった事でしょうね。 男女が憎み合う事はありますが、そこまでとはなあ! 私にはむしろ女の方が可哀想になってきました。 結局どうなったのですか? また男の方はどうなりましたか?」

                        その時、急に総督が立ち上がった。

                      「これはいかん。 もう夜中になってしまった。 うっかりしていた、邸内の人間を休ませねば。 それに君を引き止めてしまった様だ」 総督はそう言うと、ボンドに笑顔を向けた。 

                        そして暖炉へ行くとベルを鳴らした。 すると、すぐに黒人の執事が現れた。

                        総督は遅くまで起こしてしまってすまなかったと言い、戸締りをして早く休む様にと執事に言いつけた。

                        ボンドも立ち上がった。 総督はボンドに向き直った。 「行きましょう。 あとは歩きながら話します。 それに番兵に君を通してもらわんとなりませんから」

                        ボンドと総督は、いくつもの部屋を通って庭に出た。

                      「バミューダの一件で彼の人格の一部が死んでしまったのだろうと思う。 仕事は良くこなしていたが、だんだんに干からびた人間になってしまった。 もちろん、それっきり結婚はしていない。 きっと彼女にした仕打ちが胸に残っていて、それに悩まされ続けたのだろうと思う。 しまいには未開地の方に飛ばされてね、そこで仕事に失敗して退職した。 その後、彼はナイジェリアに移住した様だ。 彼に好意を示した種族のいる所へ帰ったのだ。 彼の全てのふり出しになった場所へね。

                        彼の若かった頃を知っている私としては、思い出すと悲しくなるのだよ」

                      「女の方はどうなりました?」

                      「ああ、彼女もかなり苦労したよ。 お情け半分で回してもらった仕事を、あっちこっちと転々としていた。 しかし、その年の暮れにバーフォード総督がジャマイカへ転勤になって、彼女の頼みの綱も切れてしまった。  前にも言った様に、バーフォード夫人はローダに甘かったからね。

                        しばらくは何人かの男に助けてもらっていたらしいが、バミューダの様な狭い島ではそういった事は長続きしない。 実際、彼女も売春婦みたいになってしまって、警察の厄介になったりしたんだ。 そんな時、バーフォード夫人からジャマイカまでの旅費を同封した手紙が来てね、ブルー・ヒルズ・ホテルでの受付の仕事を見つけた、と言ってきてくれたのだ。 それで彼女はジャマイカに渡った。 

                        バミューダも彼女が居なくなってホッとしたろう。 その頃には私はローデシアに転勤になっていたので、よくは知らないがね」

                       

                        ボンドと総督は官邸の入り口の門のところまできた。 番兵が気を付けの姿勢を取り、2人に向かって捧げ銃をした。

                      「よろしい、休め」 総督は威厳のある声で、番兵にそう命じた。

                      「これで話しは終わりなのだが」 総督はそう言いながら、片手を上げて番兵の門を開けさせた。

                        そしてボンドを送り出す様に門の外に歩み出た。

                      「実は最後に運命のいたずらがあったのだ。 ある年、カナダの億万長者がブルー・ヒルズ・ホテルに一冬逗留した。 その男はローダ・マスターズをカナダに連れていき、彼女と結婚した。 それ以来、彼女は何不自由のない生活を送っているよ」

                      「へえ、そいつはまたずい分と運が良かったですね。 良過ぎるくらいだ」

                      「どうだかな。 人生というのは真っすぐには行かんものだからね。 いずれにしても、彼女はそのカナダ人の夫と、とても幸せに暮らしている」

                        総督はそう言うと、夜空を見上げた。 総督の脳裏には、マスターズ夫婦の顛末が、走馬燈の様によぎっているに違いない。

                        総督がゆっくりとボンドに向き直った。 そして穏やかな笑みを浮かべて、こう言った。

                      「今晩は2人とも楽しそうだったと思うよ」

                        その言葉を聞いた瞬間、ボンドは急に自分の半生が空虚なものに思えてきた。

                        人の人生の裏側など、充分すぎる程に知っていたと思っていが、人それぞれが思いもかけない半生を辿ってきているのだ。

                        陽気でにこやかな笑顔を絶やさなかったミラー夫人の半生が、そんな想像を絶するものだったとは。

                        してやったり、と思っている今回のカストロ派のヨットを焼き払った事など、まるでダブロイド紙の4コマ漫画のネタだ。 どん底の人生を知らない自分が、人生の裏面など分り様が無いのだ。

                        ボンドは打ち延ばされた気持ちになった、が、笑顔を浮かべて総督に手を差しのべた。

                      「面白いお話しをありがとうございました。 それにお詫びしなければなりません。 ハーヴェイ・ミラー夫人を退屈な人だと思っていたんです。 あの人の事は忘れません。 それにつけても、お礼申し上げます。 これからは、もっと人を見る時は気を付けます。 いい教訓になりました」

                        総督はボンドと握手を交わしながら笑顔を浮かべた。

                      「面白い話しと受け取ってもらえて、何よりです。 あなたが退屈しているのではないうか、と思っていました。 だいぶ派手な生き方をしている様ですからな。 正直なところ、食事の後でどんな話しをしたものやら、全く見当が付かなかった。 植民省勤めと云うのは、ひどく単調なものなのでね」

                        おやすみの挨拶をかわして、ボンドはホテルへの道を歩き始めた。

                        明日の、マイアミでの沿岸警備隊や連邦警察の担当者との会議の事が頭をよぎった。

                        これまでは張り合いが出たそんな会議も、今は退屈な空しいものの様に思えてきていた。

                       

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                        以上は、創元推理文庫 〈Mフ10 5〉 007 バラと拳銃 井上一夫訳(敬称略) を、私が読んだ上での要約・抜粋です。

                        「あらすじ」としてまとめる関係上、一部翻訳内容とは異なってしまった部分があります。 この部分は私=紅真吾の創作である事を明記致します。 加えて、井上一夫氏の翻訳に対して、他意は無い事を申し上げます。

                        文末になってしまいましたが、イアン・フレミング氏による小説の発行にご尽力下さいました株式会社東京創元社の関係者の皆様、並びに翻訳下さった井上一夫氏に対して、あらためて感謝申し上げます。

                       

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                      引き続き 『薔薇と拳銃/解説編』 へどうぞ。

                       

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                      profilephoto 007映画の熱烈なファンです。 それ以上でもそれ以下でもない、と自負しております。

                      記事の種別は、ツキイチ掲載の「Vol.シリーズ」と適宜掲載の「番外編シリーズ」と作品紹介の「特別編」の3種です。

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                      月別の掲載記事数。(『007おしゃべり箱』は'12年10月に開始しました)

                      コメント

                      • 007おしゃべり箱 Vol.52A−9 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「ナッソーの夜」ストーリー編』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.52A−8 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「珍魚ヒルデブランド」ストーリー編/後編』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.52A−6 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「危険」ストーリー編/後編』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.52A−4 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「読後焼却すべし」ストーリー編/後編』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.52A−2 『原作小説紹介/薔薇と拳銃〜「薔薇と拳銃」ストーリー編/後編』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 番外編(144) 「MGCの広告 in 1966」
                        紅真吾
                      • 007おしゃべり箱 番外編(144) 「MGCの広告 in 1966」
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.50−9 『原作紹介/ゴールドフィンガー』
                        紅真吾
                      • 007おしゃべり箱 Vol.50−9 『原作紹介/ゴールドフィンガー』
                        カルマン・フィッシュ
                      • 007おしゃべり箱 Vol.49 『ケン・アダムは斜めがお好き』
                        カルマン・フィッシュ

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