007おしゃべり箱 コメント御礼(17)&小説「サンダーボール作戦」の考察

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    007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

     

    コメント御礼(17) & 小説「サンダーボール作戦」の考察

     

    by 紅 真吾

     

    カルマン・フィッシュ殿

      拙著『原作紹介/サンダーボール作戦』についてコメントを頂き、ありがとうございます。

      ホントに嬉しい。

      貴殿が寄せて頂くコメントだけが励みです、と申し上げても過言ではありません。

      (だって、他に誰も寄せてくれないンだもん)

     

      そうなんです。 今までの作品にもレイターは度々登場していましたが、今回はいつにも増して出番が多く、主要な登場人物となっています。

      だもんで、テキサス出身の陽気なヤンキーってキャラクターが前面に出ていて、楽しい脇役でした。

      泣く泣く削った【解説編】に載せたエピソードはその最たるものでして、お楽しみ頂けて良かったです。

     

    *****

     

      ところで、【ストーリー編】を起こしていて、冒頭の自然療養所=シュラブランズでの一件がちょっと気になりました。

      Wikipediaでの『サンダーボール作戦』についての記事のなかでは、

      元来、「ロシアから愛をこめて」に続く作品として想定されていたため、ボンドの生死が不明に終わった前作を引き継ぐ形で冒頭、リハビリ施設に入所中ということになっているのはその名残である。 とありました。

    「ふ〜ん、そうなんだ」 ですが、ちょっと引っ掛かります。

      マクローリー氏らと共に立ち上げたザナドゥ・プロダクションが「ロシアから愛をこめて」を映画化し、その続作として「サンダーボール作戦」のシナリオを練っていた、であれば、上記の記述も納得がいきます。

      しかし、そうではありません。

      マクローリー氏らと練っていた映画のストーリーで、小説「ロシアから愛をこめて」のラストシーンとの整合性を考慮する必要など、全く無いのです。

      小説「ロシアから愛をこめて」の発表は’57年です。 その後’58年に発表した小説「ドクター・ノオ」で、「ロシアから〜」のラストシーンとの整合性は取ってあります。

      その後’59年の「ゴールドフィンガー」を挟んで’61年の「サンダーボール作戦」で、何故「ロシアから〜」のラストシーンの繋がりを残さねばならぬのか。

     

      改めて小説「サンダーボール作戦」のストーリーを俯瞰すると、このシュラブランズでのお話しは、無くてもいっこうに差支えが無い事が解かります。

      パトリシア・フィアリング嬢がいなくなってしまうのはチト寂しいですが、リッピ伯爵との一件など無くなっても、“スペクターによる原爆強奪とそれを追うボンド”といったストーリーの大筋には何ら影響はありません。

      率直に言えば、“余計”なのです。

      ですから、映画『サンダーボール作戦』では、ペタッチの替え玉の整形手術が行われていた、とか、同じく『ネバー・セイ・ネバー・アゲイン』では、ペタッチの角膜手術が行われていた、とか、何とか関連付けされていました。

      そうしないと、療養所でのシークエンスが浮いてしまうからです。

     

      シュラブランズのお話しは丸々カット。

      その分、ドミノ嬢とのお色気シーンを書き込んだ方が、よりボンド小説っぽくなりましょう。

      現に2人を全裸で泳がせておきながら(「ムーンレイカー」では下着姿でした)、読者へのエッチ・サービスが無いのは、今までのスタイルからいって異様です。

      また、ナッソーに着いたボンドが総督府でのミーティングを終えて街に出た所で、偶然にドミノ嬢と出会う、といった展開は、何とも強引です。

      ここは何か小噺を挟むべきだと感じました。

      例えば、総督の美人秘書に街を案内して貰っている際に、みたいな展開です。

     

      それはともかく、では、何故小説「サンダーボール作戦」の始めに、そんな余計なシュラブランズのお話しが盛り込まれたのか。

      私が想像するに、フレミング氏がマクローリー氏ウィッティンガム氏らとシナリオを練る前に、このシュラブランズでのミニ・ストーリーがあった、です。

      もしかしたら、Wikipediaの記述の様に、小説「ロシアから〜」を書いた後で思い付いたストーリーだったかもしれません。

    しかし前後のアイディアが浮かばず、短編にも加工できず、引き出しの奥にしまい込まれた。

      ご承知の通り、フレミング氏の作品は数がそう多くありません。 湯水のごとく溢れるアイディアを次から次へとまとめていく、といった作家ではなかったのです。

      で、映画化の話しがボツになったのを幸い、マクローリー氏ウィッティンガム氏らと練っていたストーリーを勝手に拝借する事にした。

      その際、自分独自の小説っぽくする為に、引き出しの奥からシュラブランズの一件を引っぱり出して冒頭に付け加えた。

      私はそんな様に想像しています。

      カルマン・フィッシュ殿はどう思われますか。

     

    *****

     

      またまたところで、パリのスペクター会議の所で、何かお気付きになりませんでしたか。

      7時きっかりに、この会議を構成する20人の男は、〜中略〜会議室へ入っていった。

      1号から21号までの番号が彼らの唯一の名前であり (訳文そのまま)

      20人の幹部+ブロフェルドで21名。

      20人の幹部は2人の科学者と、シチリア、コルシカ、ロシア、ドイツ、ユーゴスラビア、トルコ、の3人グループの18人との事です。 ここまでは良い。

      では、ラルゴはどこへいったのか。

      幹部20+ブロフェルド+ラルゴで、番号は1号から22号まででなければなりません。

      また、ナポリ出身のラルゴはシチリア人グループには入りません。 共産党の3人組細胞制度を取り入れた幹部グループには入らないのです。

      でも、ラルゴは2号になってますよね。

      ヘンでしょ。

    「フレミングさんッ、アンタは数も数えられないのか!」 私は思わず文庫本を机に叩き付けてしまいました。

     

      フレミング氏が20以上の数は数えられない、なんて事はあるワケ無いのでありまして、これは氏の執筆作業の中で、「校正」と云う作業が無かった事を表している、と思います。

      読み返せば気が付くでしょ、普通は。

      と云う事は、読み返して無いんですよ。

      【解説編】のあとがきでも記しましたが、氏は草稿から原稿そして校正、といった作業はしなかった。 タイプライターで打った端から出版原稿としていた、と思われます。

      氏は新聞記者上がりです。 新聞記事となれば、巧遅よりも拙速が求められます。 書いたそばから“上がり”なんです。

      元々そういった執筆方法だったのでしょう。

     

    *****

     

      今回、『原作紹介/〜』の9回目にして、ようやく気付いた事があります。

      過去、拙著の中で「原作はてんで面白く無い」と記してます。

      何故に私はそう思ったのか。 そう記したのか。

      それはフレミング氏の小説が、およそ“練りに練った一編を読者と云うバッターに投げ込んで勝負する”といった印象が無かったからですね。

      ストーリーとしては悪くは無いのですが、一編の小説としてはイマイチ感がつのります。

     

    「オイ、オヤジ、もっとキチンと発表しろよ。 おかげでこっちはエライ苦労をしたんだぜィ」

      あの世へ行ったら、ぜひともフレミング氏をつかまえてそう言うつもりです。

    「ハハ・・・、それはすまなかったねェ、紅クン。 しかし、結果としてそれで良かったのかもしれないョ」

    「はァ?」

    「キミが小説の雰囲気を大切にしながら上手い具合にまとめてくれたおかげで、私の小説の理解者が増えたのだからね」

    「そういう問題じゃ無い様な気がしますけどねェ」

    「とにかく紅クン、キミも007ファンを自称するのであれば、私の小説についてそんな重箱の隅をつつく様な事をせんで、もっと私の小説や私自身を面白く紹介してくれなければ困るよ」

      と、こんなトコロじゃなかろーか、と思いますけどネ。

     

    *****

     

    カルマン・フィッシュ殿

      いつも拙著をご贔屓下さいまして、誠にありがとうございます。

      この『原作紹介/〜』も後半戦に入りましたが、決してダレる事無く1作毎に全力投球で挑む所存です。 今後とも『007おしゃべり箱』をよろしくお願い申し上げます。

      文末になりましたが、貴殿の『カルマン・フィッシュにうってつけの日』の益々のご発展をお祈り申し上げます。

     

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    007おしゃべり箱 Vol.54A-1 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(1)』

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      007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

       

      Vol.54A-1

       

      『原作紹介/サンダーボール作戦』

      Ian Fleming’s THUNDERBALL

       

      【ストーリー編 1/9

       

      by 紅 真吾

       

        フレミング氏による原作小説の9作目、『サンダーボール作戦』(1961年)の紹介です。

        今回は、

        【ストーリー編 1/9】  【ストーリー編 2/9】  【ストーリー編 3/9】

        【ストーリー編 4/9】  【ストーリー編 5/9】  【ストーリー編 6/9】

        【ストーリー編 7/9】  【ストーリー編 8/9】  【ストーリー編 9/9】

        それと、【解説編】 といった構成でお届けします。

       

        原作小説とは言っても、厳密には“半・ノベライズ”ですかね。 このアタリの事情は解説編で軽く説明します。

        それはともかく、お話しは’65年の映画とほぼ同じです。 映画のシーンを思い出しながらお楽しみ頂けるのでは、と思っております。

        また、この小説は“フレミング・マジック”もしくは“フレミング効果”が如実に現れた作品ではないか、と思っております。 このアタリも解説編で踏み込んでいくつもりです。

        ま、今回も特別編(3)『原作リスト』で記した通り、「読んでいない人も、読んだ気になれる」、「読んだのははるか昔で内容を忘れてしまった人も、記憶が甦る」、を目指して、あらすじを詳しく紹介致します。

        では、どうぞ。

       

      *****

       

        月曜の朝、ボンドは二日酔いの頭痛で目を覚ました。

        昨夜パーク・レーンの豪奢なアパートで最後に飲んだウィスキー・ソーダが余計だったのだ。

        しかも、飲みすぎだぞと自覚しながら、最後の大勝負で敵にグランド・スラムを献上してしまうという大失態をやらかしてしまった。

        こんな事になるのも、全ては退屈な書類仕事のせいだ。

        ここ一ヶ月以上も、愚にもつかない書類に目を通してサインするといった毎日が続いているのだった。

        しかも今日は月曜日。 また書類仕事の一週間が始まると思うと、余計に頭痛がひどくなってくる。

        ボンドはうんざりした思いで、先ずはタバコに火を点けた。

        とにかく頭痛薬=アスピリンだ。 ボンドはおぼつかない足どりで居間に向かった。

        キャビネットの引き出しを開けて頭痛薬に手を伸ばした時、寝室にある本部直通の電話が大きな音を立てて鳴った。

       

        Мはデスクの向こうから、いつもと同じ穏やかなグレイの瞳でボンドを見上げた。

      「おはよう、ジェームス。 早くに引っぱり出して気の毒だったな。 まあ掛けたまえ」

        Мが007と番号で呼ばずにジェームスと名前で呼んだ時は、いい話しであったためしは無い。 やっと任務だ、と気負い込んで飛び出して来たが、どうやら肩透かしの様だ。

        しかし、Мの表情はくつろいでいる。 もしかしたら、そんなに悪い事でも無さそうだ。

        ボンドは僅かに残る頭痛を押さえながら、Мに合わせて当たり障りのない挨拶を返した。

        デスクの前にボンドを座らせたМは、1枚の書類を手にした。

      「しばらく顔をみなかったな、ジェームス。 調子はどうだ? つまり、体の具合はどうかという事だが」 Мはボンドに優しく語りかけた。

      「ええ、元気です。 いつでも任務に出られます」

      「ところがな、ジェームス。 医者はそうは言っとらんのだ」 Мの口調はあくまで穏やかだった。 「この報告書はこの前の健康診断の結果だ。 君にも医者の見解を聞かせておいた方がいいと思ってな」

        ちえッ! 何て事だ。 ボンドは心の中で悪態をついた。

      「どんな事でしょうか?」 それでもボンドは大人しく応じた。

      「いいかね?」 Мはそう言うと、値踏みする様な目つきでボンドを見やると、手元の書類を読み始めた。

      −この部員は特に悪いところは無いが、生活習慣を改めねば、健康な状態を保つ事は出来ないであろう。 以前から忠告していたにもかかわらず、タバコを日に60本も吸っている。 しかもニコチン含有量の多いバルカン葉のタバコである。

        しかも、激務に従事していない時は、毎日アルコール度数が60から70の酒類を半ビンほど摂取している。−

        ボンドは神妙に聞くそぶりをしながら、所詮は医者の難癖だと聞き流した。 が、Мは熱心に書類を読み続けていく。

      −しかし、さらに強く質問したところ、しばしば頭痛をおぼえる事を認めた。 触診の結果、背部僧帽筋の痙攣があり、リューマチ性繊組織炎の小瘤が触知された。 この症状は当部員の生活態度に起因するものと思われる。−

        ここでМは、目線を上げた。 ちゃんと聞いているか、と言う様にボンドをひと睨みする。

      −当方が医学的見地から忠告を重ねてきたが、残念ながら当部員は全く聞き入れようとしない。 この様な部員に推薦すべき処置は、2〜3週間の節制した生活である。−

      「どうだね、ジェームス。 決して申し分無い、とは言えんだろう」 Мの口調は穏やかだった。

      「私はいたって健康です」 ボンドは癇癪を押さえて言った。 「私だってタバコの吸い過ぎや酒の飲み過ぎは自覚しています。 ですから、節制するように努めています。 それに、誰だって頭が痛くなる時はありますよ。 そんな時はアスピリンを飲めばいいんです。 すぐに頭痛なんて収まってしまいます。 とにかく、そんなひどいものじゃありませんから」

        ボンドはぶり返してきた頭痛をこらえながら、そう訴えた。

      「ジェームス、それが間違い元なのだ」 Мがピシャリと言った。 「薬に頼るのはその場しのぎにすぎん。 自然に反する事だからな」 Мは得々と語り始めた。 「これは我々が口にしている食べ物についても言えるのだ。 君は石臼で挽いた本当の全麦パンを食べているかね? 生野菜や新鮮な果物をどれくらい食べとるかな?」

      「そう言われると、そういった物はほとんど食べてませんね」 ボンドは意外な話しの展開に、つい苦笑いを浮かべた。

      「笑い事ではないぞ、ジェームス!」 Мはボンドを睨み付けた。 「よく聞きたまえ、自然に逆らって健康になる道など無いのだ。 今の君の体の状態は、自然に反した暮らし方をしてきた当然の結果なのだ!」

        ボンドは抗議しようと口を開いたが、Мは手を上げて押さえた。

      「君はバーチャー・ブレンナーという名前を聞いた事があるかな? それともクナイプとかブライスニッツ、リクリーといった人物を知っとるかね?」

      「いえ、知りません」

      「そうだろう。 とにかく君も考えを改めてこういった人達の事を勉強したまえ。 彼らは皆、自然療法の大家だ。 我々は迂闊にも彼らの警告を無視してきてしまったのだ」 Мは熱っぽく目を輝かせた。 「幸い、イギリスには彼らの後継者が大勢仕事をやっている。 自然療法と云うやつがごく身近にあるんだ」

        ボンドは怪訝そうにМの顔を見つめた。 いったい親父さんはどうしちまったんだ? これはもしかして、老人がもうろくしていく兆候なのだろうか? 

        しかし、いつも以上にかくしゃくとしているし、顔はしわに刻まれているとは言え、肌に張りがある。 いつもと違って、まるで生き返った様に溌剌としている。

        では、月曜の朝っぱらの、この妙な話しはいったい何なのだろう?

      「ま、ジェームス、話しはそれだけだ」 Мはそう言うと、未決の書類ケースに手を伸ばした。 「マネペニー君に予約を申し込ませておいた。 2週間で充分に健康になれるだろう。 帰ってくる頃には、自分でも信じられないくらい別人の様になってるぞ」

        ボンドは、あっけにとられてМを眺めた。

      「あの、帰ってくるって、どこからですか?」

      「シェラブランズと云う自然療法の施設だ。 この分野ではかなり有名なジョシュア・ウェインと云う男がやっとる。 齢は65だが40以上には見えん。 最新式の設備が整っていて、専用の薬草園まで備えているんだ」

        ボンドは自分の耳が信じられなかった。

      「しかし、そのう、私は完璧に健康なんです。 それなのに何故、そんな所へ行かなきゃならないんですか?」

       Мは陰気な笑顔を浮かべた。

      「いや、どうしてもというわけでは無い。 だが君が00課に留まっていたいのなら、必要だ。 私としては百パーセント健康な者でなければ、00課に置いておく事は出来んからな」 Мはそう言うと、暗号書類の綴じ込みを手に取った。

      「以上だ、007」 Мはボンドにそう告げると、未決書類に目を落とした。

       

       ボンドがМの部屋を出ると、ミス・マネペニーが笑顔を浮かべていた。

      「マネペニー、こりゃいったいどういう事なんだ?!」 ボンドは彼女の前に立つと、タイプライターが飛び上がるくらいに、思いっきり机を叩いた。

      「とんだ災難だったわねえ」 マネペニーは笑いながら応えた。 「これも例のすぐ消えてしまう波の1つだと思うわ。 ただ、あなたが運悪くそれに捕まってしまったのよ」 マネペニーは楽しげにそう続けた。

      「Мが部下の体調について、しょっちゅう頭を悩ませているのは知ってるでしょう? ほら、前にも全員が体操の講習を受けさせられた事があったじゃない。 それに、精神分析医を連れて来た事もあったわよね。 あ、あの時はあなたは海外に出かけていて助かったんだったわね。

        とにかく先月、Мは悩まされていた腰痛の事で、ブレイズ・クラブの友達にその田舎の療養所を教えて貰ったのよ。 あなたも分かっているでしょ、Мは何でも自分で試したがる人だって事。 だから、早速10日間行ってきたのよ。 そしたら、帰って来た時はすっかり若返っていて、自然療法の信者になってしまったのよね」

       マネペニーは可愛らしい口をとがらせた。

      「確かに親父さんは見違える様に溌剌としているけど、だからってどうして私をそんな所に放り込む気になったんだろう?」

      「あなたの事を大切な部下だと思っているからじゃないかしら。 健康診断の報告書を見たとたんに予約しろ、と言ってきたんですもの」

        ミス・マネペニーは一息つくと、鼻をゆがめた。 「でも、ジェームス」 マネペニーはボンドをひたと見つめた。

      「あなた本当にそんなにタバコを吸ったりお酒を飲んだりしてるの? 体に悪い事くらい分かってるでしょうに」 まるで母親みたいな口ぶりだ。

      「マネペニー、君までそんな説教じみた事をいうのかい?」 ボンドはこみ上げる怒りを押さえて言った。 「それ以上私の生活に口出しするのなら、戻ってから思いっきり折檻してやるからな」

        ミス・マネペニーは優しい笑顔を浮かべてボンドを見上げた。

      「あらジェームス、木の実とオレンジジュースだけで2週間過ごしてきたら、そんな折檻なんて出来やしないんじゃないかしら?」

        ボンドは誰にともなく怒鳴り声を上げると、廊下に飛び出した。

       

      *****

       

        ジェームス・ボンドは駅前に停まっていた古いオースチンのタクシーの後部座席にカバンを放り込むと、助手席に乗り込んだ。 

      「シュラブランズまで」 ボンドがそう告げると、若い運転手は一通りギヤをガチャガチャ動かしてからオースチンを発車させた。

        タクシーはブライトン街道を走っていく。 

      「お客さんは、あそこに入るんスか?」 しばらくして運転手が口を開いた。

      「そうなんだよ。 無理やり2週間放り込まれる事になっちまったのさ」

      「へえ〜、でもあんたはいつもあそこに送ってる他の客とは、毛色が違うねえ。 たいていは太った女か爺さんで、そんなに早く走ると坐骨神経に響く、とか言う連中ばかりだよ」

        ボンドは笑った。 「自分から行く事にしたんじゃ無いからね。 上司の命令だよ。 ところで、そこの評判はどうなんだい?」

      「世間じゃあ、あんな所は頭のおかしな連中の集まりだと思ってるね。 あんたもビックリするぜ。 大の男がさ、それもロンドンあたりでは大物と呼ばれる様な連中がだよ、空きっ腹を抱えて喫茶店へと抜け出して来るんだ。 そして、見つかりゃしないかと辺りを見回しながら、バター・トーストや砂糖クッキーなんかをガツガツ食べるのさ。 まったく、恥ずかしいとは思わないのかねえ」

      「せっかく大金を払って治療に入ってるっていうのに、妙な事をするもんだねえ」

      「そいだけじゃ無いよ」 若者は口をとがらせた。 「週に20ポンドもふんだくっといて、ロクな食い物しか出さないなんておかしいぜ」

      「食事療法も治療の一環なんだろ。 20ポンドで体調が良くなるのだったら、年寄りには有難いんだろうさ」

      「そんなもんかなあ。 そう言えば駅まで送り返す時には、生まれ変わったみたいになってるのが多いな。 木の実や果物くらいで1週間も暮らしたくせに、自転車に乗った女の子のケツを振り返る様な、ヒヒ爺になってるのまで居たからなあ」

        運転手はクスクスと笑った。

       

        タクシーは街道をそれると、坦々とした田舎道を飛ばしていく。

        しばらく走ると、道路の右手に「シュラブランズ」の看板が見えてきた。

        タクシーは道を曲がって林の中を進んでいく。

        やがて、もったいぶったヴィクトリア風の建物の前に着いた。

        ボンドは料金を払ってタクシーを降りると、後部座席からカバンを取り上げた。

      「おおきに。 抜け出したくなったら電話下さいよ。 ブライトン街道には美味いバター・マフィンを出す喫茶店がいくつかあるから、喜んで案内しますよ。 そいじゃ」

        ギヤをガチャガチャさせてタクシーが行ってしまうと、ボンドは諦めた様に玄関へと向かった。

        ドアを開けると、左手が受付だった。 入院の手続きをしてくれたのは、白衣を着た、美人だがきつい感じの女だった。

        ボンドは建物の奥の方の部屋に案内される。 院長先生は1時間くらい後でお目にかかるでしょう、との事だ。

        一応、家具らしい家具が揃っている居心地の良さそうな部屋だった。 デスクの上には「自然療法解説」という本が立てかけてあった。

        ボンドは肘掛け椅子に腰を下ろして、その本を開いた。 肉体から有害な毒素を取り除く、といった論文を拾い読みしていく。

        ボンドも聞いた事が無い様な食物の章を過ぎて、様々なマッサージの章を終えた時、電話が鳴った。

       

        診察室に入ったボンドを、ジョシュア・ウェイン博士は力のこもった握手で迎えた。

        普段とは違う若い患者に興味を持っている様だ。

        部屋の中を歩く足取りは弾む様な大股で、確かにМが言った通り40以上には見えない。

        ウェイン博士に促されて、ボンドはパンツ1枚になった。

      「これはこれはボンドさん、だいぶあちこちの戦場に出られた様ですな」 ボンドの体のあちこちにある傷痕を見たウェイン博士は、感嘆の声を上げた。

      「ええ、何回も命を落とすところでした」 ボンドはそっ気無く応えた。

        ウェイン博士はしばらくの間ボンドの体を診察した。

      「ボンドさん、たいして心配する事はありませんよ。 ただ、背骨の上の方にチョット障碍がありますね、これが頭痛の原因ですな。 それから、右の腰骨と右仙骨に少しストレス状態があります。 これが背骨に影響を与えている様ですね」

        ウェイン博士はそう言いながら、書類に何やら書き込んでいく。 そして、「さて」と声を上げると、服を着こんでいるボンドに向き直った。

      「ではボンドさん、血液中の毒素を取り除くために1週間の厳密な食事療法を受けてもらいます。 また、骨格を整えるために寒暖両方の腰湯療法とマッサージ療法、それに背骨の障碍を除くための軽い牽引療法を行います。 しかしあなたの場合は、それで十分でしょう」

        ウェイン博士は立ち上がると、ボンドに書類を手渡した。 「30分後に地下の治療室へどうぞ」

      「どうも」 やれやれ、何やらいろいろと受けさせられそうだ。 「ところで、牽引療法とはどんな治療なのですか?」

      「機械を使って背骨を伸ばす治療法です。 とても効果的なんですよ。 もっとも、口さがない患者さんは“拷問台”なんて言ってますがね、気にしないで下さい」

      「口の悪いのは、どこにでも居ますからねえ」 ボンドは笑って応じた。

       

        ボンドは診察室を出ると、廊下を歩いてロビーに行ってみた。

        ソファーに座って本を読んでいる人も居れば、静かに談笑している人達が居る。 皆、歳を取った中産階級の人間らしい佇まいだ。

        温かいがこもった様な空気にいたたまれず、ボンドは玄関のドアを開けて外に出た。

        狭いが手入れの行き届いた道を歩きながら、思わず、こんな所でどうやって2週間も我慢するか、考え込んでしまう。

        そんな考え事をしていたので、もう少しで生垣の角から出て来た白衣の女性と、鉢合わせしてしまうところだった。

        女がひらりと体をかわしてボンドに笑顔を向けた時、藤色のベントレーが猛スピードで曲がって来た。

        ボンドは一歩踏み出して女の腰を引き寄せると、体を回しながら女をクルマの前から救い上げた。

        ベントレーが砂利を飛ばしながら止まった。

        クルマから下りてきた男は、恐ろしいくらいの色男だった。

      「なーんだ、お馴染みのパトリシアじゃないか。 私の準備はできているかい?」

        スペインか南米を思わせる整った顔立ちに笑顔を浮かべている。

      「リッピ伯爵、気を付けてくれなければ困ります」 女がぴしゃりと言った。 「この道は患者さん達がいつも散歩に歩いている事はご存知でしょう」

      「すまんすまん、ウェイン先生の診察に遅れそうだったのでね」 そしてボンドに向き直ると、「どうもありがとう。 あやうくパトリシアを轢いてしまうところでした。 あなたは身のこなしが早いですね。 さて、それでは・・・」 男は片手を上げるとベントレーに乗り込んだ。

      「あら、私も急がなくちゃ」 

        ボンドは彼女と一緒に、ベントレーが走っていった道を歩き出した。

      「ここで働いているのかい?」 ボンドは彼女を仔細に眺めながら言った。

        こりこりと締まった体つきで、医師が着ている様な白いスモックを着ているが、胸やお尻の線がくっきりと浮かび上がっている。

        女はそうだと答え、3年になる、と言った。

      「ここはいろいろな人がお見えになるので飽きませんわ。 今のクルマの人もリッピ伯爵といって、マカオで事業をやってるとかで極東の面白い話しをいろいろとしてくれるんです」

        2人は玄関に入った。 「あら、急がなくちゃ。 さっきはどうもありがとうございました」 女はそう言うと治療室の方へ行ってしまった。

        ボンドは彼女のプリプリしたお尻を見つめていたが、腕時計に目をやって、白一色の地下への階段を降りていった。

       

        ボンドが治療室のドアを開けると、若い屈強なマッサージ師に迎えられた。

        マッサージ台の上では何人もの男達が治療を受けていた。

        ボンドも服を脱いで台に横になると、生まれて初めてと云うくらい深いところまで届く強いマッサージに身をまかせた。

        隣りの肥った男が立ち上がる気配がして、すぐに別の男がやって来たのが解かった。

      「すみませんが腕時計を外して頂けませんか」 マッサージ師の声がした。

      「ばか言え。 毎年ここに来ているが、時計を外せなんて言われた事は無いぞ」

        ボンドにも聞き覚えのある声だった。

      「あいすみません」 マッサージ師の口調は丁寧だったが、きっぱりとしていた。 「他の者が治療に当たったのでしょう。 しかし、腕時計をしていると血の流れの妨げになるんです。 治療のためには、外していただかなくては」

        ボンドには、リッピ伯爵が癇癪を押さえているのが分った。

      「じゃあ取れよ」 激しい口調でリッピ伯爵が答えた。

        つまらない出来事だが、ボンドには気になった。 マッサージを受けるのに腕時計を外すのは常識だ。 なぜこの男は腕時計を外すのを嫌がったのだろう?

      「あおむけにどうぞ」 ボンドは言われた通り体を上に向けた。 顔が自由に動かせる。

        リッピ伯爵の顔は向こうを向いていた。 左腕がだらんと下がっている。

        時計を外したあたりの白い肌に、くっきりと赤い刺青があった。 2本の縦線にジグザグが絡んでいる図柄だった。

        ではリッピ伯爵はこの刺青を見られたくなかったのだ。

        本部の資料部に問い合わせして、この刺青を付けているのはどんな連中なのか、調べてもらうのも一興だ。

       

      引き続き【ストーリー編 2/9】ヘどうぞ。

       

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      007おしゃべり箱 Vol.54A-2 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(2)』

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        「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

         

        007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

         

        Vol.54A-2

         

        『原作紹介/サンダーボール作戦』

        Ian Fleming’s THUNDERBALL

         

        【ストーリー編 2/9

         

        by 紅 真吾

         

        【ストーリー編 1/9】 の続きです。

         

          1時間の治療が終わった頃には、ボンドははらわたを抜き取れれた上に絞り器を通された様な気分になっていた。

          服を着るとМを呪いながら、1階に上がる階段を弱々しく登っていく。

          電話ボックスは1階のラウンジの入り口だ。

          ボンドは電話ボックスに入って受話器を取ると、交換台に外線電話でかけて良い事になっている本部の番号を告げる。

          相手が出ると自分の番号を言い、さっき見た事を伝えた。 一旦電話を切ってまたかけ直すと、資料部長が出た。

        「そいつはシナの党(トン)のマークだ」 資料部長は興味をそそられた様な口ぶりだ。 「赤雷党だよ。 完全な犯罪組織だ。 それがシナ人以外の党員とは珍しいな」 そう言うと、最近H支局が腕利きを2人もやられた事などを教えてくれた。 「何か手掛かりを掴んだのなら、ぜひ教えてくれ」

        「お世話さま」 ボンドはそう応えると、「まだ何も掴んじゃいないんだ。 何か判ったら知らせるよ。 じゃ、また」 と告げて受話器をフックにかけた。

          こいつは面白いぞ。 そんな男がこのシュラブランズでいったい何をしているのだろう?

          ボンドは考えをめぐらせながら電話ボックスを出た。

          隣りのボックスの動きが目に入った。 リッピ伯爵が向こうを向いて、受話器を取り上げたところだった。

          どのくらい前から居たのだろうか? こちらの話しを聞かれてしまっただろうか?

          ボンドは胃のあたりがムズムズする気がした。 バカげた失敗をやってしまった時に感じる、お馴染みの奴だ。

         

          時計を見ると、夕食の時間になっていた。 ボンドはラウンジを抜けると、食堂になっているサン・ルームに足を向けた。

          カウンターに向こうに立っている女看守みたいな中年女に名前を告げる。

          女は名簿を見ると、プラスチックのボウルに熱い野菜スープを注いだ。

        「これだけ?」 思わずボンドは尋ねた。

        「これでもあんたはいい方ですよ」 女看守はにこりともせずに冷たく言った。 「断食じゃ無いんですからね。 それにあんたはお昼に熱いスープ、4時にお茶を2杯も貰えるでしょう」 

          ボンドは苦笑すると、おぞましいスープのボウルを持ってテーブルに着いた。

          薄いスープを飲みながら、弱々しい足取りで部屋を出て行く連中を眺める。

          彼らに対して、ボンドは同病相憐れむといった気持ちになっていた。 今ではボンドも同じ仲間の一員なのだ。

          こうして2日が過ぎると、ボンドはひどく気分が悪くなってきていた。 少し頭痛もする。

          しかしマッサージ師は、心配しなくていい、と言った。 まだボンドの体の中に毒素が残っているので、そうなるのが当たり前だと何事も無い様に言う。

          すっかり腑抜けにされていたボンドは、抗議する気力も無くなっていた。

         

          3日目、ボンドは「整骨処置ならびに牽引療法」という指示を受けた。 地下の奥の治療室へ行く様に言われる。

          きっと筋肉隆々とした死刑執行人みたいな男に、体をバラバラにされるのだろう。 ボンドは暗鬱な気持ちでドアを開けた。

          ところが、ベンチの横に立っていたのは、ボンドが最初の日に小道で会ったパトリシアという娘だった。

        「これは驚いた。 君はこんな仕事をしているのかい?」

        「整骨の担当は、2割が女性です」 女はにこりともせずに応えた。 「さ、服を脱いでパンツ1枚になって下さい」 事務的な口調でボンドに告げる。

          ボンドはそんなパトリシアの態度が面白かったので、言われた通りパンツだけになって彼女の前に立った。

          彼女はボンドの周りを歩きながら、整骨医の目つきでボンドの体を観察していく。 体のあちこちにある傷痕など全く気にしていない様だ。

        「では、ベンチに横になって下さい」

          言われた通りベンチにうつ伏せになったボンドの横に立った彼女は、力のこもった強烈な手つきでボンドを治療していく。 手足を様々にひねられ、関節がきしみ上がる。

          ボンドは思わずうなり声を上げてしまった。 

          が、ボンドは治療を受けながら、半裸の男と美人が2人きりなのに色気の欠片も無いのが、恨めしかった。

          ベンチでの治療が済むと、「次は背骨を矯正します」 と彼女が言った。 そして、立って両手を彼女の後ろで組め、と言う。

          ボンドは言われた通りベンチの横に立つと、彼女の腰に手を回した。

          彼女はボンドのあばら骨の下のあたりの腰をグイと掴んだ。

          その時、ボンドの目はパトリシアの目と数インチしか離れていなかった。 ボンドには、もう我慢が出来なくなっていた。 力をこめて彼女の体を抱きしめると、正面から接吻する。

          パトリシアはボンドの脇から素早くかいくぐって逃げた。 そして、怒りに頬を紅潮させてボンドを睨みつける。

          これはビンタのひとつも喰らうだろうと、ボンドは覚悟を決めて、ニヤリと笑った。

        「ひっぱたかれても仕方が無いな。 でもキスせずにはいられなかったんだよ」

        「あなたは問題のある患者さんね」 パトリシアは腰に手を当ててボンドを睨んだ。 「この前こんな事をした人は、次の汽車で帰る事になったわ」

        「ほほう、そんな手があったか。 ここから追い出してもらえるんだったら、もう1度君にキスしようかな」

        「もう、バカな事言ってないで。 次は30分の牽引療法ですからね」 そして凄みのある笑顔を浮かべた。 「さっさと服を着て下さい。 牽引治療室に行きますから。 あの治療を終えた後で、あなたがどんなユーモアが言えるか楽しみだわ」

         

          ボンドとパトリシアがドアを出た時、リッピ伯爵が廊下を歩いてきていた。 伯爵はボンドを無視してパトリシアに会釈する。

        「屠殺所に引かれる仔羊がまいりましたよ。 今日の治療は君が手抜きをしてくれるといいんだがなあ」

        「すぐに伺います伯爵。 ボンドさんを牽引台にお連れするだけですから、あちらの部屋で準備してて下さい」 彼女はキビキビと答えた。

          ボンドはパトリシアの後をついて廊下を歩いくと、別の部屋に入った。

          彼女が部屋の奥のカーテンを開けると、ピカピカのアルミの外科手術台の様な妙な物が目に入った。 3つに分れた詰め物のある台に滑車が付いている。 彼女はそれぞれに付いている革のベルトを何かし始めた。

          台の下には頑丈そうななモーターが付いていた。

        「ここにうつ伏せに寝て下さい」

          ボンドはその機械の仕組みを胡散臭そうに眺めた。

        「嫌だ。 こいつは何の機械だい? どうも気に入らないな」

        「これはただ背骨を伸ばすためだけの機械です」 パトリシアは辛抱強く言った。 「あなたの背骨には障碍がありますから、これを使って治すんです。 眠くなって寝てしまう人だっているんですよ」

        「まさか」 ボンドは言った。 「どれくらいの力をかけるんだい? まさか体がちぎれてしまう様な事は無いだろうね」

        「いいかげんにして下さい」 彼女は癇癪を起してしまったようだ。 「最初はたったの90ポンドなんですよ。 15分たったら様子を見に来ます。 背骨が牽引に慣れたら120ポンドにセットしますわ。 さあブツブツ言って無いで、ここに横になって下さい」

          ボンドはしぶしぶ台に乗ってうつ伏せになった。 彼女が指した目盛りは200ポンドまで刻まれていて、150から上は赤で示されていた。

          パトリシアがボンドの胴のまわりを革のベルトで固定していく。 次は腰のまわりだ。

          彼女がダイヤルの脇のレバーに屈み込んだ時、スカートがボンドの頬をかすめた。

          モーターがうなり始める。

          ベルトがグッと締まっては緩んで、まるで巨人の手で引っ張られている様だ。

          ギヤが噛み合ったり外れたりして、リズミカルに体が牽引される。

          妙な感じではあるが、苦痛ではなかった。 ボンドは無理をして顔を上げると、ダイヤルを見た。 針は90ポンドを指していた。

        「気分はどうですか?」

        「ああ、そう悪くないな」 そうボンドが応えると、カーテンが揺れてドアが閉まる音がした。

          グイッグイッと背骨を引っぱる力は強いが、機械の単調なリズムは確かに眠気をそそられてくる。

          15分ばかりすると、彼女が戻って来た。

        「大丈夫ですか?」

        「いい気分だよ」

          彼女の手がレバーに伸びるのが目に入った。 ボンドはまた顔を上げる。 針は120のところに上がっていた。

          モーターの唸りが大きくなって、引っ張られる力がいっそう強くなった。

          パトリシアがボンドの肩に手をかけた。 「あと15分だけですからね」 優しい口調でボンドに言った。

        「大丈夫だ」

          カーテンが閉まった。 今度はモーターの音がうるさくて、ドアが閉まる音は聞こえなかった。

          ボンドは強烈な力に身をまかせて、リラックスする様に気分を変えた。

          しばらくして、頬に空気のそよぎを感じて、ボンドは目を開けた。

          目の前に男の腕があった。 その手がレバーを握る。

          ボンドはあっけにとられてその手を見つめた。

          男の手はゆっくりとレバーを動かしていく。

          モーターの唸りやギヤの音が、まるで機関車の様になった。

          体を引っ張る力がどんどん強くなる。 今にも体が千切られそうだ。

          ボンドは怒鳴り声を上げたが、目の前がかすんできた。

          男の手がレバーから離れて、ボンドの目の前で止まった。

          その手首には、縦線にジグザグがからんでいる赤い刺青があった。

        「余計な事に首を突っ込むからこういう事になるのだ」 耳の傍で男の声がした。

          ボンドは何か言おうとしたが、意識が遠くなっていった。

         

        *****

         

          ボソボソと話す声が、だんだんはっきりと聞こえてきた。

        「ではミス・フィアリング、変だと気付いたのはなぜだったのかね?」

        「音です。 こっちの治療が終わった時、機械の音が耳に入ったんです。 始めはドアを閉め忘れたのかもしれない、と思って見に来たんです。 そしたら、こんなありさまでした。 すぐに機械を止めて、外科からコーラマインを持って来て1CCを静脈注射しました。 脈がすごく弱っていましたから。 それから先生に電話したんです」

        「ミス・フィアリング、君の処置は適確だった。 きっとこの患者が何の気なしにレバーを引いてしまったんだろう。 いったいどういうつもりだったのやら。 危うく命を落とすところだった」

          ボンドの手首がおずおずとつかまれる。 脈を診ているのだろう。

          みんなМが悪いんだ。 ボンドは心の中で叫んだ。 こんな事になったのも、Мがバカな事を思い付いたせいだ。 参謀本部でも大臣でも全部ぶちまけてやる。

          Мは頭がおかしくなっていて、国家に危機を招いている、と。 今こそ、大英帝国を救う使命がボンドの双肩にかかっているのだ。

          そんな考えが頭の中を駆け巡り、ボンドはまた気が遠くなっていった。

         

          次にボンドが気が付いたのは、温かいベッドの上だった。 うつ伏せに寝かされた背中が、太陽灯で照らされていた。

          その背中を、柔らかいビロードの様な2つの手がリズミカルにさすってくれている。 骨まで沁み込む様な贅沢な感覚で、ボンドはしばらくその気分に浸っていた。

        「これが罨法マッサージなのかい?」

        「意識を取り戻したのは気が付いていたわ」 女の声が優しく応えた。 「肌の張りが変わったから。 気分はいかが?」

        「すばらしいよ。 ウィスキーのオン・ザ・ロックをダブルでやったら、もっといい気分になれそうだ」

          女は笑った。 「気付けにどうかと思って、ブランデーを持って来てます。 起き上がれます? ガウンをかけてあげますわ」

          ボンドはベッドに手をついてゆっくりと起き上がった。 全身ににぶい痛みが戻って来る。

          白衣を着たパトリシア・フィアリングが目の前に立っていた。  優しい笑顔を浮かべている。 こうして見ると、惚れ惚れする程の女だ。

          片手に厚いミンクの手袋を持っているが、その手袋は毛が甲にでは無く手のひらの方に付いていた。 もう一方の手にはグラスを持っていた。

          ボンドはグラスを受け取った。 ブランデーをすすりながら氷のカチカチぶつかる音を聞くと、改めて生き返った気分になった。

          それにしても、この女は素敵だ。 この女となら身を固めてもいい。 毎晩この罨法マッサージとやらをやって貰って、時々こうやって強くて旨い酒を飲むのだ。

          ボンドは彼女に笑顔を見せると、空になったグラスを差し出した。 「もう1杯」

        「そうね、でも、もう1杯だけよ」 彼女は笑った。 

          が、出し抜けに医者の様な目つきになった。

        「それにしても、どういう事だったのか話して下さらなくては。 うっかりレバーにさわったんじゃないですか? おかげで大騒ぎだったんですよ」

        「そうなんだ。 もっといい気分になろうと手を伸ばしたんだよ」  ボンドはとぼけて彼女を見返した。 確かにリッピと云う男に殺されかけたが、こんな事をМに報告出来るわけは無い。 

        「何か固い物に触れたのは憶えているけど、それがレバーだったんだね。 それっきり憶えてないよ。 とにかく、君が来てくれて本当に良かった」

        「そうじゃないか、と思っていましたわ。 2日も手当すれば元通りになりますから」

          ボンドは彼女からブラデーのおかわりを受け取った。

        「ところで・・・」 彼女が言いにくそうに口を開いた。 「ウェイン先生に言われたんですけど、今度の事は内聞にして頂けません? 他の患者さんが心配するといけないので・・・」

        「もちろんさ」 ボンドは答えた。 ここは決して表ざたにせずに、リッピにお返しをしなくては。 「とにかく私が悪かったんだからね」 ボンドはそう言ってグラスを返すと、そろそろと用心深くベッドに寝そべった。

        「もう少しそのマッサージをやってくれないかな? それはそうと、私と結婚しないか? 君は男をちゃんと手当できるただ1人の女だよ」

        「バカな事を言ってないで、うつ伏せに寝て下さい」 彼女は笑った。 「手当が必要なのはあなたの背中なんですからね」

         

          2日後、ボンドは再び自然療法の半俗世に戻った。 お定まりの日課が始まった。

          しかし、この頃になるとボンドは、今まで感じた事が無いくらいに、自分の体が健康になってきているのに気が付いた。

          痛みらしいのはどこも無いし、夜もぐっすりと眠れる。 なにより、朝の目覚めが爽快だった。 自分でも全く面喰う様な感じだ。 

          しかし健康なのは良いが、無鉄砲さやしぶとい根性を生んでいたいろいろの悪い点も無くなってしまってはいないだろうか? 穏やかな理想主義者みたいになってしまって、情報部など辞めたくなってしまうのではないだろうか?

          ボンドはそう感じると、リッピ伯爵のはらわたを絞り出してやる方法を考える事に意識を集中する事にした。

          パトリシアとのおしゃべりの中で、職員の仕事の分担や時間割などを聞き込んでいく。

          また、伯爵の日課も調べた。 治療は午前中だけで、午後は遅くまで例のベントレーで出掛けている様だった。

          ある日の午後、ボンドはプラスチック片で伯爵の部屋のエール錠を開けて忍び込んだ。

          部屋中を調べてみたが、何も怪しい物は見つからなかった。 ただ、衣類からは、世界中を旅行して回っているらしい事が解かった。

          とにかく、リッピと云う男は、ボンドが刺青の事を問い合わせていたのを小耳にはさんだだけで、あんな事を平気でやったのだ。 しかも、ボンドが牽引台に1人なのを知ったとたんに、素早く冷静にやってのけた。 その手際の良さは、ただ者では無い。

          彼は警告のつもりだったろうが、ボンドがどうなってしまうかまでは、解かってはいなかっただろう。 ボンドを殺すつもりは無かったかもしれないが、死んでしまってもいい、と判断したに違いない。

          それ程までに自分の正体を隠したがっているとは、このリッピと云う男は何者なのだろうか?

         

          このシュラブランズに来てから2週間目、最後の日になった。

          午前中にウェイン先生の診察を受けたボンドは、最後のマッサージを受けに地下へと降りていった。

          ボンドはマッサージ台に横になって、リッピ伯爵がやって来るのを耳を澄まして待った。

          やがて廊下のはずれのドアがシューっと開いてシューっと閉まった。

        「おはよう、ビレスフォード。 支度はいいか? 今日はちょっと熱くしてくれ。 最後だからな」

        「かしこまりましたリッピさん」 主任の声と共に伯爵のピシャピシャと裸足の音がマッサージ室のカーテンの外を通って、廊下の突き当りの部屋へと向かって行く。 電気式のサウナ室だ。

          しばらくして、リッピ伯爵をサウナ室に入れた係員が出て来るドアの音がした。

          ボンドは20分待った。 20分。 ボンドは起き上がった。

        「やあ、ありがとう、サム。 おかげで元気が出たよ。 次は最後の腰湯だ。 私の事はいいよ。 自分でできるから。 君は昼食のニンジン・カツを食べに行っていいぜ」

          ボンドは腰にタオルを巻いて、廊下に出た。 あちこちから係員が患者を帰らせるざわざわした声がしている。

          こういった毎日の様子から、ボンドは彼らが1分でも早く仕事から離れて昼食に行きたがっているのを知っていた。

          ボンドはシャワー室のカーテンを開けて中に滑り込んだ。

        「ビル、窓は閉めたか? よし」 廊下で、ビレスフォードの海軍士官みたいな声が響き渡った。 「午後は2時にダンパーさんだぞ。 レン、洗濯室に行って、午後はもっとタオルが要る、と伝えてくれ。 テッド、テッドはいないか? じゃあサム、リッピ伯爵の後をたのむ。 サウナ室だ」

        「いいすよ、ビルフォードさん」 ボンドはサムの太い声をまねて応えた。

          係員達が昼食へと職員用のドアから出て行く気配が伝わってくる。

          ボンドはそっとシャワー室から出ると、廊下を歩いていった。

          サウナ室は偵察済みだった。 他の治療室と同じ白塗りの真四角な小部屋で、サウナ用の大きな箱が置いてある。 中に入った患者は箱の上から頭だけ出して、体は箱の中に何列も並んでいる電球の熱にさらされる、と云う仕組みだった。

          ボンドはサウナ室のドアを開けて中に入った。

          箱はドアを背に向けて置かれている。 ドアの音を聞きつけたのか、リッピ伯爵が怒鳴り声を上げた。

        「おいビレスフォード、早く出せッ。 俺を干物にするつもりか!」

        「熱くしろというお言葉でしたから」 ボンドの愛想のいい声は、主任とそっくりだった。

        「つべこべ言っとらんで早く出せ!」

        「発汗は血液中の毒素を分解して排出するんですよ。 あなたの様な症状のかたには、とても効果的なんです」

        「たわ言はいいかげんにしろ。 早く出せと言ってるんだッ!」

          ボンドは箱の裏側にあるダイヤルを見た。 目盛りは200まであって、針は今120を指している。 さて、こいつをどうしてやろうか? 

          ボンドは作り声を止めた。 「もう少し熱くして30分も続けた方が、あんたには効くだろうぜ」  そう言うとダイヤルを180まで回した。

          汗だくになった顔が振り返ろうとしているが、振り返る事が出来ない。

        「千ポンドやる。 そして水に流そうじゃないか」 リッピ伯爵の声が変わった。

          ボンドはサウナ室のドアに向かった。

        「1万ポンドでどうだ?!」

          ドアがシューっと開いた。

        「おい、待て! 5万ポンド出すぞ!」

          ボンドは廊下に出ると、ドアをきっちりと閉めた。 足早にシャワー室に戻って服を着ると、廊下に出た。

          助けを叫ぶ声が廊下の奥の部屋から聞こえてきていた。

          1週間程入院するだろうが、その程度だろう、とボンドは聞き流した。

          それにしても、あの男はとてつもない大金持ちなのだろう。 5万ポンド出すから助けてくれ、とは。 しかし、ただ苦痛から逃れたいと云うだけでは、5万ポンドはあまりに常識外れだ。

          もしかしたら、あの男はとてつもなく重要な大仕事の予定でも抱えていたのかもしれない。

          ボンドの考えは当たっていた。

          サセックス州の自然療法所を舞台にした2人の無鉄砲な子供っぽい仕返しの結果は、西欧の各国政府を震撼させる、ある陰謀のスケジュールをひっくり返してしまったのだった。

         

        引き続き【ストーリー編 3/9】 へどうぞ。

         

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        007おしゃべり箱 Vol.54A-3 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(3)』

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          「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

           

          007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

           

          Vol.54A-3

           

          『原作紹介/サンダーボール作戦』

          Ian Fleming’s THUNDERBALL

           

          【ストーリー編 3/9

           

          by 紅 真吾

           

          【ストーリー編 2/9】 の続きです。

           

            パリのオスマン通りの136番地のBには、FIRCOと云う略称を掲げた、上品に輝く真鍮の表札が出ている。 表札の下には、「虐げられた者の抵抗のための国際友の会」とあった。

            しかし表の入り口はもちろん、裏口にも2人の門番が立っていて、セールスマンなどは体よく追い返される。

            ボンドがシュラブランズの治療を終えて、パトリシア・フィアリングと小さなクルマのシートを下ろした上で楽しいひと時を過ごし、ロンドンに戻った翌日の夕方の7時に、このFIRCOでは緊急理事会が招集されていた。

            全員男ばかりの理事達は、ヨーロッパのあちこちからやって来た。

            開会時刻前の2時間の間に、1人ずつ、あるいは2人1組で、表の玄関から、あるいは裏口から、建物に入っていく。

            建物の中は、監視テレビや警報装置などが目立たないが厳重に整っていた。

            必要とあらばわずか数秒で、理事会の議題は公明なものへとすり替えられる様になっている。 オスマン通りの他の建物で行われているどんな理事会にも引けを取らない、公明正大なものに変えられるのだった。

            7時になると、20人の理事達は3階の会議室に入っていった。

            誰も挨拶を交わさない。 挨拶など言葉の無駄だとされていた。 そもそもこの組織の性格からいって偽善的だ、と議長から禁止されているのだった。 タバコを吸う者も居なかった。 酒を飲む事はタブーであり、タバコを吸うとニラまれるのだ。

            一同は、それぞれ番号に応じてテーブルに着いた。 1号から21号までの番号が、彼らの唯一の名前であり、その番号は毎月1日に順ぐりに2番ずつ進む事になっていた。

            20人の男達は、テーブルの奥に静かに座っている議長を見つめた。

            議長の今月の番号は2号だった。

            議長としてテーブルに着いていた男は、ナポレオンやヒトラーの様なカリスマ性を十分に備えている男だった。

           

            この会合で議長を務める男は、ポーランドはグディニアの出身だった。 1908年の5月28日にポーランド人の父とギリシア人の母の間に生まれた。

            彼はワルシャワ大学を卒業するとワルシャワ工学院で工学と無線を学び、25歳で郵政省の中央郵便局に勤めた。 彼の様な学歴を持つ男にとっては奇妙な就職だが、彼には情報こそがこれからの核心になっていく、と云う確信があったからなのだった。

            先ず、あらゆる電報に仔細に目を光らせ、経済活動の流れを掴んで証券取引所で相場を張った。

            しかしその内に、大きな変化が現れてきた。 ポーランドが戦争に備えて動員を始めたので、軍需品の注文や外交電報が大量に流れる様になったのだ。

            そんな状況をつぶさに観察していた彼は、試しに架空の情報網を作ってみた。 情報源は暗号電報のやり取りが多い、各国の公館や兵器工場の実在の人物にした。

            彼はこの情報網を韃靼(ターター)と名付け、仕事の見本をいくつか持って、ドイツ大使館付き武官に近づいた。 たちまちの内にドイツ国防軍のAMT犬箸いΤ級まで貰い、重宝される様になった。

            そこから先は楽だった。 金がどんどん入って来る様になったのだ。

            彼はそのまま取引先を広げていった。 ソヴィエトを相手にする事も考えたがやめにして、アメリカとスウェーデンを相手にする事にした。

            金は溢れる程流れ込んで来る様になったが、彼は保身という事に関しては臆病な程敏感だった。

            戦争が迫ってきているのを感じ取ると、安全な場所に逃げ出す準備に移った。

            イギリスとフランスの警戒が厳しくなった、と言って少しずつ仕事を縮小していく。

            しかし、ポーランドの参謀本部が彼の足跡を辿り始めたのに気付くと、即座に全財産の20万ドルをチューリッヒの銀行に預けた。 そして、生まれ故郷のグディニアに行くと洗礼を受けた教会を訪ね、友人の戸籍を調べたい、と云う口実を付けて、上手く自分の戸籍のページを破り取ってしまった。

            次に、大きな港の裏町には必ずあるヤミの旅券屋を探し出すと、カナダ船員の旅券を手に入れた。 そうしてストックホルムを経由してトルコのアンカラに入ると、そこで腰を落ち着けて戦争の成り行きを窺った。

            アンカラ・ラジオが彼の玄人としての腕を買ってくれ、彼はラヒールと云う韃靼(ターター)と同じスタイルのスパイ網を作った。 ただ、今度はもっと慎重に進めた。 ロンメルが北アフリカから追い出され、戦争の行方がはっきりしてきてから、情報を連合国側に売り込んだのだ。

            戦争が終わると、彼は栄光に包まれ財産も増えていた。

            全てを整理して、スウェーデンの旅券とスイスの銀行に預けた50万ドルを持って、彼はこっそりと南米に渡った。

            ヨーロッパから離れた土地で旨い料理を楽しみながら、ゆっくりと骨休めをしつつ、次の新しい事業の考えを練る為だった。

            充分な時が経ち、もう元の名前に戻っても安全だと判断した彼は、ヨーロッパに戻ってパリに腰を据えた。 自分が練り上げた新しい組織を作り上げる為だった。

            その組織とは、かつての“韃靼(ターター)”や“ラヒール”を発展させた組織だ。

            単なるスパイ網では無く、得られた情報を基にして謀略活動を行なって大金を稼ぐ、という大掛かりな犯罪組織を作り上げた。

           

            今、彼はこのオスマン通りの部屋で、自分が作り上げた組織の20人の幹部の顔を見回した。

            2人を除く18人は鋭い目付きをしている。 2人は科学者なので、普段から世間離れした目付きなのだ。

            東ドイツの物理学者コッツェは、5年前に西ドイツに亡命して以来スイスに引っ込んでしまった男。 ポーランドの電子科学の専門家であるカジンスキは、フィリップス社のラジオ研究所長の過去を持つ。

            あとの18人は、共産党の3人組細胞制度を取り入れた6ヶ国の男達だった。

            3人のシチリア人はマフィアの幹部。 3人のフランス人は、コルシカでマフィアと肩を並べる犯罪組織ユニオンコルスの幹部。 ロシア人の3人は、元スメルシュのメンバーだ。

            他に、ゲシュタポの生き残りの3人のドイツ人。 ユーゴスラヴィアの秘密警察を辞めた3人。 それに彼がトルコで作ったラヒールの残党の3人だった。

            この18人はいずれも諜報活動や謀略活動には玄人であり、口が堅い。 しかし何より、全員が世間体の良いしっかりとした地位を持っていた。

            正規な旅券を持っていて、どこの国の警察はもちろんインターポールにも汚点が無い事、すなわち経歴に汚点が無い、と云う事が、彼が新たに作り上げた組織<スペクター>の幹部の資格だった。

            <スペクター>と云うのは、<対敵情報、テロ、復習、強要のための特別組織> (ザ・スペシャル・エキゼキューティブ・フォー・カウンタリンテリジェンス・テロリズム・リベンジ・アンド・イルストーション)の略称である。

            そして、この利益のみを追及する謀略機関の設立者にして統率者の男が、エルンスト・スタブロ・ブロフェルドだった。

           

          *****

           

            ブロフェルドは部下の観察を終えた。 案の定、1人だけ目をそらす奴が居る。

            ブロフェルドは自分の調査が正しい事は判っていたが、自らの目で見て確認したかったのだった。

          「オメガ計画の話しに入る前に、みんなに話す事がある」 ブロフェルドはおもむろに口を開いた。 「当初3年間の活動は成功であったと云う事については、同意を得られると思う」 ブロフェルドはそう言うと、とつとつと語り始めた。

          「ドイツ班によってモントゼーから奪取したヒムラーの宝石は、トルコ班によってレバノンのベイルートで換金されて750万ポンドになった。 東ベルリンのソ連内務省の金庫の中身を盗んだ件は、ロシア班が追及される事無く、アメリカのC・I・Aに売りつけて50万ドルの収入を得た。

            また、ビルゼンのチェコ国立科学工場から盗み出した細菌戦用のサンプルには、英国情報部が10万ポンドの値を付けた。 他に、フランスから共産圏に逃亡した重水研究の専門家の暗殺については、そいつが向こうでしゃべる前に片を付けたと云う事で、フランス参謀本部が1兆フラン払って寄こした。

            他にもいろいろあったが、おおまかな総計は105万ポンドだ。 取り決めの通り、10%は運営資金として残し、10%は私が取り、80%を各自4%ずつ手にした。 1人当たりの取り分は、概ね6万ポンドだ。

            しかし3年間で6万ポンドとは、経費を考えるとかつかつの額と言わざるを得ない。 当初の我々の目論見からは程遠い結果となってしまった」

            ここでブロフェルドは期待にそぐわない現況を伝えながらも、口元に僅かだがほころびを浮かべた。

          「しかし、今進めているオメガ計画が成功した暁には、我々は大きな財産を手にする事になる。 その気があれば、我々もこの組織を解散して、各自新しく他の事業を起こせる程の金額である事は、みなも解かっている事だと思う」

            ブロフェルドは一旦言葉を区切って、テーブルを見渡した。 テーブルに着いているメンバーが、従順な頷きを見せる。

          「その前に、1ヶ月前に片付けた最近の仕事についてだが」 ブロフェルドはそう言うと、右側に座っているメンバーを順繰りに見ていって、列の最後まで辿っていった。

          「7号、立て」

            ユニオンコルスのマリウス・ドミングは、目の動きのにぶいずんぐりした男だった。

            彼はゆっくりと立ち上がると、真っすぐにテーブルの向こうのブロフェルドを見つめた。

            大きなごつい手はゆったりとズボンの縫い目に下ろしている。

            ブロフェルドはその視線に応えている様だったが、実は隣りのコルシカ人の12号、ピエール・ボローの反応を見ていた。

            この会議の始めからブロフェルドの視線を避けていたのが、この男だった。

            今、その目はブロフェルドを避けていない。 ほっとした様に自信を持っている。

            ブロフェルドは改めて一同を見渡した。

          「この仕事はみなも知っている通り、マグナス・ブロンバーグの17歳の娘を誘拐する、と云う事だった。 万事順調に運び、我々は百万ドルの身代金を手にした。 そして約束通り、娘は無事に両親の元に返された。 ただ、マルセイユ発の寝台車に乗せる必要から髪を染めたが、何の危害も加えられていないはずだった」

          「ところが、ニースからの情報によると、その娘がコルシカで捕らえられている間に暴行を受けた、と云う事が判った」

            ブロフェルドはこの話しの内容が全員に染み渡る様に、一息ついた。

          「娘が暴行されたと主張するのは両親で、娘も合意の上での性交であったかもしれない。 また、娘の方から進んで行った行為かもしれない。 しかし、そんな事は問題では無い。 我々の組織は、娘は無事に返す、と約束したのだ。 この件については、既に両親との話し合いを済ませてある。 私は適当な詫び状と共に50万ドルを返した。 当然、この仕事による我々の分け前は減った事になる。 犯人の事を考えると、彼に罪がある事は明らかであり、私は相応の処分をする事にした」

            ブロフェルドはテーブルの向こうに目を向けた。

            7号のマリウス・ドミングは、じっとブロフェルドを見返していた。 彼は犯人が誰か知っていたし、ブロフェルドが考える事は常に正しい事も知っていた。 しかし、なぜ自分が立たされているのか、だけが解らなかった。

            ブロフェルドは隣りの12号を見た。 奴の額が汗で光っている。 うまいぞ! 汗をかけばそれだけ接触が良くなる。

            テーブルの下でブロフェルドの右手が動いた。 指先がスイッチのつまみに触れると、ブロフェルドはスイッチを入れた。

            12号の体は3千ボルトの電流に掴まれ、イスの中で弓なりになった。 電気を流す端子が隠してあった場所から、かすかな煙が立ち昇る。

            ブロフェルドはスイッチを切った。

            12号の体は気味悪く崩れ、頭がテーブルに当たって全てが終わった。

            7号はどっしりと立ったまま、びくとも動いていない。 いい度胸だ。

          「7号、座ってよろしい。 今の態度に私は満足だ」 満足だ、と云うのがブロフェルドの最高の賛辞だった。 「12号の注意を逸らしておく必要があったのだ」

            テーブルの何人かが、解かった、という様に頷いた。 いつもの通りブロフェルドの考えには筋が通っている。

           

          「コルシカ班は12号の替わりを推薦したまえ。 次にオメガ計画についてだが、いくつか話しておく事がある」

            ブロフェルドは語り始めた。

          「ドイツ班から回された手下のGがとんでもないヘマをやらかしたのだ。 Gにはイギリス南部にある療養所を本拠にして、例の爆撃機に立会人として搭乗するジュゼッペ・ペタッチと云うパイロットと連絡を取らせていた。 またGへは、例の手紙を決行日の翌日、つまり今日から3日後に投函せよ、と指令を与えていた。

            奴はマカオの赤雷党員だから、組織的な謀略活動については玄人のはずなのだが、実に間抜けな事に、療養所の他の患者に蒸し焼きにされてしまったのだ。

            こいつは今、ブライトン中央病院で第二度の火傷でうなっている。 少なくとも1週間は使い物にならん」

            ブロヘルドはここで、あきれて物も言えん、とばかりに静かに首を振った。 

          「しかし、既に新しい指令は出してある。 パイロットには1週間は病休になるだけのインフルエンザのウィルスを渡してある。 インフルエンザが治り次第、飛行計画の日取りを連絡して来る予定だ。 Gもその頃には退院しているだろうから、例の手紙は計画通りに投函するだろう。 Z地区の回収計画は、特別班が修正済みだ」

            ここでブロフェルドはゲシュタポ上がりの男達に視線を向けた。

          「このGは全く頼りにならん。 ドイツ班はGが手紙を投函したのを確認した後、24時間以内に始末せよ」

          「はっ」 3人のドイツ人はそろって返事をした。

          「間抜けなGのおかげで予定が少々繰り下がったが、Z地区の準備は1号によって順調に進んでいる。 一風変わった百万長者として既に世間の信用を得ているし、宝探しの噂がどんどん広がっているのだ。 適当な陸上の拠点も確保してある。 そこは変り者のイギリス人の別荘で、上手い具合に人里から離れている。

            諸君は宝探し事業の出資者として現地に乗り込んでもらう。 それぞれに役を振り分けてあるので、よく確認しておいてもらいたい」

            テーブルのまわりでは、幹部達が用心深く頷いた。

            ブロフェルドは続いて「アクアラングの訓練について、各班の報告が欲しい」 と言った。

          「順調にいってます」 各班の代表が答えた。

          「それでは、シチリア班による回収計画の準備状況を聞こう」

          「予定地として選ばれたエトナ山の溶岩地帯の山腹2キロ四方を、回収班がたいまつで標示します」 シチリア班の男が答えた。

            そして、投下された金塊の回収は抱き込んである地元のマフィアのボスに手配させてある、と報告した。 その他、細々な問題がある事を挙げるが、調整中である事を告げた。

            ブロフェルドは2分間ばかり黙り込んでいたが、ゆっくりと頷いた。 「よかろう。 遺漏無く続けたまえ」 そう言うとブロフェルドは改めてテーブルの周りに目を向けた。

          「次は金塊の処分だが、これは充分な経験がある201号に任せる事にする。 この男は信用出来る男だ」 ブロフェルドはそう言うと、シチリアでモーターボートに積み込んだ金塊をインドのゴアまで運ぶ方法、ブローカーとの換金方法、膨大な紙幣をスイスの22軒の銀行に運び入れる手順、を語った。

          「そのスイスの保管金庫の鍵は、この会議の最後にみんなに配るつもりだ」

            ブロフェルドの穏やかな目が、ゆっくりと一同を見回した。

          「この段取りに異議は?」 ほとんどの頭が頷くが、18号のポーランド人電子技師が口を開いた。 この連中には遠慮と云う単語は無いのだろう。

          「西欧各国にとっては、金塊がシチリアから運び出される事は解かっているのですから、どこかの海軍にモーターボートが捕まってしまう危険があるのでは?」

          「金が無事スイスの銀行に納まるまで核爆弾は我々の手にある、と云う事を忘れてやしないかね? 金を手にするまで、我々は何回でも要求出来るのだ」

            ドイツ班の1人が手を上げた。

          「1号がZ地区の指揮を執ると云う事は解りましたが、1号はあなたに代わって全権を持つ、と云う事でしょうか?」

            なんて杓子定規な言い草だろうか。 全くドイツ人らしい。 従うべきは誰なのかはっきりせねば行動出来ない、といったところなのだろう。

          「以前にもはっきりと言ってあるが、もう1度くり返す。 1号は私が死んだ際には私の後継者になると決めてある。 このオメガ計画に関する限り、現地では1号が我が組織の総司令官だ。 彼の命令は私の命令と同じだ。 この点は完全に納得しておいてもらいたい」

            ブロフェルドはそう言うと、鋭い視線でテーブルを囲む全員を見回した。

          一同が揃って頷いた。

          「では、これで会議を終わる。 12号の死体は私が処理班に指示しよう」

           

          *****

           

            スペクターが抱き込んだジュゼッペ・ペタッチは、第二次世界中からイタリア空軍に所属していたパイロットだった。

            戦争が後半になってイタリアの負けが見えてくると、ペタッチはイタリアに見切りを付けた。

            ある日、対潜哨戒の任務で新鋭機のフォッケウルフ200で出撃すると、同乗の操縦士と航空士を拳銃で始末して、イギリス軍が抑えている港に向かった。 そして窓から白いシャツをたなびかせると、港の外に着水したのだった。

            こうして、新鋭の飛行艇と新型のヘクソゲン機雷をイギリス軍に届けた事により、ペタッチは1万ポンドの賞金を貰った。 加えて、いかに単身でレジスタンス活動を続けてきたか、と連合国情報部に巧みに吹き込んだので、勲章も貰った。

            ペタッチは戦後に再編されたイタリア空軍に移ったが、NATOの覚えめでたく若くして大佐にまでなっていた。

            しかし、34歳になったペタッチは、飛ぶのに飽きてしまっていた。

            勇ましい事は若い者に任せてしまえばいいのだ。 東側に対峙するNATOの尖兵になるなど、真っ平だった。

            また、彼は根っから贅沢好きだった。 金のシガレット・ケースは2個も持っていたし、腕時計は金のローレックス・オイスターの自動巻きだった。 最新流行の服も次から次へと揃えていたし、クルマはランチア・グラン・ツーリスモを持っていた。

            今、特に欲しいのは、ミラノのモーター・ショーで見たG・Tマセラッティの3500だった。

            空軍パイロトなんかもう辞めてしまいたい。 全くの別人になって思いっ切り贅沢がしたい。 そうは思っても、その為には新しいパスポートと大金がなくてはならない。 何でもいい、力のある組織の手蔓が欲しかった。

            そんなペタッチの前に、突然、そんな彼の夢を叶える様な組織が現れた。

            ある晩、パリのナイト・クラブで1人の男が話しを持ち掛けてきたのだ。 NATOの立会人として搭乗する爆撃機を乗っ取り、指定の場所に届ける。 報酬は新しいパスポートと100万ドルだと言う。

            どんな事だってやってやる。 そして俺は、リオ・デ・ジャネイロへと次の新しい人生に旅立つのだ。

           

            6月2日の晩、ヴィンディケイター爆撃機は訓練飛行として、搭乗員5名とNATOの立会人1名を乗せてボスコンビ基地を飛び立った。

            爆撃機は予定通りアイルランド上空を通過して、順調に訓練コースを飛行していく。

            ジュゼッペ・ペタッチは操縦席のすぐ後ろの立会人用の座席に座って、5人のパイロットの仕事ぶりを眺めていた。

            爆撃機の飛行を自動操縦に切り替えて、彼らはリラックスしていた。

            いよいよだ。 ペタッチは腕時計を覗くと立ち上がった。

          「さて、そろそろ一眠りするかな」 そう言うと、日誌や海図が置いてある図面棚に寄りかかる。

            右手をポケットに入れてボンベのバルブを探って回まわした。 そしてボンベを図面の間に突っ込むと、素早く座席に戻って酸素マスクをしっかりとかぶった。

            3分とかからないと言われていたが、確かにその通りだった。

            先ず図面棚に一番近くに座っていた航空士が、急に喉をかきむしってつんのめった。 通信士がイヤホーンを放り出して立ち上がったが、2歩目で前のめりに倒れ込んだ。 副操縦士と機関士は、もつれあう様に座席から転げ落ちた。

            操縦士は頭上のマイクに手を伸ばしたが、ゆっくりと副操縦士の死体の上に倒れた。

            ペタッチは時計を見て、5分待った。 もう1分待ってやれ。

            その1分も過ぎると、ペタッチは酸素マスクを顔にピッタリと押し付けながら席を立って図面棚の所に行き、青酸ボンベのバルブを閉めた。

            自動操縦が働いているのを確認すると、青酸ガスが早く抜ける様に機内の気圧を調整する。

            15分で大丈夫だと言われていたが、ペタッチはもう10分待った。 そして酸素マスクを外すと、死体を機体の後ろに運んだ。

            操縦席が片付くと、ペタッチは席に着いて操縦桿を握った。 爆撃機の高度をゆっくりと3万2千に下げていく。 程なくして、床に散らばったイヤホーンが喧しく鳴り始めた。 航空管制所がこの爆撃機を呼び出しているのだ。

            勝手に鳴ってろ、ペタッチは思った。 もう30分もすれば、こっちは大西洋の遠くに出てっているのだ。

            ペタッチは立ち上がってレーダースクリーンを覗いてみた。 ときどき下の方に民間機の機影が映る。 奴らはこっちが頭上をすっ飛ばしているのに気付くだろうか?  いや、民間機のレーダーは前方に円錐形に広がっているだけだから、まず分からないだろう。

            アメリカの早期発見レーダー網には引っ掛かるかもしれないが、そのレーダー網だって、ちょっとコースをそれた民間機ぐらいにしか思わないに違いない。

           

            しばらくすると、レーダー・スクリーンにアメリカの海岸線が映った。 海図と照らし合わせてジャイロ・コンパスで現在位置を確認する。

            よし。 ペタッチは操縦桿をゆっくりと傾けて、機体を真南に向けた。

            あともうひと飛びだ。

            ペタッチは手帳を取り出した。 “グランド・バハマの灯りを頼りに、パーム・ビーチを右に見る様に” 次に現在位置とコースと高度を確認する。 残りの飛行時間はあと1時間くらいだ。 ペタッチは燃料計を調べて計算すると、予備タンクの開放弁を開いて余分な燃料を捨てた。

            リオに落ち着いたら、先ずクルマを買おう。 もちろんマセラッチィだ。 どんな女でもスポーツカーに乗せてひとっ走りすれば、太ももは緩んじまうもんさ。 ペタッチは頬をほころばせた。

            だんだんと目的海域に近づいてきた。

            ペタッチは1号のヨットからの誘導信号を聞き取ろうと、ラジオのダイヤルを67チャンネルに合わせた。

            すぐには聞こえて来なかったが、やがて微かだがはっきりと聞こえてきた。 −トントン・ツー、トントン・ツー。 いよいよ降りる時だ。

            ペタッチはエンジンの出力を絞った。 大きな機体が降下態勢に入る。 高度計がぐんぐんと下がっていく。

            機首の向こうにどっしりとした海面が見えてきた。 月明かりに照らされた海面は穏やかだ。

            1号からの信号が、大きくはっきりとしてきた。 すぐに合図の赤い光が見えてくるだろう。 ペタッチは機体の速度を落として、高度を下げていく。 落ち着け、いつもの着陸の様にすればいいんだ。

            ペタッチは操縦席の横の窓から海面を見ながら、機体の高度を100フィートに保った。

            遠くの方に、灯りを消した白いヨットが見えた。 その向こうの海面が、着水場所を示す赤い標識灯で照らされている。

            ペタッチはエンジンを止めて機首を下げた。

            目前に海面が迫ってくる。

            着水の直前に機首を引き上げて機体を水平にした。

            もの凄い衝撃を受けて、機体は海面をバウンドする。 何回目かに海面にぶつかった時、機体はゆっくりと海面の上に止まった。

            やったぞ! 完璧な不時着水だ! さあ褒美を貰う番だ!

            ペタッチは操縦席から立ち上がると、機体の後ろに向かった。

            左側にある非常出口のハンドルを回してドアを外側に外すと、翼の上を歩き出した。

           

            6人の男が乗った、大きなボートが近づいて来ていた。 ボートは翼の横にまで来ると、1人の男が翼の上に飛び移って来た。

            ペタッチは手を振って笑顔を浮かべた。 「こんばんは、毎度ありー。 飛行機を一丁無事にお届けしましたよ。 さあ、受け取りのここにサインして下さい」 そう言って手を差しのべる。

            男は無表情のままその手を固く握ると、強く引っ張った。

            ペタッチは急に引っ張られて、頭をのけぞらせた。

            男が突き出した短刀が、ペタッチの顎の下から口蓋を通って脳にまで突き刺さった。

            男はしばらく手の甲でペタッチの無精ひげに触れていたが、腰を落として短刀を引き抜く。 そして短刀を海水で丹念に洗うと、腰のケースにしまった。

            男はペタッチの死体を引きずって海の中に放り込むと、翼の上を歩いてボートに戻った。

            ボートでは4人の男達がアクアラングを付けていた。 各自がマウスピースを調整して次々と海に入っていく。

            ボートのエンジンに就いていた男が、大きな水中探照灯を舷側から降ろしていく。

            男は頃合いを見てスイッチを入れた。

            海の中にゆっくりと沈んでいく爆撃機の機体が、灯りを受けてキラキラと照らし出された。

           

          引き続き【ストーリー編 4/9】 へどうぞ。

           

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          007おしゃべり箱 Vol.54A-4 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(4)』

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            「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

             

            007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

             

            Vol.54A-4

             

            『原作紹介/サンダーボール作戦』

            Ian Fleming’s THUNDERBALL

             

            【ストーリー編 4/9

             

            by 紅 真吾

             

            【ストーリー編 3/9】 の続きです。

             

              スペクターの1号は、ヨットのブリッジでそんな一部始終を夜間双眼鏡で見ていた。 腕時計で時刻を確認する。 ちょうど10時15分だった。

              爆撃機の到着は30分ばかり遅れたが、着水は申し分無かった。 何とか云うイタリア人のパイロットも、ヴァルガスが手早く始末したので、遅れは15分に縮まった。 とにかく、夜が明けるまでにまだ8時間ある。

              ナッソーからは行方を誤魔化す為に南に向かって大回りしていたが、この調子ならば帰りも充分に大回りして南からナッソーに戻れるだろう。 1号は作戦が順調に進んでいる事に満足した。

              今頃ドミネッタは夕食のテーブルに向かっているだろう。 ナッソーではカクテルが10時前に終わる事は無い。 ベイ街のバーやクラブはこれからがかき入れ時だ。 カリプソのリズムが通りに溢れているに違いない。

              1号はブリッジを降りると、無線室に入った。 ナッソーの航空管制から何か言ってきていないか? よし、警戒を続けろ。 それから2号を呼んでくれ。

              通信士がダイヤルを調整して親指を上げた。 1号はイヤホーンを付けると、口元のマイクをつまんだ。

            「こちら1号」

            「こちら2号、どうぞ」 ブロフェルドの声だ。

            「着水成功、10時15分。 続行する。 以上」

            「ご苦労。 以上」 音は消えた。

              1号は無線室を出ると、船倉に降りて行った。 船底のハッチが開いていて、海底の砂地に反射した月光が船倉を明るくしていた。

              B班の4人がアクアラングを手元に置いて待機していた。 男達の傍には爆撃機に被せる迷彩ネットが積まれている。

            「万事上手くいっている」 1号は男達に声を掛けた。 「回収班が作業中だ。 そう長くはかかるまい。 水中車(シャリオット)とそりはどうした」

              男の1人が親指を下に向けた。 「もう下に降ろしてあります」

            「よし、楽にしていろ。 今夜はまだ仕事が続くからな」

              1号は船倉を出るとデッキに上がった。

              夜間双眼鏡は必要無かった。 右舷20ヤードの海面が、探照灯の灯りで明るくなっていた。 赤い標識灯は既にボートに回収された様だ。

              1号は満足気に頷くと、ブリッジに足を向けた。

             

              1号のエミリオ・ラルゴは、大柄で好男子の四十男だった。 イタリア人だが、古代ローマ人の様な風貌と体格をしている。

              20代の頃はイタリアのフェンシング選手としてオリンピックに出場もしたし、ここナッソーでは水上スキーの選手権も取っていた。

              ラルゴは冒険者であり、群れの指導者タイプの男だった。 2百年前に生まれていたら、彼は海賊になっていただろう。

              ナポリで生まれたラルゴは戦争中に闇市で頭角を現し、タンジールからの密輸でかなりの財を築いた。 スペクターに入ってからの5年間は、怪盗貴族を地でいく様な男だった。

              ローマ貴族の末裔として、巧みに社交界に出入りしていたのだった。

              船員の1人がドアを開けて入ってきた。 「合図がありました。 水中車(シャリオット)と水中そりが向かってます」

            「ご苦労」 ラルゴは顔も向けずに静かに応えた。

              ラルゴはどんなに仕事で興奮していても、冷静な態度を崩さなかった。 今の様にいい知らせを受けても冷静な態度を見せれば、部下は、やっぱり彼は全てお見通しなんだ、と思う。 こういった態度が部下には効果的である、とラルゴには解っていた。

              船員が出て行くと、ラルゴはブリッジから蒸し暑いデッキに出て行った。

              海中をチラチラする光がボートの方に向かっていた。 水中車(シャリオット)のヘッドライトだ。 水中車(シャリオット)に引っ張られている水中そりは、浮力を調整して重い荷物を運ぶ為に作らせた物だ。

              しばらく眺めていると、光がヨットの方に戻ってきた。

              並の男だったら、船倉に降りて2個の核爆弾の収容を見に行くだろう。 だが、ラルゴはそうはし無かった。

              やがてまた、小さなヘッドライトがボートに向かって行く。 今度のそりには偽装用のカモフラージュ・ネットが積まれている。

              このネットで海底の爆撃機を覆ってしまえば、まず見つけられる事は無い。

              ラルゴには、何度となく訓練を重ねた8人の男達が手順通りに動くさまが目に見える様だった。 

              やがてボートの周りに男達が次々と浮かんできた。

              機関員とドイツ人の殺し屋が男達の手を取ってボートに引っ張り上げていく。

              海中の探照灯も引き上げられた。

              全てを収容すると、ボートはヨットの元に戻ってきた。 ボートはヨットのデリックに繋がると、男達を乗せたまま、ヨットの甲板に載せられていく。

              デッキの上を物理学者のコッツェが歩いて来た。 まるで熱でもあるみたいに体を震わせている。 こういった学者先生はデリケートに扱わねば、とラルゴは思った。

            「やあ先生、どうだい? 今度のおもちゃは気に入って貰えたかな?」 ラルゴは彼を落ち着かせる様に、陽気に声をかけた。

            「素晴らしい! まるで夢の様だ!」 コッツェは唇をわななかせながらそう叫んだ。

            「下で仕事は出来そうかね?」

            「もちろんだよ!」 コッツェは興奮のあまり両腕を振り回した。 「ヒューズは簡単に外せるさ。 そうしたら時限信管を取り付けるなどワケは無いよ。 もうヌフロフが配線を変える作業を始めてる」 コッツェは目を輝かせた。

            「コッツェ教授、まったくあんたは大したもんだ」 ラルゴはコッツェの肩をたたくと、ブリッジに向かった。

              船長が舵輪の前でたたずんでいた。

            「よし、出発だ」 ラルゴが声をかけた。

              船長は頷くと、“両舷始動”のボタンを押す。 すぐに船体が低いうなりに包まれた。

              いくつものランプが点灯して、左右のエンジンがちゃんと動き始めた事を示す。

              ランプを確認した船長は、レバーを“緩前進”に入れた。 ヨットがゆっくりと動き始めた。

              船長はレバーを“全速前進”に切り替えた。 ヨットは船首を上にかしがせて海の上を走り始める。

              エンジンの回転計は5千に上がって、速度計は20ノットを指した。

              船長はもう1つのレバーを動かした。

              ヨットはますます船首を上げていく。 回転計は5千のままだが、速度計の針は大きく揺れて40ノットを指した。

              今、ヨットの船体は4本の鉄のそりで支えられながら船尾の数フィートと2つのスクリューだけを海中に残して、海面の上を飛んでいるのだった。

             

              このヨット、ディスコ・ヴォランテ号は水中翼船だった。

              スペクターの資金で、ラルゴがイタリアはメッシーナのレオポルド・ロドリゲス造船所に作らせたヨットだった。 また、ジュテル・ザクセンベルグ方式を実用船に取り入れていたのは、この造船所だけだった。

              アルミニュームとマグネシュームで造られた船体は、ブラウン・ボヴェリ式ターボで支圧されたダイムラー・ベンツの4節ディーゼルエンジンによって、海面上を50ノットで航行する事が可能だった。

              このヨットには20万ポンドがかかったが、必要な荷物や人員がゆったり積めて、バハマ海域の様な浅い海を4百マイルも航続出来る事は20万ポンド以上の価値があった。

              この半年前、エミリオ・ラルゴがこのディスコ・ヴォランテ号でナッソーに入って来て以来、彼の百万長者としての人気に拍車がかかった。

              ラルゴはクラブなどで少しずつ噂の種を蒔いていった。 「いやあ、ただの舟遊びですよ。 しかし、この海域は昔の沈没船が多くある様ですなあ」 カクテル・パーティーなどで、ついうっかり口を滑らした、を装っていく。

              乗組員たちには、ベイ街のバーなどでしゃべらせた。 「おい、もうすぐだぜ。 例のお宝が見つかれば、俺もお前もこんな船員稼業からはおさらばさ」

              誰もが、ラルゴは大掛かりな宝探しを始めた、と思い始めていた。

             

              1時間たらずで次の目的地に着いた。

              ドッグ島という小島は、テニスコート2面たらずだ。

              船倉では、アクアラングを着けたラルゴと4人の収納班が、水中ハッチが開くのを待っていた。

              ハッチが開くと、ラルゴは先頭になって海中を進んで行く。

              ドッグ島の下の方は波に侵食されていて、海の中から見ると巨大なキノコの様だった。

              サンゴの傘の下に大きな割れ目がある。

              ラルゴは部下に手を振ると、その裂け目に入って行く様に合図した。

              おそらく昔は、色々な財宝の隠し場所になっていたのだろう。 裂け目の奥は枝分かれして、小さな部屋になっていた。

              部下たちは壁に支柱を打ち込んで、2個の原爆を革紐でしっかりと固定していく。

              ラルゴは仕上げを丹念に確認していった。

              核爆弾をここに隠しておけば、ヨットをいくら調べられても清廉潔白だ。

              ラルゴと部下は静に海中を泳いでヨットに戻った。

              再びディスコ・ヴォランテ号の船首が上がり、文字通り海面を飛ぶように帰路についた。

              アクアラングを外したラルゴは無線室へと向かう。

              真夜中の連絡は取りそこなった。 ブロフェルドはあの部屋で、さぞ憔悴しているだろう。

            「こちら1号」

            「こちら2号。 どうぞ」

            「第3段階完了。 成功。 撤収する」

            「満足だ」

              ラルゴはイヤホーンを外した。 こっちも満足さ! ここまで来れば、もう我々を止められるのは悪魔しかいないさ。

             

            *****

             

              その朝ボンドは、純正ブルガリア方式で作られたとパッケージに明示されている、ヨーグルトの最後をすくい取った。

              全麦ロールパンはポロポロと崩れ易いので、用心しながらちぎっていく。

              パンに黒蜜を付けると、ひと口ひと口、意識してよく噛んで食べる。

              唾液にはデンプンを糖質に変える酵素が含まれているので、充分な咀嚼が重要なのだ。

              酵素は他にもたくさんあって、ペプシンは胃にあり、トリプシンとイレプシンは腸にある。 こういった酵素が口から摂り入れた食物を分解して、体に吸収される手伝いをしているのだ。

              今ではボンドは、こういった大切な事は充分に認識していた。

              10日前にシュラブランズから戻って以来、体の調子は抜群に良かった。 これまではやり切れないと思っていた書類仕事も、どんどん片付けていく。

              朝早くに元気に目を覚ますので、出勤するのも早くなり、つい遅くまで残る様になる。

              これがボンドの秘書のローリア・ポンソビーにとっては、いい迷惑だった。 彼女の個人的なスケジュールがメチャメチャになってしまったのだ。

              ついにたまりかねた彼女は、昼時の食堂で親友のマネペニーにぶちまけた。

            「大丈夫よ、リル」 マネペニーはフォークの手を休めて、そう言って慰めた。

            「うちの親父さんだって例の療養所から帰って来た時は、2週間ばかりそんな調子だったわ。 でもその内に面倒な事件が2つばかり重なって、ある晩ブレイズ・クラブへお出かけよ。 次の日からは、また元の様になったわ。 男にはそれが何よりなのよ。 男ってそういう種族なのよ。 もうしばらく、そうね半月ばかりの辛抱よ」

             

              朝食の後片付けのためにスコットランド人のメイが入って来た。

              ボンドはキングサイズでフィルター付きの“デューク・オブ・ダラム”に火を点けたところだった。 タバコを変えたのは、アメリカの権威ある消費者連盟が、このタバコはタールとニコチンの量が一番少ない、と発表していたからだった。

              メイは朝食の残骸をひねくり回している。 何か言いたい事がある時の癖だ。

            「どうしたんだい、メイ?」

              メイは意を決した様に手にしていたヨーグルトの紙パックをたくましい指でグシャリと握りつぶすと、盆の上に放り出した。

            「あたしが口出しする様な事じゃ無い事は分かっていますけどね」 メイはそう言うとボンドを睨み付けた。 「今日は言わせてもらいますよ。 あんたは自分に毒を盛っているのと同じです」

            「分っているよ、メイ」 ボンドは陽気に応えた。 「だから最近は1日10本に減らしてるよ」

            「タバコの事なんかじゃありませんよ。 あたしが言いたいのはこれですよ」

              メイは盆を指した。 「こんな病人の餌みたいな代物なんて」 メイはここ数日の鬱憤を吐き出す様に言うと、勢いづいてまくしたて始めた。

            「あんたが何を食べようと、あんたの勝手ですよ。 でもね、こう見えてもあたしはあんたが、ただの公務員じゃ無い事ぐらいは解ってるですからね。 自動車事故だとか言われて、あんたが病院からストレッチャーで帰ってきた事なんか、一度や二度じゃないじゃ無いですか。

              あたしだってね、あんたが思っている程老いぼれちゃいませんよ。 自動車事故で肩や脚に小さな穴なんてあくもんですか。 あれは弾の傷でしょうが。 あたしはちゃあんと知ってるんですからね」 メイは一気にまくしたてると、腰に手を当てた。

            「えーえ、いいですとも」 メイはボンドを睨み付けた。 「大きなお世話だ、さっさとオーチー谷へ帰れ、って言われても構いませんよ。

              ただ言っときますけどね、今度また闘う様な事があって、お腹の中にこんなつまらない物しか入っていなかったら、帰って来る時はきっと霊柩車ですよ。 絶対そうなっちまいますよ」

              以前のボンドだったら「やかましい」とか、怒鳴りつけただろう。 しかし今は果て知れぬ忍耐心で、食物に関する諸々を丁寧に説明していった。

            「それに以前は頭痛がひどくて、朝食にはアスピリンと生卵しか口に出来ない日が週に1回はあったよね。 その時は君だって文句を言いながら私を追いかけ回していたじゃないか。 今はそんな事は全く無いよ」 ボンドは優しく眉を上げてみせた。

              メイはふくれっ面のまま盆を取り上げると、肩を怒らせてドアに向かった。 が、そこで振り返った。

            「たぶんあんたの言う通りなんでしょうよ。 でも、あんたが別人みたいになっちまったのが、あたしには寿命が縮まるくらい心配なんですよ」

              メイはそう言い残すと、ドアを勢いよく閉めた。

            「やれやれ、更年期ってやつだな」 ボンドはため息をついて新聞を広げた。

              その時電話のベルが鳴った。 本部直通の赤い電話だ。 ボンドは新聞に目を向けたまま、受話器に手を伸ばした。

              冷戦が雪解けになって、以前とは時代が変わってきている。 どうせたいした事じゃ無いに決まっている。

            「はい、ボンドです」

            「直ぐに来てくれ」 幕僚主任の声だった。

            「私に何の用だい?」

            「君だけじゃ無いよ、全員に緊急招集さ。 ここ何週間かにデートの約束があったら、キャンセルしといた方がいいね」 

             

              呼び出しを受けてから10分も経たない内に、ボンドは本部のエレベーターに乗っていた。

              Мの部屋がある9階は、通信課も入っている。 廊下を歩いていると、閉め切ったドアの向こうから休みないベルの響きや、暗号機の機関銃の様な音が聞こえて来た。

              何か大事件が起こったに違いない。

              幕僚主任がミス・マネペニーのデスクの前で覆い被さる様に立っていた。 手にした大きな紙ばさみから、暗号電報を次々とマネペニーに渡している。

            「C・I・Aのダレスに親展だ。 フランス参謀本部のマチスにも同様だ。 各支局へは規定の連絡方法でいいよ」 幕僚主任は慌ただしくもテキパキと指示を出していく。 「いいね、出来る限り早いとこ片付けてくれよ。 まだまだ続くぞ。 今日はえらい1日になるぜ」

              ミス・マネペニーは笑顔を浮かべた。 彼女は、彼女がドンドンパチパチと称するこういった大騒ぎが大好きなのだった。 マネペニーはボンドに笑いかけると、インターホンのスイッチを入れた。 「007が参りました」

              幕僚主任が振り返ると笑顔を見せた。 「出発だぜ、ジェームス。 シートベルトをお締め下さい、ってところだな」

              Мの部屋のドアの上の赤ランプが点いた。 ボンドはドアを開けると中に入っていった。

             

              こっちは完全に平和なありさまだった。 Мはデスクの向こうで横向きに座って、大きな窓の外を眺めていた。

            「座れ007。 先ずはこれを見てくれ」 Мはデスクの上の複写写真を押して寄こした。

              封筒の表と裏を写したものと、手紙を写したものだった。 一面に指紋を採る為の粉を撒いた跡があった。

            「ゆっくり見ていいぞ」 Мが投げやりに言った。 「それから、タバコを吸ってもかまわん」

            「せっかくですがタバコは止めようとしているところなんです」

              Мは「ふん」と言うと、パイプを咥えてマッチを擦った。 そしてイスに座り直すと煙を吐き出しながら窓の外に視線を向けた。

              封筒は、ブライトンの消印が押された、火急・親展と記された首相宛てだった。

              きちんとしたタイプライターで書かれた様で、宛先の句読点も丁寧で間違い無く記されている。 昨日の午後に配達されたのだろう。 手紙の字句も正確な書き方だった。

             

            総理大臣殿

              すでにご承知の通り、昨6月2日午後10時より2個の核爆弾を積んで訓練飛行に飛び立った、英国空軍機の帰着が遅れている。

              この飛行機は第5試験飛行隊のビリヤーズ・ヴィンディケイターO−NBR爆撃機で、搭載している核爆弾の識別番号は、MOS−bd−654Mk5とMOS−bd−655Mk5である。

              現在、この爆撃機と2個の核爆弾は我が機関の手にある。

              残念ながら、イギリス空軍の搭乗員5名とNATO空軍の立会人1名は死亡した。 近親者には墜落事故によるものと連絡されたい。 この件に関しては貴殿も秘密を保持したいであろうし、当方も同様であるので協力する。

              爆撃機及び2個の核爆弾の所在は、1億ポンド相当の金塊と引き換えに連絡する。 金塊の引き渡し方法は、別紙に記してあるので参照せよ。

              また、貴下直筆の署名と、合衆国大統領の署名のある当機関ならびに機関員の完全な赦免状を要求する。

              以上の要求が今から7日後の1959年6月10日グリニッジ標準時の午後5時までに受け入れられなかった場合は、西欧側に属する財産で1億ポンド相当のものが破壊されるものと覚悟されたい。 また、その際は相当数の人命の損害も見込まれる事を考慮せよ。

              我が機関の要求に反し、その後48時間以内に要求が受け入れられなかった場合は、ある国の大都市が破壊される事になる。 またその際、当機関は事前にこの行動に移る旨を世界に通告する。 そうなればあらゆる都市に恐慌が走り、貴殿らの決断を早める一助になろうと考えるものである。

              この書状はただ1回の最後通牒である。 当方はグリニッジ標準時の各時刻毎に16メガサイクルで回答を待つ。

            スペクター

            < 対敵情報、テロ、復讐、強要の為の特別機関 >

             

              ボンドはもう一度手紙を読み返すと、デスクの上に丁寧に置いた。

              次に金塊の受け渡し方法を記した2枚目を手に取る。

            シチリアのエトナ山北西スロープ・・・グリニッジ標準時より1時間以内に・・・1/4トンずつに分け・・・1フィートの厚みのフォームラバーで包んで・・・

              両方の手紙の最後には、「アメリカ合衆国大統領にも同様の手紙が同時に航空便で発送してある」とあった。

              ボンドは2枚目の複写写真を前の物の上に置いた。 腰のポケットから砲金製のシガレットケースを出すと、1本抜いて火を点ける。

              Мはイスを回転させると、ボンドに向き直った。 「どうだ?」 そう言うとボンドを見つめた。 ほんの3週間前はあんなに活き活きとしていた眼が、今は血走って緊張している。

            「もしその爆撃機と核爆弾が本当になくなっているとしたら大ごとです。 こいつはイタズラなんかでは無いと思います」

            「国防閣僚会議でもそういう意見だったし、わしもそう思う。 しかも、この手紙に書かれている核爆弾の識別番号は2つ共合っとるんだ」

            「どういう事になるんです?」 ボンドは尋ねた。

            「八方塞がりだ。 第一、このスペクターなんて組織の事などまるで判っていない。 ただヨーロッパである種の謀略組織が活動しているらしい事は判っていた。

              我々もこの組織からいくつか買い物をした事があるし、アメリカも情報を買ったりしている。 フランスでもマチスが、去年逃亡した重水科学者を大金を払ってこの組織に消させたと認めている。 その時も寝耳に水で、向こうから売り込んで来たらしい」

              そんな組織の存在など、ボンドは初耳だった。 訝し気にМを見た。

            「金の受け渡しは実に玄人じみた手口でな、結局正体は掴めなかった。 こっちとしては本来の目的の方が大事だったから、あまり追及しなかったのだ。 とにかく、いずれの場合も大金を払っただけの事はあったのだ。

              もし今度の事件がその一味の仕業だとすると、これは容易ならん事態だ。 総理にもそう進言したよ」

              Мはそこまで言うと、手元のファイルのページをめくった。

            「とにかく、この爆撃機はアイルランドの西に出るまでは、いつもの様に高度4万フィートで飛行していた。 ところが突然高度を3万フィートに下げて、民間航空機の往来にまぎれ込んでしまったのだ。

              飛行司令部では他の航空機と衝突したのではないか、となって大騒ぎになったが、どこの航空会社に尋ねても事故は無い、と言うんだ。 それっきりだ。 それっきり爆撃機は姿を消してしまったのだ」

            「アメリカの早期警戒線と云うのには引っ掛からなかったんですか?」

            「民間の航空路線に紛れ込まれてしまっては、何がどれやら区別がつかん。 ただボストンの東5百マイルばかりの所で、アイドルワイルド空港へ向かう航路をかすめて南に向かった1機があった、といったレーダー係員の記録が出た。

              しかし、そのあたりも飛行機の往来が多いところでな、北はモントリオールから南はリオ・デ・ジャネイロまで、まるで空の幹線道路だ。 早期警戒線の監視員も、英国航空かトランス・カナダの旅客機だろうと気にも留めなかった様だな」

            「そういう混んでいる空路に紛れ込んでいったとすると、敵はかなり入念な計画を立てていた事になりますね。 その爆撃機は大西洋の真ん中で針路を北に取ってソ連に向かった、とは考えられませんか?」

            「十分に考えられる。 また逆に、南へ向かった可能性だってある。 とにかく大西洋の両岸から5百マイル離れれば、レーダーの届かない空白地域なのだ。 そのまま回れ右してヨーロッパに向かう空路に紛れ込んで帰って来てしまう事だってあり得る。 とにかく、どこへ行ったのか見当もつかんのだ」

            「しかしヴィンディケイターは4つのエンジンを備えた大型爆撃機ですよ、どこかの飛行場に降りていれば必ず解かるはずです」

            「まさにそうだ。 だから昨夜以来、ありとあらゆる飛行場をしらみつぶしに調べた。 しかし、どこにも降りた形跡が無いのだ。 そんなところから、大きな砂漠や浅い海に不時着したのかもしれん、と云う意見もある」

            「そんな不時着なんかして、爆弾は爆発しないんですか?」

            「その点は全く大丈夫だそうだ。 わしにはさっぱり解からんが、核爆弾も他の爆弾と上べは同じらしい。 弾頭に普通のTNT火薬が仕込んであって、後ろにプルトニウムがあるんだ。 間に一種の点火線みたいな代物があってな、爆弾が落ちてTNT火薬がその点火線を発火させて、そいつがプルトニウム破裂させる、といった仕組みの様だ。 その点火線は投下する直前セットされる。 だからセットされていない状態では、決して爆発などしないらしい」

            「ではその連中は核爆弾をセットした後で、空から投下しなきゃなりませんよね」

            「その必要は無い。 落下させなくてもTNTを発火させる様な時限装置を弾頭に取り付ければいいんだ。 物理学の知識のある者なら、たやすいそうだ」

              ボンドはタバコを取り出して火を点けた。 ゆっくりと煙を吸い込む。 まったくとんでもない事が起こったもんだ。

            「そういう事だ」 Мは続けた。 「何としてでもこの一味と爆撃機を見つけ出して、核爆弾を取り返さねばならん。 総理も大統領もこの点では完全に一致している。

              この件についての作戦はサンダーボール作戦と名付けられた。 西側の全ての情報機関が、このサンダーボール作戦につぎ込まれる。 必要とあらば、航空機も船舶も、潜水艦でも使ってよろしい。 我々はアメリカのC・I・Aと組んで全世界を捜索する。 アレン・ダレスも全員をつぎ込むと言っているし、わしもそのつもりだ。 そういう訳で、今朝全員に招集をかけたところだ」

            「それで、私はどこに行って何をすればいいのですか?」

            「実はわしにはある考えがあるのだよ」 ここでМはちょっと口ごもった。 「その考えを追ってもらうのは、信頼出来る人間にやらせたいのだ」 Мはボンドを見つめた。

              Мの考えとは、アメリカの早期警戒線に引っ掛かった1機の事だった。

            「わしはスペクターの首領の立場になって、西大西洋の地図や海図を丹念に調べてみた。 わしは爆撃機はバハマだと思う。 バハマ諸島の辺りは浅い海に囲まれているから、爆撃機を不時着させて核爆弾を回収するには好都合だ。 もう少し南の方、キューバやジャマイカでは、1億ポンドの値打ちのある目標など無い。 

              ところがバハマはアメリカから2百マイルしか離れとらん。 早い船なら7時間程の距離だ。 原爆の目標としては、アメリカはずっと多い」 Мはそう語った。

            「とにかく、敵が核爆弾を爆発させるまで、あと6日と10時間だ。 その間になんとか探し出さねばならん。 見込みは薄いが、わしは自分の勘と君に賭ける」 Мはきっぱりと言った。

            「007、以上だ。 直ぐに出掛けてくれ。 今夜までのニューヨーク行きの飛行機には、全便に君の席が取ってある。 君は土地を探しに来た金持ちの青年として行ってくれ。 そうすればあちこち見て回る口実になるだろう」

            「わかりました」 ボンドは腰を上げた。 「もう少し面白い所へ行きたかったのですがね。 鉄のカーテンをくぐって潜入するとか。 どうも今度の事件はそこいらの犯罪組織の仕業とは思えませんよ。 スペクターなんて大法螺で、後ろでソ連が糸を引いていると思いますね。 ところで、ナッソーでは誰が協力してくれるんですか?」

            「総督には既に連絡してある。 警察はもちろん、全ての行政機関が君に協力する。 それにC・I・Aも腕利きを派遣する、と言ってきた。 君はトリプルXをセットした暗号機を持って行きたまえ。 どんな細かい事でも、全て報告が欲しい。 いいな?」

            「はい」 ボンドはドアを開けた。

              これは秘密情報部始まって以来の大事件だ。 しかし、ボンドはМの考えには疑問を感じていたので、バハマに行くのは気が進まなかった。 何だかコーラスの列の後ろに追いやられた様な気分だった。

              それならそれもいいさ。 のんびり日光浴でもしてこよう。

             

              カメラケースの様な暗号機を肩に掛けてボンドが本部の建物から出た時、通りの向こうで薄茶のフォルクスワーゲンが動き出した。 運転しているのはリッピ伯爵だった。

              彼はシュラブランズの受付でボンドの自宅の住所を聞き出すと、ブライトンの病院を出てから直ぐにボンドを尾行していたのだった。 クルマは偽名で借りたレンタカーだった。

              ボンドがベントレーに乗り込んだ。 リッピ伯爵は左手でハンドルを操作しながら、右手を上着の下の45口径拳銃に伸ばした。

              フォルクスワーゲンが停まっていた場所から百ヤードほど後ろに、オートバイに跨ったスペクターの6号がいた。 彼はフォルクスワーゲンが走り出すのを見ると、ゴーグルを顔に当ててオートバイのギヤを入れた。

              6号は肩に掛けた雑嚢から、ズシリと重い手榴弾を取り出した。 前方のクルマの流れを見ながら、フォルクスワーゲンに近づいていく。

              リッピ伯爵もクルマの流れに注意しながら、フォルクスワーゲンを走らせていた。 すぐにベントレーの斜め後ろに近づいていく

              伯爵はアクセルを踏み込むと、拳銃を取り出した。

              ボンドはフォルクスワーゲンの空冷式エンジンが立てる小生意気な音を耳にして、ふと横を向いた。

              おかげで顎に弾を喰らわずに済んだ。

              反射的に、思いっきりブレーキを踏み込む。 頭をハンドルにぶつけながら顔を伏せた。

              2発目の弾丸がベントレーのフロントガラスを真っ白にした。

              ベントレーが停まった時、もの凄い爆発音がした。

              ボンドが顔を上げると、目の前にフォルクスワーゲンが横倒しになっていた。 クルマのルーフが殆ど吹き飛んでいる。

              人だかりがしてきた。 ボンドは我に返ると、急いでクルマから下りた。 「みんな下がれ。 ガソリンタンクが爆発するぞ」 ボンドがそう叫んだ時、再び大きな爆発音がして黒い煙が立ち昇った。 フォルクスワーゲンは真っ赤な炎に包まれていった。

              いったい誰が自分を狙ったのだろう? 何でクルマが吹っ飛んでいるんだ?

              とにかくボンドは暗号機を取り上げると、急いで本部に戻った。

             

              この出来事のおかげで、ボンドはニューヨーク行きを2便も見送ってしまった。

              オートバイの男を憶えている人は何人も居たが、誰もゴーグルをかけた中肉中背というだけしかなかった。

              ボンドにしても、フォルクスワーゲンの男など見ていなかった。 ただ男の拳銃が目に入っただけなのだ。

              Мは今一度ボンドに会ったが、この事件はボンドの責任みたいにプリプリしていた。 ボンドの過去の後腐れか何かだと言うのだ。

              二度目にボンドが本部を出た時には、雨が降り始めていた。

              裏手の自動車修理工場の修理工が、ベントレーのフロントガラスを片付けてくれていた。

              ボンドはベントレーを家の近所の修理工場に預け、保険会社に電話して家に戻った。

              風呂に入って濃紺のトロピカルウーステッドのスーツに着替える。

              念入りに荷造りしてから台所に出ていった。

              メイがまだ何か言いたそうな顔をしている。

            「何も言わなくていいよ、メイ。 君の言う通りだ。 ヨーグルトとニンジンジュースじゃ仕事は出来ないよ。 1時間以内に出掛けるから、いつもの食事を作ってくれないかな? お得意の炒り卵だよ。 卵4つでね。 それから、例のヒッコリー燻しのベーコンはまだあったかな? ある? じゃそいつもだ。 パンはバター・トーストを頼むよ。 全麦パンじゃ無いやつでね。 コーヒーは前の様に、大きなポットにうんと濃く淹れてくれ。」

              メイはびっくりしてボンドを見た。

            「一体全体どうしたんです? どういう風の吹き回しなんです?」

            「何でもないさ」 ボンドは面食らった表情を浮かべるメイに笑いかけた。

            「ふと人生ってのは短いもんだと悟ったのさ。 カロリーの事なんか天国に行ってからいくらでも考えられるからね」

             

            引き続き【ストーリー編 5/9】 へどうぞ。

             

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            007おしゃべり箱 Vol.54A-5 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(5)』

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              「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

               

              007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

               

              Vol.54A-5

               

              『原作紹介/サンダーボール作戦』

              Ian Fleming’s THUNDERBALL

               

              【ストーリー編 5/9

               

              by 紅 真吾

               

              【ストーリー編 4/9】 の続きです。

               

                バハマ諸島は米国のフロリダ半島と南のキューバの間の海域の東に広がっている千もの島々だ。

                ニューヨークで飛行機を乗り継いで、ボンドがこのバハマのナッソーに着いたのは、朝の7時だった。 空港に迎えに来ていたのは総督の副官で、直ぐにロイヤル・バーミアン・ホテルに案内される。

                ボンドは部屋のバルコニーで朝食を済ませると、9時に総督府に向かった。

                ボンドを出迎えたのは、警察署長と出入国管理局長、それに副総督だった。

                緊急かつ極秘、と云う連絡はかなり衝撃的であったらしく、3人はボンドの任務には全面的に協力する、と語った。

                しかし総督府では、今度の事件はバカげた空騒ぎだと考えている様だ。 植民地の平穏な日常に波風を立てたり、観光客を不安がらせる様な事は止めてくれ、と釘を刺される。

              「ねえ、ボンド中佐」 用心深くて穏健そうな副総督が慎重に口を開いた。 「我々はあらゆる可能性を検討したんです。 そこで導き出された結論は、そんな大型の爆撃機はこのナッソーには隠されていない、と云う事です。 海上に降りた可能性もある、との事でしたので、主だった島に派遣している行政官に問い合わせてみました。 しかし、回答は全て否定的でした。 気象観測所のレーダー係りも・・・」

                ボンドはここで口をはさんだ。 「ちょっと伺いますが、レーダースクリーンには24時間人が着いていたのでしょうか? 夜間などはあまり監視していないのではありませんか?」

              「ボンドさんが言われる事も一理ありますな」 40代の軍人的な警察長官が応えた。

                「空港の監督官も、特に予定が無い時などは従業員の態度もいくらか弛んでいる事を認めています。 それにレーダーといっても気象観測所のは、視界も低いし短いものなんです。 主として船舶用の物ですから」

              「なるほど、そうでしょうな」 副総督が素直に相づちをうった。 「確かにその点は問題がありそうですな。 きっとボンド中佐もその点は独自の調査をなさるでしょう」 彼はレーダーの性能や労働者の仕事ぶりについて、議論に引き込まれたくないのだろう。

                「ところで、大臣からの要請が出ています」 副総督は大臣を強調して言った。 「最近このナッソーに来た疑わしい人物の詳しい報告を求めてきています。 ピットマン君、どうでした?」

                税関を兼ねた出入国管理局の局長は、身だしなみの良い明るいナッソー人だった。

              「変わった事など何もありません。 いつもの通り観光客とビジネスマンばかりです。 ここ2週間の詳しい報告を、との事なので、入国の際の書類を全部持って来ています」 局長は膝の上のカバンに手をかけてそう言った。

              「私が探しているのは、グループになっている人間です」 ボンドは言った。 「おそらく10人以上でしょう。 このナッソーに入る口実は様々だと思います。 観光旅行の団体や宗教団体、企業の視察団体など、何に化けて来ているか判らないんです。 何かそんな動きはありませんか?」

              「どうだね、ピットマン君?」

              「そういう団体はしょっちゅうあります。 でも今のところは来てませんね。 それに、ここナッソーに来るグループは、いたって堅気の人達ばかりですよ」

              「そこなんですよ、ピットマンさん」 ボンドは身を乗り出して3人を見た。 「このハイジャック事件を企てた連中は、恐ろしく綿密な計画を立てています。 だから連中は完璧な善良な市民、といった仮面をかぶっているに違いありません。 あなたの言う堅気の、どこにでも居る様な普通の人達の中に紛れ込んでいるに違い無いんです。 船か飛行機を持ち込んだ、いわゆる善良な市民のグループはありませんか?」

              「そうですねえ、例年の通り宝探しの連中くらいですかねえ」

              「おいおい、ピットマン君」 副総督が、とんでもないという様に笑い声を上げた。 「金持ち連中の道楽なんかに、ボンド中佐の手間を煩わせる事は無いだろう」

                警察長官が片手を挙げた。

              「しかし彼らはヨットを持っています。 そう言えば小型飛行機も持っていますね。 それに最近になって、宝探しの出資者だと云う連中が大勢ヨーロッパからやって来ています。 こういった点はボンド中佐の狙いに合致してますな」 警察長官がそう語ると、3人は押し黙った。

                が、警察長官はボンドを見つめて続けた。 「しかしその線は的外れだと思いますよ。 ここバハマでは、海賊の宝探しは、言ってみれば観光資源なんです。 確かに彼らはボンド中佐が留意すべき点を備えていますが、そんな連中は観光シーズンが終わる今頃にはしょっちゅう来てます。 いつもの通りのいつもの連中なんです」

              「その、今来ている連中とはどんなグループなんですか?」 それでもボンドは尋ねた。

              「リーダーのエミリオ・ラルゴと云う男は堅気の人間の様です」 警察長官は淡々と答えた。 「ヨットの乗組員もいたって真面目です。 しかし半年近く経つのに、酔っぱらい騒ぎ1つ起こさないと云うのは、ちょっと妙だと言えなくもありませんな」

                ボンドはこのラルゴの一党に興味を感じて、彼らの資料を全て見せて貰った。 そして、何か噂話でも聞き込もうと、街へ出てみる事にした。

               

              *****

               

                サファイヤ・ブルーの2人乗りMGがベイ街の交差点を回って、シフト・ダウンの音を響かせながら、ダンヒル・パイプ屋の平和堂の前の路肩に停まった。

                運転していた女は日焼けした脚をドアの上に上げると、プリーツスカートの下から尻の上まで見えるくらいにもう一方の脚を上げて歩道に降り立った。 そして店のガラス扉を開けて、中に入って行った。

                ボンドはそんな様子を20ヤードほど離れた所から見ていた。

                足早に歩くと、ボンドもそのタバコ屋に入る。

                女はカウンターの前で店員の1人とケンカしていた。

              「あたしは不味くてタバコが嫌いになる様なタバコが欲しい、って言ってるの。 そこに並んでる中で禁煙させる様なのはタバコは無いの?」

                店員は我儘な旅行者を前にして、つまらなそうに棚を見回す。 ボンドは女の横に立った。

              「タバコの量を減らすには、2通りありますね」

                女は胡散臭げにボンドを見上げた。

              「そう言うあんたは誰?」

              「名前はボンド、ジェームス・ボンドです。 タバコをやめる事にかけては、私は世界的な権威なんです。 禁煙なんて、しょっちゅうやってますからね」

              「いいわ。 何なの?」 女はすました顔で、そう言った。

              「簡単です。 タバコには二度と手を出さない事ですね。 もう1つの方法は、うんと弱いタバコか強すぎるタバコにする事。 君の場合は弱すぎるやつの方がいいでしょうな」

                ボンドは店員に向き直った。 「デュークを1カートン。 キングサイズでフィルター付きのやつだよ」

                ボンドはそれを女に手渡した。 「さあ、これを喫ってみて下さい」

              「あら、でもそんな事は・・・」

                しかし、既にボンドは自分のチェスターフィールド1個と合わせて勘定を済ませてしまう。 そして釣銭を受け取ると、女を促して店を出た。

                外の暑さは凄かった。 思わず2人共、縞の日除けの下で立ちすくんでしまう。

              「ところで」 ボンドは女に話しかけた。 「タバコと酒はセットだと思うんですがね、君は両方とも止めるつもりかい?」

                女は訝し気にボンドを見上げた。 「ずいぶん短兵急なお話しだこと。 ボンドさんでしたっけ? いいわよ。 でも街の外に出ましょう。 いらっしゃいな、連れてってあげるわ」

                ボンドは彼女の後についてМGに乗り込んだ。

               

                女は巧みなハンドルさばきでМGを走らせていく。

                ボンドは少し横向きに座って、女を観察した。

                女が着ている短い袖の絹のブラウスは、薄い青と白の縦縞。 それにクリーム色のプリーツスカート。 指輪はしていないで、身に着けている貴金属は、文字盤の黒い角ばった金の腕時計だけだった。

                つばの広いゴンドラ船頭みたいな麦わら帽子を、ふてぶてしく鼻の頭にかかる様なかぶり方をしている。 帽子に付いている青いリボンには、“ディスコ・ヴォランテ”と打ってあった。

                ボンドは、午前中に出入国管理局で見た入国者カードを思い出していた。

                女の名前はドミネッタ・ヴィタリ。 イタリアはチロルのボルツァノの出身で、歳は29、職業は女優、となっていた。 半年前にディスコ・ヴォランテ号で入国している。

                彼女はヨットの持ち主であるエミリオ・ラルゴの情婦であるのは間違いないだろう。

                警察署長や出入国管理局の局長は、彼女の事を“イタリア人の淫売”と呼んだが、ボンドはその判断をひかえていた。

                今こうして実際に女を見て、ボンドは自分が正しかったと解かった。 この女は1人歩きの出来る女だ。 意地っ張りで個性のある女だ。 おそらく何人もの男と寝た事があるだろうが、男に弄ばれたのでは無く自主的に付き合ってきたのだろう。

                女はボンドに話しかけもせずに、運転に集中していた。 ギア・チェンジのタイミングや、アクセルとブレーキの使い方を楽しんでいるのだ。

               

                МGは風を切って海岸通りを走っていく。

                < 黒ひげ塔まで1マイル >の看板の次に、< シーフード・レストラン−硝煙波止場−は次の角を左へ >の看板が過ぎた。

                左側に砂地の小道が現れた。 女はそこにクルマを乗り入れると、壊れた石造り倉庫の様な建物の前に停めた。

                店の入り口には、頭蓋骨とぶっちがいにした骨を描いた火薬樽の看板がぶら下がっていた。

                女はボンドをうながすと、テーブルが並ぶ店内を抜けてテラスに出た。

                目の前に海が広がっていた。

              「ちょうど昼だな」 ボンドはイスに腰掛けながら女に言った。 「飲み物は何にする?」

              「ブラッディ・マリーをダブルでもらうわ。 ウスターソースをたっぷり入れてね」

              「私はビタースを一滴落としたウォッカ・トニックにしよう」

                黒人のウェイターが、へい旦那、と言って下がっていった。

                女はイスの1つを脚で引っ張って引き寄せると、両脚をその上に伸ばす。

              「あんたはいつここに来たの? 今みたいにシーズンも終わりになる頃には、たいていの顔は知ってるんだけど」

              「今朝着いたんだよ、ニューヨークからね。 不動産を買おうと思って来たんだ。 金持ちがいっぱい居るシーズン中を外せば、だいぶ値も下がっているだろうからね。 そう言う君はここには長いのかい?」

              「半年くらいかしら。 ディスコ・ヴォランテ号ってヨットで来たのよ。 空港に着陸する前に、ヨットの上を通ったかもしれないわね」

              「長くて背の低い流線形のヤツ? 素晴らしく綺麗な線をしてたなあ。 あの船は君のなのかい?」

              「違うわ。 あたしの親戚のよ」

              「でも君はあのヨットで暮らしているのかい?」

              「まさか。 浜に家があるの。 街から離れたライフォードって浜よ。 パルマイラ荘って云う名前よ。 金持ちのイギリス人の屋敷なんだけど、売りたがってるらしいわ」

              「そいつは私が探してるのにピッタリみたいだなあ」

              「とにかく、あたし達はあと1週間くらいで引き上げる予定よ」

              「へえ、そいつはチャンスだな。 でもせっかく君と知り合えたのに残念だな」 ボンドは女の目をのぞき込んだ。

              「あら、あんた口説いてるつもりなの? そんな見え透いた手はダメよ」 女はだし抜けに笑い出した。 「ヤダ、本気で言ったんじゃ無いのよ。 だって、あたしは老いぼれのヒヒ爺から、そういったセリフを半年も聞かされてきたんですもの。 ここでは若い女ってだけでジイさん達にモテるのよ」

                女はまた笑った。 だんだんに親しみを見せてくる。 

              「あんたなんか、ここの婆ちゃん達はぜったい放っておか無いわよ。 あんた、奥さんは居るの?」

              「いや」 ボンドは女の目を笑顔で見返した。 「君は結婚は?」

              「してないわ」

                飲み物が来た。 女はグラスに指を突っ込むと、ウスターソースの茶色い所をかき回してから口を付けた。

              「それにしても君は綺麗な英語を話すね。 ちょっとイタリアなまりがあるけど」

              「あたし、生まれはイタリアなのよ。 名前はドミネッタ・ヴィタリ。 学校はイギリスにやられたのよ。 卒業すると、王立演劇協会でお芝居をならったの。 でも両親が汽車の事故で死んでしまって、あたしはイタリアに帰って自活したわ。 英語も覚えてるけど・・・」 ここで彼女は苦笑いを浮かべた。 「他の事は忘れたわ。 本を頭の上に乗せて姿勢を崩さずに歩けても、イタリアの演劇界では役に立たないのよ」

              「だけど、ヨットの親戚は? その人は面倒を見てくれなかったのかい?」

              「ええ」 返事は短かった。 ボンドが黙っていると、女は先を続けた。 「はっきり言って親戚ってわけじゃ無いのよ。 親しい友達と言うか、後見人みたいなものね」

              「ああ、なるほどね」 ボンドがそう応えると、女はツンとした表情を見せながらも、目を伏せた。

              「一度ヨットに遊びに来て」 女は無邪気な笑顔を浮かべた。 「その人はエミリオ・ラルゴって云うのよ。 あんたも噂は聞いてるでしょ。 宝探しみたいな事をやってるのよ」

              「本当かい? そいつは面白そうだなあ。 もちろん、そのラルゴさんにはお目にかかりたいな。 でも本当に宝探しをしているのかい?」

              「知るもんですか。 とても秘密にしてるんですもの。 探検だか何だかに出掛ける時は、あたしはパルマイラ荘に残されちまうのよ。 この宝探しには大勢の人がお金をつぎ込んでいるみたいだわ。 要するに“出資者”って連中ね。 あと1週間かそこらで引き上げるって言うから、 もう本番の宝の引き上げが始まるのかもしれないわ。 今晩、ラルゴはその人達の為にカジノでパーティーを開くのよ」

              「その出資者って云うのはどんな人達なんだい?」

              「四角四面の実業家の一団って感じよ。 もっともあたしはあんまり会っていないけど」

              「ところで、君は昼間は何をしているんだい?」

              「あら、ブラブラしてるわ。 クルマでドライブしたり、海で泳いだり。 あたし、アクアラングを持ってるの」

              「ほう、私も潜りはちょっとやってるよ。 道具も持って来てるんだ。 その内に面白いダイビング・スポットを案内してくれないかい?」

              「ええ、いいわよ」 女はそう応えると、わざとらしく時計を見た。 「あら、もう帰る時間だわ」 女は席を立った。 「ごちそうさま。 帰りは送ってあげられないわ。 道が反対だから。 ここでタクシーを呼んでもらって」

                ボンドも立ち上がった。 店内を抜けて彼女をクルマまで送っていく。

                女がエンジンをかけた時、ボンドはもうひと押ししてみようと思った。

              「ドミネッタ、今夜カジノで会えるかもしれない」

              「たぶんね」 女の方も、またボンドに会いたいと思った様だ。 「でも後生だから、あたしをドミネッタなんて呼ばないで。 みんなあたしをドミノって呼ぶわ」

                女はチラッとボンドに笑顔を向けると、片手を上げた。

                後ろのタイヤが砂利をはね飛ばして、小さな青いクルマは通りに出ていく。 ボンドが視ていると、クルマはチョッと止まってから右に曲がってナッソーの方に走っていった。

                ボンドはニヤリとした。 「メス犬め」 そうつぶやくと、タクシーを呼んでもらいにレストランへ引き返した。

               

              *****

               

                ボンドはタクシーの運転手に、「空港へやってくれ」 と告げた。

                C・I・Aからラーキンと云う男が、1時15分のパン・アメリカン機で派遣されて来るのだ。

                ボンドはその男が上司の覚えを良くしようと、ボンドの上げ足取りを企んでいなければ良いが、と思った。

                とにかくボンドの望みは、その男がC・I・Aの最新式の無線機を持って来てくれる事だった。 それがあれば、いちいち電報局に行かなくてもロンドンやワシントンと直ぐに連絡が取れる。 それと水中でも使える小型のガイガーカウンターだ。

                C・I・Aの装備は様々な点で進んでいる、とボンドは認めていた。 だから、彼らからそういった装備を借りるのは恥ずかしい、などと云う狭い料簡は持っていなかった。

                空港に着くと、ボンドはタクシーを待たせて、空港ロビーへ入って行った。 ちょうどラーキンが乗った飛行機が到着した、とアナウンスが流れてた。

                どうせ税関や出入国管理事務所で手間取る事は分かっている。 ボンドは売店に寄ってニューヨークタイムズを買った。

                ヴィンディケイター機が行方不明になったニュースがトップに載っていた。 ボンドは記事を斜め読みしていく。

                突然、耳元で静かな声がした。 「007かね? 私は000だが」

                ボンドはびっくりして振り返った。

                そこに立っていたのはフィリックス・レイターだった。 満面に笑みを浮かべている。

              「そう驚きなさんな。 荷物はもう表に出したよ。 さあ、行こうぜ」

              「こいつめ、相手が私だと知ってたのかい?」

              「もちろんさ。 C・I・Aは全てお見通しだよ」

                レイターの荷物はかなりの大荷物だった。 ボンドはそれらを待たせておいたタクシーに積み込ませると、ロイヤル・バーミアン・ホテルへ届ける様に言いつける。

                黒い大型フォード・コンサルの傍に立っていた男が近づいて来た。 「ラーキンさんですね。 レンタカー会社の者です。 ご要望のクルマを届けに来ました。 いかがですか、このクルマは?」

              「動きさえすればどんなのでも構わんよ。 派手なヤツじゃ困るがね」

              「では、こちらにサインをお願いします」

                ボンドとレイターはクルマに乗り込んだ。 レイターが“ギッチョ運転”は稽古しなきゃ出来ない、と言うので、ボンドが運転する。

              「さあ、話してくれよ」 クルマが空港を出ると、ボンドは話しかけた。 「君はピンカートン探偵社じゃ無かったのかい?」

              「応召だよ。 一度C・I・Aに務めると、辞めても自動的に予備役に編入されちまうんだ。 いきなり昨日、何もかもうっちゃって24時間以内に出頭すべし、ときたんだ。 こりゃ戦争でも始まったのかと思ったぜ。 それがどうだ? 一刻も早く、海水着と砂遊びのシャベルを持ってナッソーへ行け、ときた。 で、俺は頭にきて、チャチャの講習でも受けてきましょうか? と言ってやったんだ」 レイターはニヤリと笑うと、右手の義手でボンドの肘をつついた。

              「そしたら、お前さんと組んでの仕事だと聞かされたのさ。 だからそっちから注文して来た道具を管理部から受け取って、かくは参上とあいなった訳だよ。 とにかく、お前さんと会えて嬉しいよ。 いったい何が始まったんだ? さあ、今度はそっちがしゃべる番だぜ」

                ボンドは前日の朝にМから呼び出されて以来の事を、手短に語った。

                レイターは、ボンドが本部の前で撃たれた事に興味を持った様だ。

              「妙な話しだなあ。 最近人妻に手を出したりしたのかい?」

              「冗談はよしてくれよ、とにかく全く見当が付かないんだ。 ただ・・・」 ボンドはそう言って、シュラブランズでのシナ党のメンバーとのいざこざを語った。

              「その自然療養所とやらはどこにあるんだい?」

              「ウォシントンってとこさ。 おたくのワシントンよりだいぶ小さいがね。 ブライトンってとこからそう遠くないよ」

              「ふうむ、妙だな。 例の手紙はブライトンで投函されてるんだ」

              「何が言いたいんだい?」

              「ちょっと別の見方をしてみよう」 レイターはドアに肘をかけると、ボンドを見つめた。

              「奴らの計画だったら、飛行機をハイジャックして何処かに降ろすのなら、満月の夜を選ぶだろ? ところが実際は満月から5日後だよ。 もし旦那が蒸し焼きにした野郎が、手紙を出す役目だったとしたらどうだ? そいつを雇っていたボスは、凄く怒るだろう?」

              「まあね」

              「で、ボスはその能無しを消しちまえ、と命令する。 命令を受けた殺し屋は、そいつが旦那に復讐しようとした所で始末した、と云うのはどうだい?」

                ボンドは笑った。 「話しとしては面白いが、そいつは飛躍し過ぎてやしないかい? だいぶ現実離れしてるよ」

              「原爆を積んだ爆撃機をハイジャックするなんて事も、だいぶ現実離れした仕業だぞ。 だが、奴らはそれをやってのけたんだ。 ジェームス、俺たちが係わった事件を思い出してみろよ。 現実にはあり得ない、なんて決して言えないだろう?」

              「なるほど、確かに君の言う事も一理あるな。 じゃ、今晩Мに連絡してみるよ。 しかし、そいつは靴だけ残して吹っ飛んじゃってるし、モーターバイクの男は全く手掛かりが無いんだ。 どうも私にはプロの仕事の様に思えるのだがねえ」

              「そりゃそうだろ」 レイターが叫ぶ様に言った。 「今度の事件はプロの仕業なんだ。 だから、万事辻褄が合うんじゃないか。 ぜひМに連絡しとくんだね。

                それから、この件はレイター様が指摘した事だと、恥ずかしがらずに伝えてくれよ。 こっちはC・I・Aを辞めてから、勲章に縁遠くなってるもんでね」

               

                ロイヤル・バーミアン・ホテルの部屋に入ったボンドとレイターは、ダブルのドライ・マティーニのオン・ザ・ロックを届けさせると、再会を祝って乾杯した。

              「ところでジェームス、お前さんは俺より一足早くナッソーに来たんだろ。 この午前中、浜辺で日光浴をしてたわけじゃあるまい?」

              「ああ、総督府へ行ったよ」

                ボンドはそう言うと、総督府での事やヴィタリと云う女の事を詳しく語った。

              「ふうむ、ではさし当っては、そのラルゴとか云う旦那かい?」

              「私はそう思ってる」

                なるほどね、とレイターは言うと、突然、腹は減っていないのか、と切り出した。 飛行機の乗り継ぎだったので昼食の機内サービスが無かったのだと言う。

                ボンドもそう言われて昼食を摂っていないのに気が付いた。 電話を取り上げてルームサービスを呼ぶ。

                勿体ぶった“特選お料理”と書かれたメニューの中からボンドが選んだのは、“極上名産魚介カクテル”と“自家製チキンに水芹のバター揚げ”。 レイターは“サワークリームに漬けたバルチック鰊”と“牛のチョップド・テンダーロイン、フレンチ・オニオンリング添え”を選んだ。

                が、やって来たのは、かなり出来損ないの料理だった。

                2人は何も言わずに食べ始めたが、とうとうレイターがナイフとフォークを放り出した。

              「そもそも観光客目当てのホテルで食事をするってのが間違いだったんだ」 レイターはコーヒー・カップに手を伸ばした。 「ところで名探偵さんよ、これからどうする?」

              「さし当っては、これからは何処で飯を食うか決めなきゃね。 それはともかく、先ずは例のディスコ・ヴォランテ号を見に行こうじゃないか。 連中が本当にボロ船の残骸を探しているのか、はたまた1億ポンドの金塊をせしめようとしているのか、を確かめなきゃならない」

                ボンドは部屋に積まれているレイターの荷物に目を向けた。

              「無線機は警察本部の最上階に運ばせよう。 警察長官に話しは通してあるんだ。 部屋を2つ空けてもらってあるよ。 ところで、ガイガーカウンターはどんなのを持って来てくれたんだい?」

                レイターはカバンの山から1つを取り出すと、蓋を開けてカメラと腕時計を取り出した。

              「これだよ。 手を貸してくれ」 レイターは腕時計を手首に付けると、カメラを肩に掛けた。

              「袖を通したコードをカメラにつなげてくれないか? ありがとう。 本体はどこから見てもカメラだろ? で、この腕時計の秒針がメーターになってるんだ。 原爆を隠してある場所に近づけば、この秒針が反応するって寸法さ」 レイターは自慢げに顔をほころばせた。

              「そいじゃ我々はホテルのオンボロ小舟でも雇って、その高級ヨットとやらを拝見に上がろうじゃないか」

               

              *****

               

                レイターが言ったオンボロ小舟とは、クライスラーのエンジンを付けた1時間20ドルの洒落たモーターボートの事だった。 

                港から西に出るとシルヴァー砂洲の沖を通ってデラポルテ岬を回る。 やがて手入れの行き届いた砂浜が広がった。 ボートの男によると、この浜は1フィート当たり400ポンドもする私有地なのだそうだ。

                オールド・フォート岬を回ると、磯から離れたところに白と濃紺のピカピカのヨットが見えた。 レイターが口笛を鳴らした。

              「あれはイタリアで造られた船だよ」 ボンドはレイターに言った。 「水中翼船で、警察長官によると、静かな海だと50ノットは出るそうだ。 ずい分と金が掛かっているだろうな」

                モーターボートを操縦している男が振り向いた

              「ベイ街あたりの噂では、ここ2〜3日の内に宝を引き上げに出掛ける様ですよ。 資金を出した連中ってのが2〜3日前にやって来てましてね。 つい先日も一晩かけて出かけてました。 あたしはエンジンの音が消えるまでこの耳で聞いていたんですがね、ありゃあ南の方でしたぜ」

              「それはいつの晩だったんだい?」 ボンドはなにげなさを装って尋ねた。

              「給油した次の晩でしたからね。 2日前の晩でさあ」

                ヴィンディケイター機が行方不明になった晩だ。 ボンドとレイターは顔を見合わせた。

                モーターボートがヨットに近づいていくと、デッキで真鍮磨きをしていた男が声をかけてきた。 「何の用です? 約束はありますか?」

              「ボンドという者です。 実はラルゴさんがお住まいのパルマイラ荘の事でお話しがしたくて来ました」

              「ちょっと待って下さい」 男が姿を消して、次にズック・ズボンと肌シャツを着た大柄な男がデッキに現れた。 総督府で見た写真から、ボンドはこの男がラルゴだと判った。

              「いいですよ。 どうぞ、お乗りなさい」

                ボンドとレイターはヨットのタラップを登った。

              「エミリオ・ラルゴです。 ボンドさんでしたな。 こちらは?」 ラルゴは手を差し出した。

              「ラーキンさんです。 ニューヨークから来た私の弁護士です」 ボンドはラルゴの手を力強く握り返した。 「ラルゴさん、突然おじゃまして申しわけありません。 実はパルマイラ荘はあなたがブライスさんから借りていらっしゃる、と聞きましてね」

              「ええ、そうですよ。 確かに私が借りています」 ラルゴは陽気に応じた。 「まあとにかく、キャビンへどうぞ。 こんななりで失礼しますよ。 皆さんたいてい船舶電話でそう言ってから来て下さるもんでね」 ラルゴはそう言うと、ハッチを開けてアルミの階段を示しながら、2人をキャビンに案内した。

               

                マホガニーの羽目板に濃いワイン・レッドのカーペット、座り心地の良さそうな濃紺の革張りの安楽イス、といった広いキャビンだった。

              「まあお掛け下さい」 ラルゴはそう言うと、テーブルの上の海図や書類を無造作に押しのけた。 「飲み物は何になさいますかな? 屋根の無いボートでいらしたから、さぞ暑かったでしょう。 ビールもいろいろと揃えてありますよ」

                ボンドとレイターはトニック・ウォーターを貰う事にした。

              「ラルゴさん、突然押しかけてしまってすいません。 実は今朝こっちに着いたばかりなんですよ。 家を1軒探しにきたんです」

              「パルマイラ荘の事を何か言ってましたが、何か私でお役に立つ事でも?」

              「ええ、街の噂によると、あなたは近く引き払われる様ですね。 どうやら私が探している様な屋敷らしいので、持ち主のブライスさんと交渉してみようと思ってるんです。 それで、お願いと云うのは・・・」 ボンドは言い訳けでもする様な顔をした。 「私達に屋敷を拝見させてもらえないか、と云う事です。 もちろん、あなたがお留守の時とか、ご都合のよろしい時でいいのですが」

              「それは構いませんよ」 ラルゴは笑顔で応えた。 「いつでもどうぞ。 屋敷には私の姪と少しの使用人が居るだけです。 姪もたいてい外出ばかりしてますからね。 私から電話を入れておきますから、いらっしゃる前に電話だけして下さい。 そうですね、確かに魅力ある屋敷ですよ。 もっとも、ああいった趣味が好みに合うかどうか、ですがね」

              「ラルゴさん、どうもご親切にありがとうございます。 たいへん助かります。 ではこれでおいとまします」 ボンドはそう言うと、腰を上げた。 レイターもそれに倣う。

              「いえいえ、お安い御用ですよ。 ボンドさんとラーキンさんでしたな。 その内に街でお会いする事があるでしょうな」

              「ありがとうございます。 しかしこんな立派なヨットで暮らしていたら、陸に上がる気はしないのではないですか? 大西洋のこっち側でこれだけの船は他には無いでしょう」

              「確かにこの船は良く出来ています。 海岸巡りには重宝してますよ。 水中翼を稼働させると、50ノットは軽く出ますからね」

              「しかし、収容能力に問題ありませんか?

              「いや、そんな事はありませんよ」 ラルゴは自慢のヨットについて、少しムキになって言った。 「そんな事は無い事は見れば解りますよ。 どうです? 5分ばかり暇を割けませんかな?」 ラルゴは奥のドアに手を振った。

              「ねえ、ボンドさん」 レイターが口をはさんだ。 「5時にハロルド・クリスティー氏と会うんでしょうが」

              「クリスティー氏はいい人だ。 ちょっとぐらい遅れても気にしないだろう ラルゴさん、もしお時間を割いて頂けるのなら、ぜひこの素晴らしいヨットの中を拝見させて下さい」

                ラルゴは愛想よく笑ってドアを開けた。 2人を促して先に立って歩いていく。

              「今関わっている事業がありましてね、仲間がみんなこのヨットに乗っています。 船員を含めて40人ですよ」

                いくら新式とは言っても、船の中はそう変わり無い。 ボンドは適当なお世辞を言いながら、ラルゴの後を付いて回った。

                ヨットの後ろの甲板には、小型の2人乗りの水上飛行機と大型のボートが頑張っていた。 そいつを吊り上げる電動デリックもあった。

                ボンドはヨットの大きさから排水量を見積もり、喫水線から舷側までの高さを見て、何げなく尋ねてみた。

              「これだけの船だと船倉も大きいのでしょうね。 まだ船室に使える余地があるんじゃないですか?」

              「船倉は小さいのがあるだけですよ。 あとは燃料タンクです。 この船はとても油を喰いましてね。 それにこういった船では、安定の為のバラストの問題が大事なんです。 船首を浮き上がらせる時は、燃料を後ろに移すんです。 そういった調整の為に、大きな側面タンクがいくつもあるんです」

                ラルゴは立て板に水といった馴れた口調で説明した。

                無線室の前を通りかかった。

              「ラルゴさん、ラジオはマルコニ長短波ですか? 私はラジオに目が無いもんで、ちょっと見せて頂けませんか?

              「出来ればそれは次の機会にして頂きたいですね。 通信士には気象通報を全てキャッチする様、命じてあるんです。 私達にとって、かなり重要な事なのでして」

              「もちろん、そうですな」

                一行はドーム状のブリッジに登っていった。

              「さーて、以上が我がディスコ・ヴォランテ号です。 水中翼を使って海の上を飛ぶところをお見せ出来ないのが残念です。 この数日、かなり忙しいんです。 ボンドさんもこのヨットの噂はお聞き及びでしょう?」

              「ええ、宝探しの様ですね。 見込みは有りそうですか?」

              「そう考えたいもんです。 詳しい話しをしてあげられればいいのですが」 ラルゴは申しわけない、という様に両手を広げた。 「生憎とご存知の様な事情でかん口令が敷かれているんです。 解かって頂けると思いますが」

              「そりゃ、もちろんですよ。 ただ私は、出来たら一口乗せて頂けないものかと」

              「残念ですね。 既に出資金の払い込みは満額になっているんです。 あなたが加わってくれれば、さぞ楽しいのでしょうが」

                ここでラルゴは手を差しのべた。

              「そうそう、今の短い船中見物の間もラーキンさんは時計ばかり気にしておいででしたね。 あまりクリスティー氏を待たせてはいかんでしょう。 ボンドさん、お会いできて楽しかったですよ。 ラーキンさんも。

                それから型通りの挨拶を交わして、ボンドとレイターはヨットを後にした。

               

              引き続き【ストーリー編 6/9】 へどうぞ。

               

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              007おしゃべり箱 Vol.54A-6 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(6)』

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                「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                 

                007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

                 

                Vol.54A-6

                 

                『原作紹介/サンダーボール作戦』

                Ian Fleming’s THUNDERBALL

                 

                【ストーリー編 6/9

                 

                by 紅 真吾

                 

                【ストーリー編 5/9】 の続きです。

                 

                  ボンドとレイターは、ボートの男から離れて船尾に腰を下した。

                「完全に白だな」 レイターが首を振った。 「機関室や無線室のあたりでは多少の反応があったが、それは当たり前だよ。 そっちはどう思った?」

                「こっちもご同様さ。 何も怪しいふしは無いな。 ただ細かい事だけど2つばかり引っ掛かった事があるんだ。 船倉に降りる口が何処にも見当たらなかった事だよ。 もしかしたら、通路のカーペットの下にマンホールみたいなハッチがあるのかもしれないが、そうすると荷物の出し入れには不便だよ。 それにしても船倉がやけに広い様な気がするな。 燃料タンクもそうだよ。 戻ったら港湾管理局でどれくらい燃料を積んでいるのか調べてみようと思ってるんだ。

                  それから、例の出資者達が1人も姿を見せなかったのも変だよ。 全員が全員共昼寝中って事はあるまい。 連中は部屋で何をしてたんだろう? それから1つ細かい事だけど、船の中どこでもタバコの匂いがしなかっただろ? こいつは変だよ。  40人もの男が居て、タバコを吸う奴が1人も居ない、なんてね。 これは偶然なんかじゃ無くて、規律なのじゃないかな? 犯罪組織としてのね」

                「だいぶ、うがった見解だねえ」 レイターは顎を撫でた。

                「確かに、すごく的外れかもしれない、とは認めるよ。 ただ、燃料タンクのバラストって話しが、どうも調子が良過ぎる気がするんだ」

                「そうだね。 少なくともヨットの半分しか見てないわけだからね。 しかし奴にも訳があったのかもしれんぜ。 船倉には宝探しの新兵器なんてのがあって、我々には見せたくなかったのかもしれないよ」

                「それは大いに有り得るな」

                「それはそうとジェームス、戦争中にジブラルタル沖で捕まえた商船を覚えてないかい? イタリアの潜水チームが基地に使っていた船だよ。 喫水線の下の船倉に大きなハッチが付いていたんだ。 あのヨットにもそんなのが付いてやしないかな?」

                  ボンドはレイターを鋭く見た。

                「オルテラ号の事だろ」 ボンドはしばらく考え込んだ。

                「なあフィリックス、あのヨットは水深40フィートばかりのところに錨を降ろしているよな。 核爆弾をその下の砂地に埋めたとしたら、ガイガーカウンターで反応が出るかい?」

                「そいつはどうだかなあ。 まあ水中用のも持って来てるから、探ってみる事は出来るだろうが」  レイターはここで言葉を切った。

                「しかしなジェームス、こいつはとんだお門違いじゃないのかな。 確かにラルゴって男は海賊みたいな粗野なところはあるよ。 それに女にかけてはちょっとした悪党なのかもしれん。 しかし、どうも今回の事件には関係がありそうな気がしないんだ。 ラルゴや出資者の経歴調査は依頼してあるのかい?」

                「ああ、総督府から緊急扱いで出しといた。 今夜にも返事が届くだろうさ」 ボンドは改めてレイターを見た。

                「だがねえフィリックス、身元のはっきりしない40人の男が乗った、ばかに船足の早いヨットなんだよ。 この界隈では他に妙なグループは勿論、個人すらもいないんだ。 まあいいよ、ヨットも白、奴の話しもまともだとしよう。 でもそれが全て偽装だとしたらどうだい? いかい、俺たちが相手にしているのは、周到な計画を立てた連中なんだぜ。

                  別の見方をしてみよう。 出資者っていう連中は、みんな6月3日ギリギリに来てるんだぜ。 その晩ディスコ号が海に出て朝まで帰ってこなかった日だよ。 どこか浅い海で爆撃機と落ち合ったのじゃないかな? そんなにお門違いとは思えないんだはがあ」

                「ジェームス、俺の印象じゃ2流映画ってとこだな」 レイターは肩をすくめた。 「そんな事を報告するくらいなら自分で脳天をぶち抜くよ。 ま、当たり障りの無い事を連絡しとくさ。 それで、次はどうするんだ?」

                「そっちが報告を打っている間に、給油波止場で燃料の件を調べてみるよ。 その次はラルゴの陸上拠点のパルマイラ荘を見てみるんだ。 夜になったらカジノへ出かけて、ラルゴ一味がどんな連中か拝見しようじゃないか」 ボンドはしたり顔で続ける。 「それが済んだら、アクアラングを付けてディスコ号の船腹を探ってみなきゃな」

                「騎士再び出で立つ!」 レイターが両手を広げた。 「ジェームス、カジノには俺も付き合うぜ」

                 

                  ホテルに戻ると、総督府の使いがボンドを待っていた。 スマートな敬礼をしてボンドに封筒を手渡す。 ロンドンの植民省からの電報だった。

                −貴1107信、当資料ニ該当者無シ。 各支局調査ニヨルモ“サンダーボール作戦”トノ関連無シ。 質問ノ意ヲ疑ウ−

                  ボンドは電報をレイターに見せた。

                「な、俺の言う通りだろ? 見当外れなんだよ。 あいつはただの山師なのさ。 ま、お前さんは気の済むまで奴を洗えばいいさ。 俺はワシントンに絵葉書でも送って、婦人要員を2人ばかり寄こしてもらう様に頼んでみるよ。 せっかくのバハマだ、南国の余暇を満喫しようじゃないか。 じゃ、あとでパイナップル酒場で会おうぜ」

                 

                *****

                 

                  結局、パルマイラ荘の偵察は、ドミノに断られてしまった。

                  後見人のラルゴをはじめ、大勢が上陸してくるのだと言う。 また、その晩は、船でカジノ沖まで移動する、と言った。 「今晩カジノでお目にかかれるかもしれませんわね」

                  ディスコ号が港に入るとは好都合だ。 水上警察の波止場から、こっそり潜って行かれる。

                  しかしディスコ号がそう無造作に移動するとは、下の海底に核爆弾が隠されている可能性は低いのではないか?

                  ひとまずこの件は棚上げにして、ボンドはМ宛ての報告書を作った。

                  こんな電報を読んだら、Мはがっかりするだろう。 今追っている手掛かりを報告すべきだろうか? いや、何かはっきりした事を掴むまではダメだ。

                  暗号に組み替えた電報を持って、ボンドは警察署に行った。 部屋ではレイターが無線機と格闘していた。

                「何やら知らんが、グダグダと言って来たぞ。 見ろよ!」 レイターはそう言うと、何ページもの暗号文を振り回した。 「たぶん俺が陽光溢れるバハマで、仕事と称してのんびりしてるのをやっかんだ連中の嫌がらせだろうな」

                  レイターはそうボヤきながら、暗号機をカタカタやり始めた。

                  ボンドは短い電報を送ると、長官室に向かった。

                 

                  ボンドは警察長官に、ディスコ号へ行った事を報告した。 ガイガーカウンターは反応しなかったが、ボンドは納得出来ない事を伝える。 そして、ディスコ号の燃料積載量と、燃料タンクの位置が知りたい、と言った。

                  長官は受話器を取ると、モロニー巡査部長を呼び出してくれた。

                「ボンドさん、船が燃料を積んだ時は全て記録してあるんです。 港が狭いですから、事故が起きた時の火事が心配ですからね。 どの船がどれだけの燃料をどこに積んでいるか、は把握しておく必要があるんです」

                  電話が鳴った。 「モロニー巡査部長か?」 長官はそう言うと、ボンドの質問を伝える。 返事を聞くと、ご苦労、と言って電話を切った。

                「6月2日の午後に、ディーゼルオイルを500ガロン積んでますね。 機関室のすぐ前の船倉に入れてます」

                  これでラルゴが言っていた、安定の為のバラスト云々は誤魔化しだったのが解かった。

                  もちろん、客には見せたくない秘密の道具を隠しておきたかっただけかもしれないが、あれだけ開けっぴろげな芝居をやって見せた事を考えると、一筋縄ではいかない人物である事に間違い無さそうだ。

                  こうなるとレイターが言っていたオルテラ号の様なハッチの件も、あながち見当違いとは言い切れない。

                  ボンドは長官に向き直った。 そして、今晩港に入るディスコ号の船腹を調べる為に、潜水用具一式を依頼する。

                  長官は顔をしかめた。 あまり波風を立てて欲しく無い、といった様子だ。

                  が、ボンドは根気よく説明していく。 とうとう長官は根負けした様だ。

                「ではボンドさん、サントス巡査を出しましょう。 必要な道具を揃える様に指示しておきます」

                 

                  ボンドはホテルに返ると、シャワーを浴びてバーボンを飲んだ。 ベッドに転がってひと眠りする。

                  電話のベルで目を覚ました。 レイターからだった。

                「もう9時だぜ。 マティーニを飲みに行こうぜ」

                  ボンドは白のディナージャケットに着替えた。 金持ちの別荘探しの人間らしく、ワイン・レッドのカマーバンドを着ける。

                  パイナップル・ルームでは、レイターが隅のテーブルに座っていた。 彼も白いディナージャケットだ。

                  レイターは、ここだよ、という様に片手を上げた。 何やら苦虫を嚙み潰した様な顔をしている。 

                  ドライ・マティーニのグラスに口をつけながら、レイターは苦笑いを浮かべた。

                「まったく、他の連中が第一線に出てるってのに、こっちはこんな砂浜に放ったらかしだぜ。  今日の午後なんか、あの小さなガイガーカウンターを持ってヨットの中をうろつき回っただけだよ。 まるでアホみたいだ」

                「それが、必ずしもそうとは言えないよ」 ボンドはそう言うと警察本部で仕入れた内容を話した。

                「フィリックス、確かにラルゴは嘘をついていたんだよ。 やはり何かが隠されている様な気がするな。 今晩、ディスコ号の船腹を確かめてみるつもりだ。 何か見つかったら、明日は小型機を借りて海を捜索しよう。 例の爆撃機はかなり大型だから、空から探せばきっと見つかると思うんだ。 パイロットのライセンスは持ってただろ?」

                「もちろん持ってるよ」 レイターは肩をすくめて言った。 「もし何か見つかったら、さっき受け取った電報もバカげたものじゃなくなるな」

                  どうやらレイターの機嫌が悪かったのは、その暗号電報のせいの様だ。

                「その電報というのは?」

                  レイターは苦々し気にグラスに口を付けると、声を落とした。

                「ペンタゴンからの連絡だよ。 今度の事件で、陸海空それに海兵隊の全ての軍隊がC・I・Aに全面協力するって事になったと言うんだ。 全軍が即応体制で待機してるんだと。 考えてみろよ。  各部隊をそんな待機状態にしておくなんて、どれだけの金がかかるんだ?」 レイターは怒った様にボンドを見た。

                「で、俺に割り当てられた軍隊が、どれくらいだと思う? ペンサコラ基地のスーパーセイバー戦闘爆撃機が6機とメンタ号だぞ!」

                  レイターはボンドの肘を突いて続けた。 「ほら、例のメンタ号だよ。 最新式の原子力潜水艦だぜ! どうやら訓練航海か何かで、こっちに来合わせたらしいんだね。 とにかく、スーパーセイバーにしてもメンタ号にしても、一瞬で何万ドルもの経費がふっ飛ぶ代物が、ここロイヤル・バーミアン・ホテルの201号室に頑張ってるレイター様の命令を待ってるって寸法だよ。 結構なこったぜ!」

                  ボンドは肩をすくめた。

                「ずい分と心強い話しじゃないか。 それはそうと、そっちではスペクターはどこを標的にしてる、と思うんだい? イギリスのものとしてはグランド・バハマ島の東に、ミサイル基地があるだけなんだがね」

                「俺に考えられるのはケープ・カナヴェラルだよ。 海軍基地だよ。 第二の標的はマイアミだな。 ただ、奴らはどうやって運んでどうやって爆発させるのかな?」

                  ボンドはМから聞いた時限装置の事を説明した。

                「それに、運ぶのだって簡単だよ。 あのディスコ号なら夜中にグランド・バハマの沖に放り出して、パルマイラ荘に戻ってくるなど朝飯前さ」 ボンドは笑って応えた。 「ほら、ちゃんと辻褄は合うんだ」

                 

                *****

                 

                  ナッソーのカジノは、世界中の英国領の中で、ただ1つの合法的なカジノだった。

                  総督の副官が、ボンドとレイターに会員カードを取ってくれていた。

                  2人は中のバーでコーヒーとスティンガーを飲むと、別々に賭博のテーブルに向かった。

                  ラルゴは鉄道< シュマン・ド・シェル >のテーブルに居た。 彼の前には、何種類ものチップが山と積まれている。

                  ドミノ・ヴィタリはラルゴの後ろに座って、つまらなさそうにタバコをふかしていた。

                  ラルゴは大胆なゲーム運びをしていた。 親の彼が勝つ度に、回りから喝采が起こるところを見ると、彼はカジノでは人気がある様だ。

                  ラルゴの右隣りの女が席を立ったので、ボンドは空いたそのイスに座った。

                  女は続けて3回負けていたので、場は8百ドルになっていた。

                  場の流れはラルゴに向いていたが、ボンドは「勝負」と声を出した。

                「いやあ、これはボンドさんじゃありませんか」 ラルゴは手を差し出した。 「イギリスの方はシュマン・ド・シェルは本当に心得てますからな。 私は親を降りた方がいいのかもしれません。 が、勝負を受けましょう」

                  ラルゴはそう言うと、カードケースからカードを1枚取ってボンドの方に滑らせた。 自分の分も1枚取ると、もう1枚ずつ配る。

                  ボンドは最初の1枚を手に取ると、テーブルの真ん中に表に返した。 ダイヤの9だった。

                「こいつは幸先がいいな。 もう1枚も開いてしまおう」 ボンドは2枚目を9のカードの上に投げた。 スペードの10だった。 ラルゴの2枚が9か19にならなければ、ボンドの勝ちだ。

                「こいつは難題だな」 ラルゴは陽気に言って自分の2枚をテーブルの真ん中に投げた。 ハートの8とクラブのキングだった。 ラルゴの1点差負けだ。 ラルゴの手も良かったのだが、ボンドの方がわずかに強かった。

                  ラルゴは大げさな笑い声を上げた。

                「私が言った通りでしょう、みなさん。 イギリス人ってのは好きなカードを引き出す事が出来るらしい」

                「しかし、イタリア人もそれが出来るのではありませんか? ですから今日、1口加わらせて下さい、と申し上げたんですよ」  ボンドはラルゴの前のチップに手を振って応えた。

                  ラルゴは面白そうに笑った。 「では、もう1度だけやってみましょうか。 あなたは今勝った分を賭けなさい。 私はあなたの右隣りのスノーさんと組んで賭けますから。 スノーさん、いいですね?」

                  スノー氏は一癖ありそうな顔をしたヨーロッパ人で、例の出資者の1人だ。 ボンドは総督府で見たリストを思い出す。

                  今度はボンドが6で、ラルゴ・スノー組は5だった。 またしても1点差だ。 ラルゴは悲し気に首を振った。

                「やれやれ、どうもツキに見放された様だ。 降参だ。 スノーさん、後は頼みますよ」

                  スノー氏が後を受けて、ボンドの前にあるチップと同額の千6百ドルのチップを前に出した。

                  ボンドの頭の中で、賭博師の勘がひらめいた。 2回続けての勝負で千6百ドルの勝ちだ。 今度は親になる番だが、一度降りて次の手を待ったら面白いかもしれない。

                  ボンドはチップを引込めて「パス」と、言った。

                  テーブル全体がざわついた。

                「それは酷いですな、ボンドさん」 ラルゴが芝居がかった声を上げた。 「まさか、次の親のカードが負ける事になっている、と言うんですかな? 面白い。 ボンドさんの親を私が代わりましょう。 さて、結果はどう出るか?」

                  ラルゴは何枚かのチップを前に出した。 千6百ドルだ。

                  ボンドは思わず、「勝負」と、言ってしまった。 「いやあ、ラルゴさんとゲームを続けたくて」

                  ラルゴは振り返って、ボンドの顔をしげしげと見た。

                「まるで私を追い詰めようとしているみたいですな。 どういう事です? 何かの復讐ですかな?」

                  ボンドは考えた。 ここは相手を挑発する様な言葉を返してやろう。

                「いえいえ、このテーブルに着いた時、あなたには亡霊(スペクター)が憑りついている様に見えたんですよ」

                  ラルゴの顔から表情が消えた。 が、すぐに作り笑いを浮かべたが、緊張にこわばっていた。

                「それはまた、どういう意味ですかな?」

                「負け運の亡霊(スペクター)ですよ」 ボンドは軽く応じた。 「あなたのツキもそろそろだな、と思ったんです。 もっとも、私の勘違いかもしれませんがね」

                  テーブル全体が静寂に包まれた。

                  誰もが和やかにゲームに興じていた2人の間に、手袋が投げ捨てられたのが解ったのだ。

                  ラルゴが豪快な笑い声を上げた。

                「ははあ、あなたは私のカードを睨んでまじないをかけるつもりですな」 ラルゴは陽気を装って言った。 「それでは私は、国でやっているまじない破りを使おう」

                  ラルゴはそう言うと、右手を上げて人差し指と小指だけをフォークの様に突き出してボンドの顔に向けた。

                  周りの連中には芝居がかった遊びの様に見えただろうが、ボンドはそのマフィアがやるサインの向こうに、ラルゴの敵愾心を読み取った。

                  が、ボンドはにこやかに笑って受け止めた。

                「そいつはまたずい分と強力な魔法の様ですね。 しかし、私には効いてもカードには効いたかな? では、あなたと私の亡霊勝負と行きましょう」

                  またもやラルゴの顔に、戸惑いの色が浮かんだ。 なぜこの男は3度もこの言葉を使うのだろうか?

                「いいでしょう、3回目の勝負と行きましょう」 ラルゴはカードケースを乱暴に叩いた。 そして4枚のカードを取り出すと、2枚をボンドの方に滑らせる。

                  テーブルの周りでは、誰もがこの勝負の行方を、固唾を飲んで見つめていた。

                  ボンドは手のひらの中で2枚のカードを覗いた。 クラブの10とハートの5だった。 2枚で5だ。

                  きわどい数だ。 もう1枚取るか・ それともこの数で勝負に出るか?

                  ボンドは6か7を手にした様な表情を作った。

                「もう結構」

                  ラルゴは自分のカードを覗くと、苦々し気にテーブルに投げ出した。

                  ラルゴも5だった。 さて、どうする?

                  ラルゴはボンドに目を向けた。 ボンドの余裕たっぷりの表情を見ると、カードケースから1枚引いた。

                  スペードの9だった。 ラルゴの手は4になった。

                  ボンドはゆっくりとカードを置いた。

                  ラルゴがカードを引かなければ、ボンドと同じ5で親の勝ちだったのだ。 が4になってしまったので、またもや1点差負けになってしまった。

                  ボンドは勝者の笑みを浮かべた。 「どうやら私のまじないを消すよりも、カードにまじないをかけた方が良かった様ですな」

                  今度はラルゴも、歯をむき出しになるのを押さえるのに苦労している様だった。

                  何とか作り笑いを浮かべて握りしめたこぶしの力を抜くと、深く息をついた。

                「さてボンドさん、誰か他の人が親を引き受けてくれるまで、あなたも待たなきゃならんでしょうな。 私は姪のダンスの相手をするつもりだったのだが、あなたに儲けをすっかり取れれてしまったので、まだゲームを続けなければならなくなってしまった」

                  ラルゴは後ろのドミノに振り返った。

                「ボンドさんのおかげで、今夜の予定がくるってしまったよ。 お前は誰か他の相手を見つけておくれ」

                  ボンドは引き上げ時だと判断して、チップの山に手をかけた。

                「私はここで降りますよ。 こういうツキは、そう続くもんじゃありませんからね」 ボンドはここでドミノを見た。

                「お嬢さん、あなたとは今朝タバコ店でお目にかかってますよね。 どうです? 1杯お付き合い願えませんか?」

                  女はイスから立ち上がると、ボンドに顔を向けた。

                「そうねえ、他に面白い事など無さそうだから付き合ってあげてもいいわ」 はすっぱな口調で応えると、ラルゴに振り返った。

                「エミリオ、ボンドさんがこのテーブルを離れれば、またきっとツキが戻って来るわよ。 家に仕送りが出来る様にがんばってね。 私はボンドさんにシャンパンとキャビアを頂くわ」

                  ラルゴは元気を取り戻した様に笑顔を浮かべた。

                「おやおやボンドさん、あなたはフライパンの中から火の中に飛び込んだ様なもんですよ。 ドミネッタは私の様に、フェアーな相手をしてくれませんからね」

                「ラルゴさん、ゲームの相手をして頂いてありがとう。 シャンパンとキャビアは3人前注文する事にしますよ。 私の亡霊もそれくらいのご褒美にありついてもいいでしょうからね」

                  ラルゴは、今度はチラッとボンドを見ただけだった。

                 

                  ドミノはレストランの奥に向かって歩いていく。 ボンドは後を付いて歩きながら、彼女が軽くびっこを引いているのに気が付いた。 それがとても可愛らしい感じだ。

                  シャンパンはクリコ・ローゼ、キャビアはベルーガ・キャビアだ。 それらがテーブル並ぶと、ボンドは脚の事を尋ねた。

                「今日泳いで、脚にケガでもしたのかい?」

                  彼女は冷ややかな目線をボンドに向けた。

                「違うわ。 あたしの脚は生まれつき片方が1インチばかり短いのよ。 嫌いになった?」

                「いや、可愛らしいくらいだよ」

                「すれっからしの囲われ者のくせに、と思ってるんでしょ」

                「君は自分でそう思っているのかい?」

                「ナッソー中の人がそう思っているくらい、あたしだって知ってるわ」

                「私には誰もそんな事は言わなかったぜ。 それに、たとえそんな事を聞いたとしても、私はどんな人物かは自分で判断する事にしているんだ。 そもそも世間なんてゴシップ記事みたいなのが好きだからね。 人の噂なんて全くあてにならないよ」

                「あら、ずい分と優しいこと言うのね。 でも、あたしの気を引こうとしても無駄よ」

                「そんなつもりは無いさ。 でも、私が君の事をどう思ったか聞きたくないかい?」

                  ドミノはここで初めて笑顔を浮かべた。

                「いいわよ。 聞かせてちょうだいな。 女なんて誰だって自分の事を言われるのは聞きたいものよ。 でも、お世辞を並べたら怒るわよ」

                「君は両親に大事に育てられた様だね。 そんな感じがするよ。 しかし突然、足元の赤い絨毯が引っぺがされて、路頭に迷ってしまったんだよね。

                  だが、君は勇気を奮い起こしてそれまでの暮らしを手に戻そうとした。 かなり無茶もやっただろう。 また、そうしなければならなかったんだ」

                  ボンドはテーブルの上のドミノの手に掌を重ねた。

                「しかし、君が望んだそんな暮らしぶりは、もう手に入れられたんじゃないのかい?」

                  ドミノは小首を傾げながら、ボンドの話しを聞いていた。 目を伏せたまま黙っている。

                「こんな話しは止めよう。 もっとありきたりな事を話すよ」 ボンドは彼女に笑顔を見せた。

                「君は美人で色気があって、挑発的で癇癪持ちで、そして残忍な女だな」

                  ドミノは分別くさくボンドを見つめた。

                「あまり利口な女じゃ無いってことね。 でも、その通りかも。 あなたってイタリア女の事は、少しは解かっている様ね。 だけど、あたしが残忍だって言うのはどうしてなの?」

                「もし私がラルゴさんみたいに負けてしまってさ、連れの女性が慰めや励ましの言葉1つもかけてくれなかったら、私はその女性にがっかりするよ」

                「あたしは、彼が虚勢を張るのをさんざん見てきてるのよ」 ドミノはじれったそうに言った。 「さっきは、あんたに勝ってほしいと思っていたくらいだわ」

                「そりゃまた、ずい分と極端だねえ」

                「あたしって好きになったらとことん好きになるけど、嫌いになったらとことんまで嫌いになっちまうの。 あたしは自分を誤魔化せないのよ。 あんたはあたしのたった1つの良いところを言ってくれなかったわね。 あたしは正直なの。 エミリオは今、ちょうど真ん中なのよ。 ちょっと前は恋人同士だったけど、今は親友みたいなもんね」

                  ボンドは、この意外なドミノの独白にびっくりした。 先を促す様に、黙って頷く。

                「あたし、今朝はあんたにエミリオの事を後見人だって言ったけど、あれは真っ赤な嘘よ。 あたしはあの人の囲い者なの。 金メッキのカゴに入れられた鳥と同じ。 でも、もうカゴにはうんざりなの」

                  ドミノはボンドに、うしろめたそうな目を向けた。

                「そうね、確かにあたしはエミリオに対して残忍だわ。 でも、仕方が無いのよ。 彼にはいろいろと良くして貰っているけど、あたしの心を受け止めてくれてるわけじゃ無い。 エミリオもそれは解かっているわ。 あの人は、必要に応じて女を手に入れているだけ。 あたしもそれは解かってるわ」

                  ドミノはここまで語ると、口をつぐんだ。 が、突然笑い出した。

                「いやねえ、バカな話しばかりしたんで、喉が渇いたわ。 もっとシャンパンを頂戴な。 それと、プレイヤーのタバコが吸いたいわ。 煙を出すだけのタバコには飽きちゃったのよ。 あたしはあたしの“英雄(ヒーロー)”がほしいわ」

                  ボンドはタバコの売り子に声をかけて、プレイヤーを1つ買った。

                「何だい? その“英雄(ヒーロー)”ってのは?」

                  ドミノの様子はすっかり変わっていた。 ギスギスした様子がすっかり消えて、表情も柔らかくなっている。

                「あーら、あんた知らないの? プレイヤーの箱に描かれている水兵のお話し。 彼はあたしの憧れの男性なのよ」

                  ドミノはそう言うと、テーブルの上に身を乗り出して、タバコのパッケージをボンドの前にかざした。

                  そしてドミノは、描かれた水兵にまつわるロマンチックなエピソードを、とくとくと語り始めた。

                  ボンドは相づちをうちながら、彼女が熱心に語る話しを聞いていた。

                  ドミノはひとしきり話すと、表情が変わった。 自分が語ったお伽噺の世界から、現実に戻ってしまったのだ。

                「ボンドさん、あたしの話しを聞いてくれてありがとう」 かなり切り口上な口ぶりだ。 「あたしだって、これはお伽噺だって事は承知しているわ。 でも、人はどこかでこういったお話しが忘れられないものよ」

                「そんなもんかなあ」 ボンドはどう応えたらいいかわからず、そう言った。

                「でもあんただって子供の頃は、枕に下に何か入れて寝てたんじゃなくて?」 ドミノはちょっとムキになって言った。

                「そう言われれば、そんな時期もあったね」

                  ドミノは、そらごらんなさい、といった目でボンドをにらんだ。

                「あたしの兄も、婆やに貰った何かのお守りみたいな物を19の歳まで離さなかったわ。 でもいつだったかそれを無くしちゃって。 あの時は大騒ぎだった」

                  ドミノは肩をすくめた。

                「兄も別に気にする事は無かったのよ。 そんな物が無くたってちゃんとやっていけたんですもの。 兄はあたしとはだいぶ歳が離れていて、ちょっとワルだったの。 でも、あたしは兄の事が好きだった。 ちょっとワルな兄貴が好きだったの。 だって、女の子なんてみんなそうでしょ。 

                  兄は羽振りが良かったけど、あたしには何もしてくれなかったわ。 人生は自分で切り開くものだ、って言うのよ。 兄の話しではあたし達の祖父は、ドロミテスでは密猟や密輸で名うての人物で、ボルツァノの墓地ではペタッチ一族の中で一番立派な墓石が建っているんですって。 兄はもっと立派なのが建つぞって言って、同じ様な手口でお金を作っていたわ」

                  ぺタッチ? ボンドは手にしたタバコがふるえない様に、手に力を入れた。

                  深く一服すると、ゆっくりと煙を吐き出す。

                「すると、君達の苗字はぺタッチなのかい?」

                「ええ、そうなのよ。 ヴィタリと云うのはステージでの名前なの。 でもこっちの方が響きが良いので、イタリアに戻ってからもヴィタリで通したの。 何もかもすっかり変えたかったのよ」

                「それで、兄さんはどうしてるんだい? 兄さんの名前は?」

                「ジュゼッペ。 いろんな悪事をやってきてるわ。 でも、素晴らしいパイロットなのよ。 この前の便りでは、何だかパリで大きな仕事を掴んだんですって。 たぶん兄もそれで落ち着くでしょう。 そうなる様に、あたし毎晩祈ってるの。 あたしって正直でしょ?」

                  ボンドは吸殻を灰皿に突き立てると、ボーイに伝票を持ってくる様に命じた。

                 

                引き続き【ストーリー編 7/9】 へどうぞ。

                 

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                007おしゃべり箱 Vol.54A-7 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(7)』

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                  「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                   

                  007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

                   

                  Vol.54A-7

                   

                  『原作紹介/サンダーボール作戦』

                  Ian Fleming’s THUNDERBALL

                   

                  【ストーリー編 7/9

                   

                  by 紅 真吾

                   

                  【ストーリー編 6/9】 の続きです。

                   

                    港湾警察の波止場の下では、小さな波が鉄の支柱に当たってピシャピシャと音を立てていた。

                    遠くから、ジャン・カヌー・ナイトクラブのスチール・バンドの音楽が水面を伝って来る。

                    下弦の月が鉄骨を通して投げる格子縞の影の中で、ボンドはサントス巡査に手伝ってもらってアクアラングのボンベを背負った。

                    レイターが持って来た水中用のガイガーカウンターも、コードや機械と共に腰にセットしてもらう。

                  「夜のこの時間だと、大きな魚はいるかい?」 ボンドはサントス巡査に尋ねた。

                  「港の中にどこにでもいる様な連中ですよ。 バラクーダが何匹かいるでしょうし、鮫も1匹や2匹は泳ぎ回ってるかもしれません。 でも奴らは、船から捨てられる残飯なんかでいつも満腹になってますから、のんびりしたもんですよ。 こっちが血でも流したりしてなければ、厄介な事はありません。 あとは底を這い回っている様なのばかりですね。

                    底はほとんど海藻が茂っていて、その間に空き瓶とかゴミがいっぱい沈んでます。 汚ねえですよ。 でも水は澄んでます。 この月とディスコ号の灯りで、迷う事は無いでしょう」

                  「分った。 じゃ、行ってくる。 30分くらいで戻ってくるよ」

                    ボンドは腰に差したナイフの位置を確認すると、マウスピースをくわえた。

                   

                    ボンドは海の底から数インチのところを泳いでいく。

                    さざ波を通した月の光が、灰色の海底をちらつかせていた。

                    サントス巡査が言っていた通り、古タイヤや空き缶、空き瓶などがいっぱいだ。

                    小タコがボンドの気配を感じ取って、こげ茶から灰色に色を変えて石油缶の口にもぐり込んでいった。

                    砂の中の小さな生き物たちも、ボンドの振動を感じ取ると、小さな火山みたいな穴からシューッと泥を吹いたりするのだった。

                    上にも下にも、いろいろな神秘に満ちた生物がささやかな生命を営んでいる。

                    ボンドは丹念にそういったものを見ながら進んでいく。

                    海の底で神経を落ち着かせておくには、それが有効だと心得ていたからだ。

                    全神経を目の前の住民達に注いで、回りを囲む暗闇の向こうに思い過ごしの怪物などを描かない様にする事だ。

                    ボンドは足ヒレを一定のリズムで動かして進んでいった。

                    突然、ボンドは危険を感じて右を見た。 左でも後ろでも無く、第六感が右を指したのだ

                    大きなバラクーダ、それもボンドの身長程もある奴が、10ヤードばかり離れてボンドと並行に泳いでいた。 海では一番恐るべき魚族だ。

                    長い口が半インチばかり開いて、鋭い歯が月の光を受けて光った。 金色の脇腹の線がくっきりと見える。 いきり立って獲物を求めている印だ。

                    ボンドは胃の辺りがむずつくのを感じた。 股ぐらの膚がキュッと縮みあがる。

                    恐れてはいけない。 怖がったりしてはダメだ。 ボンドは自分に言い聞かせた。 不安は自然に向こうに通じてしまう。

                    動きに静かな枠を決めて、それを乱さない様にしなければならない。 混乱したり不規則な動きをするものは餌食になるのだ。

                    ボンドはリズムを崩さずに泳ぎ続けた。

                    やがて海底の光景が変わってきた。 やわらかそうな海藻の牧場が現れる。

                    前の方に銀色の雲の様な物が漂っていた。 ボンドとバラクーダが近づいていくと、パッと2つに分れた。 小魚の群れだ。

                    分かれた間を抜けながら、ボンドはバラクーダを見た。

                    奴は小魚などには目もくれず、ボンドと距離を保ったまま悠然と泳いでいる。

                    ボンドは、リズムを崩さない、という防御に身を固めてバラクーダに、こっちの方が大きくて凄い魚なんだぞ、と見せつけてやる。

                    波打つ海藻の中に、黒い錨が見えた。 錨の鎖が上の方のモヤの中に伸びている。

                    ディスコ号に着いたのだ。 ボンドは鎖に沿って上がっていった。

                    月光に照らされた海面が眩しいくらいだった。

                    ボンドは下を見たが、バラクーダの姿は見えなかった。 きっと錨や鎖が気味悪かったのだろう。

                    長い船腹は下から見ると、まるで飛行船の様だ。 たたまれた水中翼が場違いの様にちぐはぐに見える。

                    ボンドは鎖から離れて、船腹に沿って進んだ。

                    あった。 船腹の真ん中に、大きなハッチの境目があった。

                    ボンドは泳ぎながら大きさを計った。 12フィートくらいで、真ん中で分かれている。

                    ガイガーカウンターのスイッチを入れて、船腹に当ててみる。 右手首のメーターは、ちょっと針が振れた程度だった。 船腹に当てればこれくらいは振れて当たり前、といった程度だ。

                    今夜はここまでにして戻ろう。

                   

                    耳元でカーンと音がしたのと、左肩に何かが当たったのが同時だった。

                    ボンドは反射的に船腹から飛びのいた。

                    すぐ下をキラキラ光った銛がゆっくりと沈んでいく。

                    ふり向くと、黒いウエットスーツの男がいた。  男は水中銃に次の銛を差し込もうとしているところだった。

                    ボンドは男に体当たりするつもりで水を蹴った。

                    男は銃のレバーに手をかけて構えている。

                    間に合わない。

                    ボンドは首をすくめて、体を折って沈んだ。 肩の先を銛が走っていく衝撃波を感じる。

                    ボンドはナイフを抜くと、男の下側からぶつかっていった。

                    刃が男の下腹に喰い込む。

                    が、耳の後ろを水中銃の台尻で殴られた。 白い手が伸びてきて、ボンドの空気パイプを掴む。

                    ボンドはしゃにむにナイフを突き立てた。

                    マスクにかかった手は離れたが、今度は何も見えない。 あたりは黒煙みたいなのでいっぱいだ。

                    再び何かで頭を殴られた。

                    フッと意識が遠のく。 手足に力が入らない。 ボンドは、やっとの思いで後ろに下がった。

                    黒い煙は、男の腹から出た血だった。

                    男はゆっくりとボンドと同じ深さに沈んでいた。 男はまだ水中銃を手にしていた。

                    ボンドは頭を振って、意識をはっきりさせ様としたが、手も足も半分くらいしか言う事をきかない。

                    銃の先がゆっくりと上がってくる。 取り付けられた銛が、ボンドの方に向けられた。

                    男のマウスピースの周りに、むき出した歯が見えた。

                    ボンドは力なく足ヒレを動かしながら、胸を守るために両腕をクロスさせた。

                    出し抜けに、男がボンドの方にのめった。 両腕を広げている。 男の手から離れた水中銃が、ゆっくりと沈んでいく

                    男の背中から、黒い血煙が上がった。

                    男の後ろの数ヤードのところに、バラクーダがいた。

                    顎から黒いゴムの切れ端を引きずっている。 あくびの様に大きく口を開けると、切れ端を飲み込んだ。

                    大きな目が冷ややかにボンドを見おろし、次にゆっくりと沈んでいく男の方に向いた。

                    そいつはスルッと方向転換すると、男に向かって突進していく。

                    口を大きく開いて男の肩にかぶりついた。 青く光る体を激しくくねらせる。

                    ボンドは胃液がこみ上げてくるのが分かった。 吐き気を飲み込むと、気持ちを切り替えて船腹を後にした。

                   

                    いくらも進まない内に、左の海面から、卵の様な物が落ちてきた。 ゆっくりとクルクル回りながら沈んでいく。

                    何だろう? ボンドは気にしないで泳いだ。

                    が、2かきばかり水をかいた時、凄まじい衝撃波を受けた。 まるでアッパーカットを喰らったみたいに、手足が痺れて意識が朦朧とする。

                    手榴弾だったのか。

                    見上げると、海面から次から次へと手榴弾が落ちてくる。

                    ボンドは海底の海藻スレスレまで潜った。 一刻も早く離れたかったが、リズムを意識して足ヒレを動かす。

                    さっき受けた衝撃波が、またボンドを襲った。 体が横倒しになる。

                    だがボンドは覚悟していたので、落ち着いて海底の目標を辿って港湾警察の波止場に向かっていく。

                    何発もショックに見舞われたが、衝撃波は弱くなっていた。

                    矢の様に逃げて行く小魚の群れに交じって、ボンドは懸命に泳いだ。

                    やっと灰色の砂地になってきた。 古タイヤや空き瓶、空き缶が見えてくる。 やがて、波止場の鉄脚。

                    ボンドは浅瀬に這い上がると、やっとの思いでアクアラングを外した。

                    サントス巡査が駆け寄って来るのが分かった。

                  「ヨットの右舷で水柱が上がっていましたよ。 デッキに何人か現れて、何か騒いでいました」

                  「そうかい?」 ボンドはしらばっくれた。 「ヨットの脇に頭をぶつけちまったよ。 見たいものだけ見て帰ってきたんだ。 君はとても役に立った。 どうもありがとう。 夜が明けたら長官の所へ行くつもりだ。 おやすみ」

                   

                  *****

                   

                    ボンドはホテルに帰るとレイターに電話して、一緒に警察本部へ向かった。

                    クルマを運転しながら、ボンドは今晩の事を語った。

                  「私はМに報告を入れるよ」

                  「そうしたまえ。 こっちも君の報告をそのままC・I・Aに送る。 そしてメンタ号を呼び寄せるよ」

                  「おや、何だってそんなに気が変わっちまったんだい?」

                  「コッツェを見つけたんだ」

                  「誰だって?」

                  「東ドイツの物理学者のコッツェだよ。 さっきのカジノのパーティーの時だがね、出資者と云う連中の中に居たんだ」

                    レイターはそう言うと、5年前に西側に亡命してきて知っている事を洗いざらいぶちまけると行方をくらました男だ、と語った。

                  「俺がまだC・I・Aでデスク仕事をしてた頃、書類を見たんだ。 当時は大変なニュースだったんだぜ。 顔写真を覚えてるよ。 あいつはコッツェだ。 間違い無い。 じゃ、なんで物理学者が宝探しの一党に加わっているんだ? おかしいじゃないか。 奴らが黒幕だったんだよ!」

                    クルマは警察本部に着いた。

                    ボンドは部屋に入ると、要点だけを報告にまとめた。 次に暗号文に組み替えていく。

                  「ジェームス、こうなったら警察を動かして、奴らを一網打尽にしちまおうぜ」

                  「ダメだよ、フィリックス。 ラルゴは弁護士を呼んで、ものの5分で出てきちまうさ。 証拠が無いからね」

                  「じゃあどうするんだ? 爆弾でも仕掛けてあのヨットを沈めちまうか?」 レイターはじれったそうに言った。

                  「いや、待つんだ。 メンタ号が来ればディスコ号を追跡出来るしね」 ボンドは応えた。 「奴らは宝探しの仮面が上手くいってると思っているから、計画通りに進めていくだろう。 次に奴らがやるのは、核爆弾を隠し場所から引き揚げて第一目標のグランド・バハマ諸島に運ぶ事だよ。 まだゼロ・アワーまで30時間くらいある。 こっちはディスコ号から目を離さない様にしてるんだ」

                  「ただ見てるだけか?」 レイターは面白く無さそうに言った。

                  「いや、水上機を用意してもらって、爆撃機を探すんだ。 ここから百マイル以内の海域だよ。 陸地じゃ無い。 きっと浅瀬に不時着させたんだよ」

                  「よし、分かった。 じゃ、さっさと報告を済ませて眠ろうぜ。 電話のコンセントは外してな」

                   

                    翌日の早朝、ボンドとレイターはウィンザー飛行場に入った。

                    地上整備員がグラマンの小型水上機をジープで引き出して来る。

                    2人が乗り込んでレイターがエンジンを回した。 馴れた手つきで計器をチェックしていく。

                    すると、オートバイに乗った制服の男が飛行場に入って来た。 整備員から水上機を指されると、おずおずと歩いて来る。

                  「出せ! レイター。 書類が追っかけて来るぞ!」

                    レイターはチラッと窓の外を見ると、手早くブレーキを外して水上機を滑走路に進めた。

                    無線機がやかましい音を立て始める。

                    レイターはスロットル・レバーをグイと押した。 水上機はうなりを上げて滑走路を走り出す。 そしてスッと飛び上がった。

                    レイターは手を伸ばすと、無線機のスイッチを切ってしまった。

                    ボンドは膝の上に海図を広げた。

                  「3日の晩にディスコ号が南に向かった、と云うのはカモフラージュだと思うんだ。 北西の方角が怪しいよ。 ヨットが出かけていた時間は8時間。 その内、核爆弾の引き上げに2時間。 行方を誤魔化す為に1時間使ったとすると、残りは5時間だよ。 グランド・バハマからこっちで、30ノットで5時間の範囲を探すんだ」

                  「了解、ジェームス。 ではグランド・バハマの方から捜索していこう」 レイターはそう言うと操縦桿を動かした。

                  「ところでジェームス、ディスコ号の方はどうした?」

                  「警察長官に話して、交代で24時間見張って貰ってるよ」

                    水上機はグランド・バハマ諸島のミサイル基地に近づいた。

                  「この辺りからビニミ群島まで南下するぜ」 レイターは機体を傾かせた。

                    暫らく飛ぶと、暗礁が続いたネックレスの様な島々が見えてきた。

                    島と言っても海面スレスレで、周りは浅瀬だ。 こんな場所は、爆撃機の隠し場所にはもってこいだろう。

                    水が澄んでいるので、鮫やエイの様な大きな魚や砂底の海藻までがはっきりと見える。

                    水上機は北ビニミに向かって南下していった。

                    ここは家が何件か建っていて、釣り客用の小さなホテルもあった。

                  「人家の近くじゃ無いな」 ボンドはつぶやいた。

                    水上機はさらにキャゥト・ゲイズまで南下していく。

                    時おり漁船が浮いていた。

                    さらに南に飛ぶと、海図には載っていない名も無い小さな島々が見えてきた。

                    紺碧の海が浅瀬の緑に変わる。 3匹の鮫があても無く輪を描いて泳ぎ回っていた。

                    静かな海面の下は眩しいばかりの砂地だ。 時おり暗礁の小さな塊りがある。

                    海の色がまた紺碧になった。

                  「まあ、ここいらまでだな。 ここから50マイル先はアンドロスだ。 人が多すぎる。飛行機が落ちたら誰かが聞きつけるよ」

                  レイターは腕時計を見た。 「どうする? 名探偵。 燃料はあと2時間分くらいだが」

                    ボンドの頭の中には、何かが引っ掛かっていた。 何だ? あの鮫だ。 40フィートくらいの海の中だった。 輪を描いて泳いでいた。 しかも3匹も。

                    あんな所で何をしていたんだろう? 何かが鮫を呼び寄せたに違いない。

                  「フィリックス、戻ってくれ。 さっきの浅い所だ」

                    レイターは機体を回れ右させた。 今度は50フィートくらいの高さまで降りていく。

                    ボンドはドアを開けて首を出した。

                    鮫が居た。 2匹は海面に背ビレを出して泳いでいる。 もう1匹は海底で何かを突いていた。 暗い色と白っぽい色が斑になっている海の底で、何かに歯を立てて引っ張っている様だ。

                    何だろう。

                    その時、ボンドの目に細い直線が見えた。

                  「もう1度戻ってくれ!」 ボンドは叫んだ。

                    今度は別の直線が見えた。 さっきのと直角に交差している。 ボンドは首を引込めると、ドアを閉めた。

                  「フィリックス、あの鮫の上に降りてくれ。 どうやらこの下らしい」

                  「本当か? よし」

                    レイターは機体を旋回させながら高度を下げていく。 フラップを下げると、鮫の背ビレの近くに着水させた。

                    ボンドは海の中を覗いた。

                    あった。 海底の岩の様に見えたのは、カモフラージュ・ネットだ。 ネットの下にヴィンディケイター爆撃機が隠されていた。

                    ボンドはレイターに頷いた。

                  「見つけたぜ。 大きなカモフラージュ・ネットを被せてあるんだ。 見てみろよ」

                    さあ、警察無線で連絡するか? いや、ダメだ。 ディスコ号の無線士に気付かれる恐れがある。

                    爆撃機を見つけたのだから、核爆弾が本当に無くなっているかを確認しなければならない。 それに証拠の1つも持って帰らなくては。

                    下を覗いていたレイターが座席に座り直した。

                  「いやはや、驚いたぜ! 大手柄だ!」 そう叫ぶと、ボンドの背中を叩いた。 「世界中が血まなこになって探しているヴィンディケイター機を、俺たちが見つけたんだ! ざまみろってんだ!」

                    とにかく鮫を何とかしなければ、安心して潜れない。

                    ボンドはワルサーPPKを取り出した。 泳ぎ回っている鮫が近づいて来るのを待つ。

                    2匹の内大きい方が、悠然と近づいて来た。

                    ボンドは背ビレの根元辺りを狙って撃った。

                    鮫は海面から後ずさる様な動きをしてから、左右にバシャバシャと暴れ始めた。

                    グルグルとひっくり返ったりしていたが、しばらくすると静かになった。 だらしの無い動きをしているが、もう死にかけているのだろう。

                    もう1匹の鮫が寄って来た。 死にかけてる奴を鼻先で突いている。

                    が、突然頭の横にかぶりついた。 体をくねらせ咥えた頭を振り回して、食いちぎる。

                    海面に血が雲の様に広がった。

                    下からもう1匹が上がって来た。 2匹の鮫は獲物に何回も嚙み付いていく。

                    ボンドはレイターに拳銃を渡した。

                  「潜ってみるよ。 奴らはもう30分くらいはあいつで忙しいだろうが、もし戻ってきたらもう1匹仕留めてくれ」

                    ボンドは服を脱ぐと、レイターに手伝ってもらってアクアラングを着けた。

                  「畜生め。 俺も一緒に潜りたいんだがなあ。 生憎とこの義手は水泳には向かないんだよ」

                  「旦那はこの飛行機をすぐに飛び立てる様にしといてくれよ。 そういや、百ヤード近く流されちまってるぜ」

                    レイターはスターターを押して水上機を元の場所に戻した。

                  「ジェームス、ヴィンディケイター機の構造は知っているか?」

                  「ああ、ロンドンですっかり教わってきてる」

                  「核爆弾もそうだが、操縦士が管理している信管なんかの仕舞い場所も解ってるな?」

                  「大丈夫だ。 じゃ、行ってくる」

                    ボンドは水上機のフロートの上に立つと、海の中に入った。

                    頭を下げて潜っていく。 目の下いっぱいに、魚が群がっているのが見えた。 かますや小さなバラクーダ、その他いろいろな口の尖った魚。 みな肉食魚だ。

                    それらが大きな敵が現れたので、しぶしぶ道を開ける。

                    海底に着くと、カモフラージュ・ネットを止めてある杭を2本ばかり引き抜いた。

                    ライトを点けると片手をナイフに当てたまま、ネットをめくり上げてもぐり込む。

                    覚悟はしていたが、内側の水の汚さは吐き気がするくらいだった。

                    ライトの光が磨き上げられた翼の下側を照らしていく。 翼の下で、カニやヤドカリ、ヒトデなどが群がっている。 ボンドには潜る前から、見当が付いていた。

                    砂地に膝をつくと、首から認識票を外し、手首から腕時計を外した。 死体の顎の下には、海の生き物がやったとは思えない傷口が、ぱっくりと開いている。 認識票には「ジュゼッペ・ペタッチ 15932」とあった。 ボンドはこの2つを手首に巻き付けると、爆撃機の胴体へ向かった。

                    開いている脱出ハッチから中に入っていく。

                    暗闇の中には、いたる所にルビーの様な赤い目が光っていた。 そいつらがゴソゴソと動き回っている。

                    ボンドはライトを向けた。 タコがうじゃうじゃしていた。 小さい奴だが、百匹は居るだろう。 足先をざわざわ振りながら、物蔭に逃げていく。

                    天井はもっと酷いありさまだった。 パイロット達の死体が漂って、静かにぶつかり合っていたのだった。 しかもタコがその死体からコウモリの様にぶら下がっている。 そいつらが足を放してゴソゴソと座席の下などにもぐり込んでいく。

                    ボンドはライトで足元だけを照らしながら捜索していった。

                    核爆弾の格納室のハッチが開いているのを見つけると、中を覗いてみる。

                    案の定、核爆弾は無くなっていた。 操縦席の下の、信管の保管場所も見たが、やはり無くなっていた。

                    素足にまつわり付くタコの足を何十回と払いのけている内に、ボンドは勇気も張りも失せてしまった。

                    パイロット達の認識票や航空日誌など、持って帰らなくてはならない物はいくつかあったが、モゾモゾと寄って来る赤い目の墓守どもに、もう辛抱出来なくなってしまった。

                    脱出ハッチをくぐり抜けると、一目散にネットの縁に向かう。

                    ネットをめくり上げてくぐり抜けようとしたが、背中のボンベが引っ掛かって出られない。 逆戻りしてやっと外れた。

                  もう1度くぐり直して済んだ水の中に出ると、ボンドは海面に向かって昇っていった。

                   

                  *****

                   

                    ウィンザー飛行場に帰った時は、1時になっていた。

                    飛行場には総督の副官が来ていて、2人宛ての暗号電報が入ったぶ厚い封筒を持っていた。

                    中身は案の定、連絡を絶った事への叱責と、その後の情報の督促だった。

                    市街地へ飛ばす総督のハンバー・スナイブ大型車の快適な後部座席で、今報告してやるよ、とレイターが呟いた。

                    電報では、メンタ号は夕方5時の入港予定、となっていた。

                    パリのインターポールとイタリア警察の調査から、ジュゼッペ・ペタッチがドミネッタ・ヴィタリの兄である事が確認された。

                    エミリオ・ラルゴは派手な冒険家であり表面的にはまっとうな経歴であるが、犯罪容疑者として目を付けられている事が明らかになった。

                    彼の資産の出処は不明だが、少なくともイタリアにある財産から生まれたものでは無い事が判明した。

                    他の出資者達も詳しく調査したが、誰も普通のビジネスマンとしての経歴しか浮かんでこなかった。

                    ただ奇妙なのは、彼らの経歴が6年前までしか辿れなかった、と云う事だ。 これは、彼らの現在の身分がでっち上げられたものだ、と云う可能性が高い事を示している。

                    が、しかし、それでもサンダーボール作戦の大本営は慎重な姿勢を保っている様だ。

                    バハマ地域を最重要地域としながらも、あらゆる可能性を考慮して全世界にわたる捜索を続行する、と言う。

                  −現時点ではバハマ地域が最重要地域であると云う点と、時間的制約がさし迫っているいると云う点に鑑み、大本営は、在米英国大使館付き武官フェアチャイルド准将を現地指揮官として、また、合衆国国防委員会事務局長を勤めていたカールスン退役海軍少将をその補佐官として、19時着予定で大統領のボーイング707コロンバイン機で派遣する。

                    これにより、ボンドとレイターは両名の指揮下に入る。

                    両名が到着するまでは、1時間毎に完全な報告を暗号無線でロンドンに送信し、控えをワシントンに送信せよ−

                    ボンドとレイターは顔を見合わせた。

                    しばらくしてから、レイターが大きく息を吐いた。

                  「ジェームス、この最後の1項は見なかった事にしようぜ。 貴重な時間を無線室で潰したくないよ。 やらなければならない事が沢山あるんだからね」

                    レイターはそう言うと、手を頭の後ろで組んで前を見つめた。

                  「こうしよう、ジェームス。 ヴィンディケイター機を見つけた事だけ報告して、緊急事態が起こったから連絡を絶つ、と言ってしまおう。 そしてパルマイラ荘を偵察に行こう。

                    いよいよ大詰めなんだ。 大統領の特別機で来るお偉方は、明日の朝まで総督官邸でピノクルでもやって遊んでもらおう。 な、そうしようぜ」

                    ボンドは考え込んでしまった。 命令違反は今までも何回となくやってきている。 だが今度の命令は英国首相と合衆国大統領からのものだ。 果たしてどうなるだろうか?

                    しかし、事態の動きはとんでも無く早すぎる。 今の状況には、巧遅よりも拙速の対応が求められるのではないか?

                    しかもМは、このナッソーを自分に任せてくれたのだ。 これから、どう転んでもМは庇ってくれるだろう。

                  「よかろう、フィリックス。 だが肝心なのは、いつどこで核爆弾がディスコ号に積み込まれるのか、だよな? 実はフィリックス、その点について考えがあるんだ。 例のヴィタリと云う女を使おうと思ってる。 もしかしたら失敗するかもしれないが、なんとか上手くやってみせるよ。

                    パルマイラ荘へは君1人で行ってくれないか? ホテルで降ろしてくれ。 段取りを立てなくては」

                   

                    クルマを下りたボンドは、ホテルのフロントに駆け込んだ。 フロントの男は、部屋の鍵と一緒に伝言メモを寄こした。

                    エレベーターの中で開いてみる。 ドミノからだった。 「すぐ電話ちょうだい」

                    部屋に戻ったボンドは、先ずクラブ・サンドイッチとダブルのバーボンのオン・ザ・ロックを注文してから、警察長官に電話を入れた。

                  「ボンドさん? えー、例のヨットは、夜が明けると給油波止場へ移動して給油してます。 給油が終わるとすぐにパルマイラ荘沖の投錨地に戻ってます。 その後は動きがありませんでしたが、ちょうど30分前に水上機を降ろして、Rとパイロットの2人が乗って東へ飛んでいきました」

                    この連絡を受けた長官は、すぐにウィンザー飛行場へ電話して、飛び立った飛行機をレーダーで追跡する様命じた。 が、向こうは300フィートくらいの低空で飛んだので、南東50マイルくらいの島の間で見失ってしまったそうだ。

                  「他には、港湾当局からアメリカの潜水艦が5時に入港予定、との連絡がありました」

                    ボンドは警察長官に礼を言うと、見張りの連中に水上機が戻ったらすぐに報告するよう指令する事、それをフェリックス・レイターにも連絡する事、を強く依頼した。

                  「それと、クルマを1台届けてくれませんか? 運転手? いえ、自分で運転します。 ええ、ランド・ローヴァーで結構。 動きさえすれば何でも構いませんから」

                    警察長官との電話が済むと、次はドミノだ。

                  「ジェームス、午前中どこへ行ってたの?」 やけに真剣そうな声だ。 それにしても、ジェームスと名前で呼んだのは初めてだ。

                  「今日の午後、泳ぎに来てほしかったのよ。 夕方には荷造りしてヨットに移れって言われたの。 エミリオの話しだと、今夜宝の引き上げに出掛けるんですって。 あたしも連れてってくれるなんて優しいでしょ。 でもこれは絶対秘密だから、誰にも話してはダメよ。 それであの人、帰って来る時間をはっきり言わないのよ。 何だかマイアミに行く様な事も言ってたし」

                    ドミノはここで口ごもった。 「あたしが帰って来た時には、あなたはもうニューヨークに帰ってしまってる様な気がして」

                  「泳ぎに行くのはいいねえ。 どこへ行けばいいんだい?」

                    ドミノは丹念に道順を教えてくれた。 パルマイラ荘から海岸づたいに1マイル程先の浜だと言う。

                  「海岸道路から入った小道の突き当りに、草ぶきの小屋があるわ。 今は帰ってしまったスエーデン人の浜なのよ。 だから人は来ないわ」

                    ボンドは30分後に行く、と言って電話を切った。

                    ルームサービスが届けて来たサンドイッチをバーボンで流し込む様に食べる。 そして海水パンツをタオルでくるむと、部屋出た。

                   

                  引き続き【ストーリー編 8/9】 へどうぞ。

                   

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                  007おしゃべり箱 Vol.54A-8 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(8)』

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                    「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                     

                    007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

                     

                    Vol.54A-8

                     

                    『原作紹介/サンダーボール作戦』

                    Ian Fleming’s THUNDERBALL

                     

                    【ストーリー編 8/9

                     

                    by 紅 真吾

                     

                    【ストーリー編 7/9】 の続きです。

                     

                      ドミノが言っていた小屋はロビンソン・クルーソーに出てくる様な、竹とにじり松を組んで屋根をヤシの葉で葺いた小屋だった。

                      中は男性用と女性用の更衣室になっていた。

                      女性用の方に、柔らかい服の小山とドスキンのサンダルがあった。

                      ボンドは海水パンツに履き替えると、浜に出た。 左右を岩場に囲まれた、半月形の砂浜だった。

                      ドミノの姿は見えない。 岩場の向こうで泳いでいるのだろうか?

                      午後の暑い陽射しに耐え切れず、ボンドは海に飛び込んだ。

                      のんびり泳いで沖を目指す。 岩場の先にもドミノの姿は無かった。

                      ボンドは砂浜に戻ると、うつ伏せになって海の方を眺める。

                      しばらくすると、入江の真ん中を微かな泡が近づいて来た。 すぐに黄色いアクアラングのボンベが海面に浮かんだ。

                      ドミノは浅瀬で片膝を付いて起き上がると、マスクを取った。

                    「そんな所でころがってないで助けに来てよ」

                      ボンドは起き上がると、波打ち際まで歩いていった。

                    「独りで潜るのは危ないぜ。 どうした? 鮫の昼メシにでもされかけたのかい?」

                    「バカな事言ってないでよ。 足にウニの棘が刺さっちまったのよ。 先ずボンベをはずして。 こんな重いのを背負っていたら立てないわ」 ドミノはそう言うと、腰のバックルを外した。

                      ボンドはボンベを外すと、木陰に運んだ。

                      ドミノは浅瀬で座り込んで右の足の裏を眺めている。

                      ボンドは膝を付いて覗き込んだ。 土踏まずの真ん中に、2つの小さな黒い点があった。

                      ボンドは立ち上がると、手を差し出した。

                    「日影に行こう。 足をつくと棘がよけいに刺さっちまうから、かかえていってあげるよ」

                      ドミノはボンドを見上げると笑顔を見せた。

                    「まあ、私の騎士殿ね。 いいわ、しっかりと抱いてね」

                      ボンドはかがみ込んで片腕を膝の下に、もう一方を脇の下に入れる。 ドミノは両腕をボンドの首に回した。

                      ボンドはドミノの体をかかえ上げた。 そのままドミノの顔を見おろす。

                      輝く瞳が、イエス、と言っていた。 ボンドは顔を伏せて接吻した。

                      柔らかい唇がボンドの唇を受け止め、ゆっくりと逃げた。

                    「ご褒美を先取りしちゃダメ」

                    「今のは手付けだよ」

                      ボンドはドミノをカジュアリ−ナの木陰に運んだ。 ゆっくりと砂地にドミノを降ろす。

                      横たわるドミノのビキニ姿を目の前にして、ボンドは自分が抑えきれなくなりそうだった。 「うつ伏せになるんだ」 と荒っぽく言う。

                      ボンドはドミノの右足を取り上げると、砂をはらった。

                      黒い点の所に唇を押し付けると、強く吸う。 口の中に小さな尖った物が入ってきた。 唾と一緒に吐き出す。

                    「1つは取れたけど、もう1つは厄介そうだ。 チョッと痛いのを我慢してくれよ」

                    「いいわ」

                      ボンドは棘の周りに歯を立てた。 噛みながら強く吸う。 ドミノは痛さで脚をバタつかせた。 押さえつけて強く吸った。

                      もう1つも取れた。

                      土踏まずにボンドの歯の跡が白く付いていて、2つの小さな穴に血がポツリと出て来た。 ボンドはその血を舐め取ってあげる。

                    「もう大丈夫だよ。 でも砂が入るといけないから、小屋まで抱いていってやろう。 小屋でサンダルを履けばいいんだ」

                    ドミノは仰向けになった。 黒いまつ毛が涙で濡れている。

                    「ねえ、分かる? あなたは私を泣かせた最初の男よ」

                      ボンドはかがみ込んでドミノを抱え上げた。 彼女を抱えたまま小屋に入る。 そのまま男性用に連れていった。

                      ドミノは、ボンドがブラジャーの1つしかないボタンを外し腰の紐をほどく間、両腕をボンドの首に回したままだった。

                      ボンドは海水パンツを下げると、脚で蹴り飛ばした。

                     

                    *****

                     

                      ボンドは片肘を付いてドミノの顔を見つめた。 目の下とこめかみに汗が露の様に浮かんでいる。

                      濡れたまつ毛が開いて、あめ色の瞳がボンドを見つめる。

                    「ドミノ、すまなかった。 こんな事しちゃいけなかったんだ」

                    「面白い事を言うのね。 まるで初めてした女の子みたいだわ」

                    「さあ、泳ごう。 それから後で話しがあるんだ」

                      ボンドは立ち上がると、両手を差し出す。 ドミノはしぶしぶとその手を握った。

                    「行こう、水着は要らないさ。 それに足の裏も大丈夫だよ」 ボンドはそう言うと、ドミノの手を取って小屋から出た。

                      そしていきなり走り出すと、海に飛び込んだ。

                     

                      ボンドが渚に戻って来ると、ドミノはもう上がっていて服を着ているところだった。

                      ボンドも小屋に入って体を拭く。

                      ドミノが仕切り壁の向こうから陽気に話しかけてくる。 が、それに応えるボンドの口調は、つい重くなっていた。

                    「ジェームス、どうしたの? 何かあったの?」

                    「ドミノ、実は話しとかなきゃならない事があるんだ。」 ズボンを履きながらボンドは答えた。 「おいで」

                      ボンドは小屋を出ると、少し歩いて木陰に腰を下した。

                      ドミノも隣りに来たが、あまり傍では無かった。

                    「私をいじめるのね。 あなたも行ってしまうの? 話して。 きっぱり言ってくれれば、私も泣いたりしないわ」

                    「ドミノ、もっと悪い事なんだ。 私の事じゃ無く、君のお兄さんの事なんだよ」

                      ドミノが息をのむのが分かった。 「話して」 口元がこわばっている。

                      ボンドはポケットから回収してきた認識票を取り出すと、ドミノに渡した。

                      ドミノは手の中の認識票を見ると、体をこわばらせた。 ボンドから目をそむける。

                    「じゃ、兄は死んだのね。 何があったの?」

                    「嫌な話しなんだが、落ち着いて聞いてくれ。 いいかい?」

                    「ええ、私なら大丈夫よ」

                    「実は大きな事件が起こったんだよ。 それには君の友人のラルゴが深く関わってるんだ。 すごく大掛かりな犯罪でね、もしかしたら何千人という人が死ぬかもしれない。 私は政府の命令で、その事件を調べに来たんだよ」

                      ドミノは冷たい目でボンドを見つめた。

                    「ドミノ、すまない。 君を騙す様な事になってしまった。 しかし、多くの人達の命がかかっているんだ。 これから君に話すのは、その犯罪を食い止める手助けをして欲しいからなんだ」

                    「では私を可愛がったのもその為なのね。 私を思い通りにしたい為なのね。 そして次は兄が死んだと言って、私を脅かすのね」 ドミノはくいしばった歯の間から言葉を漏らした。

                      そして静かに呟いた。 「嫌い。 あなたなんか嫌い。 憎らしいわ」

                    「兄さんはラルゴに殺されたんだ。 実際に兄さんを手にかけたのは別の男だろうが、ラルゴの命令で殺されたんだ。 今日は君にそれを伝えに来たんだよ。 ところが来てみると」 ボンドはチョッと口ごもった。 「君は綺麗だし、私は君が好きだし、君の体が欲しくなっちまったんだ。 決して君を苦しめるつもりは無かったんだよ」

                      ドミノは膝を抱えたまま、足元の砂地を見つめている。

                      ボンドはドミノが何か言い出す前に口を開いた。

                    「ドミノ、聞いてくれ。 出来れば私の事は、少し横に置いといてくれないか?」

                      ボンドはそう言うと、事件の全容を詳しく語った。 ただ、メンタ号の事は伏せておいた。 万一ラルゴに知られたら、厄介な事になってしまう。

                    「ラルゴの“宝探し”の仮面は完璧なんだ。 だから核爆弾がディスコ号に積み込まれるまでは、こっちは手が出せないんだよ。

                      証拠を掴まないまま迂闊に手を出すと、スンナリ逃げられてしまう。 そしたら奴らは、計画を少し後ろにずらすだけさ。 しかも、次はもっと周到にかかって来るよ。 解かるかい?」

                    「ええ、解るわ」 ドミノは一言そう呟くと、ボンドを見上げた。 瞳が冷たく光っている。

                    「それで、私は何をすればいいの?」

                    「ディスコ号に核爆弾が積み込まれたら、その事を知らせて欲しいんだ。 それさえ判れば、こっちはディスコ号を押さえられる」

                    「そんな事私に判りようが無いわ。 それにどうやって知らせるの?」

                      ボンドはガイガーカウンターを取り出した。 「こいつで判るんだ」 そう言うと使い方を説明する。 積み込まれたのが判ったら、船室の灯りを何回か点けたり消したりして合図してくれ、と言った。

                    「バカげてるわよ。 まっ昼間に灯りをパチパチやるなんて不自然だわ。 ダメよ。 核爆弾が積み込まれたのが判ったら、私はデッキに出る事にするわ。 積み込まれない内は、私は船室にこもってる。 あなた達がヨットを見張ってるなら、それで合図になるでしょ」

                    「いいだろう。 君のやり方でやってくれ。 だけど慎重にね」

                    「ええ。 でもラルゴに会って、あいつを殺したくなるのを押さえられれば、だけど。

                      ねえ、あなたがあいつを捕まえたら、あいつが殺される様に手続きしてくれるわよね」

                      ドミノは本気でそう言った。 まるで汽車の座席を予約するみたいに、当たり前の目つきでボンドを見る。

                    「そこまで出来るかどうかは判らないな。 しかし、ヨットの連中は、全員が終身刑は免れないだろう」

                    「それでもいいわ。 死刑になるより苦しむかもしれない」

                      ドミノはボンドの腕に手を置いた。

                    「先週の木曜日は、ラルゴはとてもイライラしてたわ。 私達、お互いに相手の事が鼻に付いてきて、私はそのせいだと思ったの。 独りでイタリアに帰ろうか、と思ったくらいよ。 だけど、ここんとこまた良くなって来て、今夜荷造りして船に乗れって言われた時は嬉しかった。

                      だけどあなたとこんな事になって、私ラルゴに、行かないって言ってやろうとおもったのよ。 ここに残って、あなたの行く所に付いて行こうと思ったのよ」

                      ドミノはボンドを見つめた。

                    「私にそうさせてくれる?」

                      ボンドはドミノの頬に手をあてた。

                    「もちろん。 出来るならそうするさ」

                    「でも、今度はどうなるの? 次はいつ会えるの?」

                      これこそボンドが恐れていた質問だった。

                      ドミノにガイガーカウンターを持たせてヨットに返すのは、危険な賭けだ。

                      もしラルゴに見つかったら、殺されてしまうかもしれない。

                      また、メンタ号が追跡して、ディスコ号を攻撃する事態になるかもしれない。

                      が、ボンドはそんな事は考えない事にした。 いっさいに目をつぶって、ドミノを見つめた。

                    「この事件が片付いたら直ぐに会えるさ。 どこへ行っても君を探し出すよ」

                      ドミノは頷いた。 そして腕時計を見る。

                    「4時半ね。 もう行かなくては。 もう1度キスして」

                      ドミノが立ち上がった。 「ここに居て。 クルマまで来ないで」

                      何分か経ってМGのエンジンがかかる音が聞こえてきた。

                      ボンドはクルマの音が聞こえなくなるまで待ってから、ランド・ローヴァーに向かった。

                     

                      ボンドは小道から海岸通りに出た。 パルマイラ荘の入り口の小道の前を通り過ぎる。 そのまま、警察の見張りが頑張っている空き別荘へ向かった。

                      見張りの無線機で、警察長官を呼んで貰う。

                      長官はレイターからの伝言を伝えてくれた。

                      パルマイラ荘では、召使いからドミノの荷物がディスコ号に運び込まれた事を聞きだしただけで、何も掴めなかったそうだ。  他は、メンタ号があと20分くらいで着く予定なので、プリンス・ジョージ桟橋で会おう、と云うものだった。

                     

                    *****

                     

                      入港ルートを恐ろしい慎重さで入って来た原子力潜水艦メンタ号は、普通の潜水艦の様なグレイハウンド的な精悍さは全く持っていなかった。 ごつくて醜いくらいだった。

                      船首を隠すようにぐるりと防水布を巻き付けた格好からは、とてもレイターが言う潜航して40ノットも出る様なスピード感は窺えなかった。

                    「君はこの船の事をどれくらい知っているんだい?」

                    「そうさなあ、艦長には言えないが、C・I・Aでは基本的な事は教わってるんだ」

                      レイターはそう言うと、建造費や排水量、航続距離などを語った。 「この船がジョージ・ワシントンと同じ装備だとすると、ポラリス・ミサイルの発射管が16基並んでいるよ。 戦争防止にはいい道具だよな。 敵は広い海の中のどこに居るか判らないんだからね」

                    「ポラリス・ミサイルよりも小型の兵器は持っていないのかな? ディスコ号を攻撃する時に使える様な」

                    「船首に6本の魚雷発射管があるよ。 たぶん機関砲や何かも積んでいるだろう。 しかし、そいつを使わす時が問題だよ。 私服の2人の男、しかもその内の1人はイギリス野郎だぜ。 そんな2人の命令で、民間人のヨットを攻撃するなんて嫌がるだろうからなあ。 海軍省から艦長への命令が、俺たちが受けた命令みたいに、はっきりとしたものならいいんだけどね」

                      巨大な潜水艦が桟橋に横付けした。 何本ものロープが桟橋に投げられ、アルミのタラップがかけられた。

                      レイターがボンドの肩をたたいた。

                    「さあて行こうじゃないか。 旦那はお客だ。 拙者がご案内つかまつろう」

                     

                      艦内は意外と広かった。 下へ降りていくのも梯子では無く階段だ。 ボンドとレイターは若い当直士官に案内されて、デッキを2つ降りていった。

                      士官は廊下を進むと、「合衆国海軍中佐 P・ンピダースン」 のプレートがあるドアをノックした。

                      艦長は40歳くらいに見えた。 角ばったスカンジナビア系の顔で目元には愛嬌があったが、口と顎には凄みがある。

                      2人は艦長と握手を交わすと、勧められるままにイスに座った。

                    「では、詳しい話しを伺いましょう」  艦長はそう言うと、レイターに向けて両手を広げた。

                    「こんなにたて続けに極秘とか緊急とか云う指令を受けたのは、朝鮮戦争以来ですよ。 最後の命令は海軍長官から直々に届いたんです。

                      私はあなたの命令に従う事。 あなたが死亡もしくはその任に耐えられなくなった時は、19時にカールスン提督が来るまで、ボンド中佐の命令に従う事、でした。 いったい、何事が起きたんです? 率直に言って、驚きの連続なんですわ」

                      レイターが事件の説明を始めた。

                      艦長は一言も発せずに、じっと聞き入っている。

                      ボンドはこのピダースン中佐の“腹を割った”姿勢が気に入ってしまった。

                      レイターの話しを聞き終わると、艦長はパイプに手を伸ばしてゆっくりとタバコの葉を詰め始めた。

                    「そういう事だったのですか。 これは大変な事件ですな」 艦長はパイプに火を点けた。

                      しばらく黙ったままパイプを吹かす。

                    「あなた方の話しでは、連中が核爆弾を積んだら女が合図をする、そこでこっちが乗り出していってそのヨットを捕らえるなり吹っ飛ばすなりする、そう云う事ですな?」

                      ボンドとレイターは頷いた。

                    「しかし、核爆弾が積み込まれなかったらどうします? また積み込まれたとしても、女の合図を見逃してしまっていたとしたら、どうしますか?」

                    「ヨットを追うんです」 ボンドが素早く答えた。

                    「ピッタリくっついて、ゼロ・アワーまで追います。 法律上、我々にできる事はそこまでなんです。 ゼロ・アワーが過ぎたら、全てを政府に任せます」

                    「なるほど」

                    「今のところ我々は、人殺しをたくらんでる男を見張っている刑事みたいな立場なんです。

                      そいつが拳銃を持っているのかどうかも判っていない。 刑事としては、男が実際にポケットから拳銃を取り出して狙いをつけた時に、始めてその男を捕らえるなり撃つなり出来るんです」

                      ボンドはレイターに振り向いた。 「フィリックス、そんなところだろ?」

                    「ボンド中佐の言う通りです、艦長」 レイターはそう言うと、身を乗り出した。

                    「ラルゴは必ず核爆弾を仕掛ける為に出港します。 奴が黒幕なのははっきりしているんです。 しかも、スペクターが指定したゼロ・アワーまでには、今晩しか残されていません。

                      ですから、こんな大騒ぎになるのを覚悟の上で、あなたの艦に来て貰ったんです」

                    「なるほど」 艦長はパイプを口から離すと、再びそう言った。

                    「ところで艦長、この艦は釜に火が入っていますか? いや、原子力潜水艦では何と言うのか知りませんが、直ぐにでも出港出来る状態になってますか?」

                    「もちろんです。 用意はさせてますよ。 お望みとあらば、5分以内に出港出来ます」

                      艦長はにこやかに答えたが、困惑した表情を浮かべた。

                    「しかしレイターさん、この艦で、どうやってディスコ号を追跡する事が出来るのか、私には見当がつかんのですよ」

                    「どうやって? だってスピードは出るでしょう?」 レイターは思わず義手を振り上げ、慌てて膝の上に戻した。

                    「そりゃ出ますよ。 直線コースならいい勝負が出来るでしょう」 艦長は笑いながら答えた。 「しかし、この辺りは西太平洋の中でも、一番の航海の難所なんです」  艦長はそう言うと、壁の海図を示した。

                    「そのディスコ号がタング海峡とか北西プロヴィデンス海峡なんて海域だけ走ってくれれば、追い駆ける事は充分可能です。 しかし見て下さい、この様にこの海域のほとんどは水深が3尋から10尋くらいしか無いんです。 その上、潮流もありますしね。

                      解りますか? アクティブ・ソナーの反響が来る前に、船腹やスクリューをガリガリやってしまう事になるんです」

                      艦長はゆっくりと首を振った。

                    「そのイタリアの水中翼船と云うのは、実に上手く選んだものですね。 水中翼を使って浅い海を走られたら、たとえ駆逐艦でも追跡は無理です。 お手上げですよ」

                      ボンドとレイターは顔を見合わせた。

                    「フィリックス、艦長にお願いして直ぐにでも出港しよう。 そして北西海峡を突っ走って、バハマのミサイル基地が奴らの第一目標だと云う仮定で張り込むんだ」

                    「畜生、そうするしかあるまい」 レイターは麦わら色の髪をかきむしった。

                    「よし、艦長と一緒に電報を作ろう」

                      突然、スピーカーが声を挙げた。

                    「当直士官から艦長へ。 ボンド中佐に緊急連絡として、警官が来ております」

                      艦長はマイクを取った。

                    「こっちへ寄こしてくれ。 それから、艫綱を解く用意。 全員、出港準備の配置に付け」

                      程なくしてドアが開いて、巡査部長が入って来た。 カチンと踵を鳴らすと敬礼し、真っ直ぐ腕を伸ばしてボンドに封筒を手渡した。

                      −飛行機は1730に帰投。 ディスコ号は1755に抜錨、北西に向かう。 女はデッキに現れない。 現れていない。−

                      ボンドは艦長の頼紙帳を借りてペンを走らせた。

                      -メンタ号は北西プロヴィデンス海峡を経て尾行す。 スーパーセイバーの出動を要請、フロリダ海岸2百マイルの圏内にて哨戒を求む。 米国海軍省へは当メンタ号より報告を入れる。 カールスン提督並びにフェアチャイルド代将は、到着次第連絡されたい。−

                    ボンドは手紙にサインすると、艦長に手渡した。 艦長もサインをし、レイターもサインする。ボンドは手紙を封筒に入れて巡査部長に手渡した。

                    巡査部長は敬礼をしてから綺麗な回れ右をすると、足音を響かせながら出て行った。

                      ドアが閉まると艦長はインターホンのスイッチを入れると、出港を命じた。

                    「さて諸君、出撃です。 この追跡は面白い展開になりそうですな。 では、電報を起こしましょう」

                     

                    *****

                     

                      ディスコ・ヴォランテ号は静かな海面を、滑る様に走っていた。

                      舷窓には暴風用のシャッターをぴったりと下ろしている。

                      サロンでは天井から下がった赤いランプだけが灯っていた。

                      薄暗く揺れる灯りに照らされて、長いテーブルに集まった20人の男達の顔は表情が歪んで見え、まるで亡者の集会の様だ。

                      冷房が効いているのに、ラルゴは額に汗を光らせていた。

                    「緊急事態が起こったので、皆に報告しなければならない」 その声は緊張でしゃがれていた。

                    「30分ほど前に17号がデッキに立つミス・ヴィタリを見かけた。 彼女はカメラをひねくり回していたが、17号が近づくと、パルマイラ荘の写真を撮る仕草をした。 だが、レンズキャップを付けたままだったのだ。 17号は不審を感じて私に報告してきた。

                      私は女を船室に連れていった。 女は抵抗したが、どう見ても怪しかったので、非常手段に訴えて押さえつけた。

                      女のカメラを取り上げた。 調べてみると、そのカメラはインチキだった。 ガイガーカウンターが仕掛けてあったのだ」

                      ラルゴはここで一息ついて、一同を見回した。

                    「当然の事だが、5百ミリレントゲン以上を示していた。 女を尋問したが、口を割らない。 ちょうど出港の時刻だったので、気を失わせてベッドにロープで縛り付けておいた。 みんなに集まってもらったのは、この一件を伝える為だ。 もちろん、既に2号には報告済だ」

                      テーブルの周りで大げさな唸り声が上がった。

                    「それで、2号は何と言ってきたんです?」 ドイツ人の14号が言った。

                    「このまま作戦を続行せよ、だった。 今、世界中は核爆弾を探す為のガイガーカウンターでいっぱいだ、と言っていた。 世界中の秘密警察が血まなこになって、我々を探しているのだ。 たぶん女はガイガーカウンターを持ち込む様、買収されたのだろう。

                      しかし、2号は核爆弾を目標地点に置いてきさえすれば後は心配する事は無い、と言ってきた。 それに、ナッソーとアメリカの無線の交信状態は、通常と全く変わっていない。 よって作戦は予定通り遂行する。

                      目標地点から離脱したら、核爆弾の格納容器は投棄する。 その容器の中にミス・ヴィタリが入るのだ」

                    「しかし、女から真相を聞き出す事も重要なのではないか? 今後の我々の為にも、どういう経緯で疑われたのかは知っておきたい」

                    「もちろんだ。 この集まりが終わったら、改めて尋問するつもりだ。 私の見解では、どうも昨日ヨットに来たボンドとラーキンと名乗った2人の男に関係がある様な気がしている。 彼らは秘密警察の人間だったのかもしれない、と思うのだ。 いずれにしても、明日の朝ナッソーに戻ったら、用心しなければなるまい」

                      テーブルの男達は静かに頷いた。

                     

                    「さて、最後の細かい打ち合わせをしよう」 ラルゴはそういうと、夜が明ける5時の前の2時間で核爆弾を設置する、と言った。

                      午前3時に投錨。 潜水班が半マイル先の目標地点を目指して出発する。 水中車と核爆弾を積んだ水中そりを中心に、打ち合わせの通りの隊形で進む。

                      護衛は鮫とバラクーダに警戒。 水中銃の射程は20フィートまでなので、発射の際は銛の先の鞘を外すのを忘れない様に。

                    「こんな事をくどくど言ったりして、勘弁してもらいたい。 何回となく練習してきてはいるが、夜の海の中は慣れない領域には変わりない。 他に何か質問は?」

                      元スメルシュのメンバーの10号が立ち上がった。

                    「同志諸君、今の1号の話しを興味深く聞かせてもらいました。 確かに作戦は順調に進んでいるんだ、と思いました。 今度の計画は実に見事なもので、おそらく第二の核爆弾を配置する必要は無いでしょう。 我々はあと24時間の内に大きな報酬を手にする事が出来るのです」

                      10号はそう語るとテーブルのメンバーを見回した。

                    「ここで同志諸君、ふと小さな疑惑が浮かびました」

                      ラルゴは上着の内ポケットに手を入れると、小型のコルト25口径の安全装置を外した。

                      何ヶ月も前、まだパリで計画を練っている段階の頃、ブロフェルドはラルゴに、誰かごたごたを起こすとしたらそいつは元スメルシュのメンバーの10号か11号だろう、と警告していた。

                    「陰謀と云うのは奴らの血の中に流れているんだ。 陰謀には常に不安が付きまとう。 あの2人は、いつも自分達だけが別の計画の的にされているのではないか、と考えているのだ。

                     例えば、自分達だけが警察に渡されてしまうのではないか、儲けの分け前の為に殺されてしまうのではないか、という様な事だ。 だから、みんなが練り上げた計画に難癖付けたりする。

                      もし、彼らがチームの中に不信の種を蒔く様な事をしたら、容赦なく、素早く手を打たなければならない。 内部での不信はどんな周到な計画も破壊してしまうからね」

                      10号はとうとうと話しを続けていた。

                    「もうすぐ我々15人は、5人のメンバーと6人の手下をヨットに残して出発するんです」 10号の声が変わった。

                    「その時にだ諸君、もしヨットに残っている連中が我々を残して出発してしまったら、どうなるだろうか?」

                      テーブルの周りではもぞもぞと座り直したり、呟いたりする声が上がった。 10号は片手を上げた。

                    「確かにバカげた事だとは思う。 しかし、かなりの大金が目の前にぶら下がっている今、親友だろうと同志だろうと、つい魔が差すと云う事があり得るのだ。 ヨットの連中は、我々はさっき2号が警戒した鮫やバラクーダに襲われた、と報告すればいいのだ」

                    「それで、10号」 ラルゴは穏やかに声をかけた。 「君の提案は?」

                    「各人種グループから1人をヨットに残すんです」 10号は反抗的な口調で、そう訴えた。 「潜行班は10人に減ってしますが、今言った様な事は起こらなくなります」

                    「10号、君の提案にはいたって簡単で短い解答がある」

                      ラルゴは無表情にそう言うと、右手を突き出した。

                      乾いた銃声が3回。

                      10号は力なく両手を広げたまま、テーブルに崩れ落ちた。

                      ラルゴはゆっくりとテーブルに並んだ顔を見回した。

                    「会議はこれで終わりだ。 全員船室に戻って、装備の点検をせよ。 食堂では夕食の用意が整うはずだ。 酒を飲みたい者は1杯だけやっていい。 ご苦労だった」

                     

                      ラウンジから全員が退出し、ラルゴ1人だけになった。

                      ラルゴは立ち上がると伸びをして、大きなあくびをした。

                      次にサイドテーブルに行き引き出しを開けると、コロナ葉巻の箱を取り出した。

                      1本選ぶと、さも不味そうに火を点ける。 それから、氷が入った蓋付の入れ物を手にした。

                      ラウンジから出ると、ドミノの部屋に向かう。

                      ドアを開けては入ると錠をかけた。

                      この部屋も赤い非常灯が下がっているだけだった。

                      大きなベッドの上にドミノが手足をベッドの脚に縛り付けられて横たわっていた。 じっとラルゴを睨み付けている。

                      ラルゴはベッドに近づいた。

                    「なあ、俺はお前の躰で結構楽しませてもらったぜ。 だがあの機械を誰に頼まれて持ち込んだのか言わないと、お前の躰はうんと痛い目に会うんだ。 道具はいたって簡単なんだよ」

                      ラルゴはそう言うと、葉巻をふかした。 葉巻の先が赤く光る。

                    「こいつは熱い方だ。 そしてこの氷は冷たい方だよ。 俺が使えばお前がいくら強情を張っても無駄さ。 本当の事をしゃべる様になるんだ」

                    「好きにすればいいわ」 ドミノの声は憎しみがこもっていた。

                    「あたしの兄を殺して、次はあたしを殺すのね。 うんと楽しむがいいわ。 でも、あんただってもう死んだも同然なんだから。 その時はあたし達の百万倍も苦しんで死ぬのよ」

                    「そいつは面白い。 では、うんとやんわりと、うんとじわじわとやってやろう」

                    ラルゴは屈み込んでドミノのワンピースに指をかけると、一気にブラジャーごと引き裂いた。 破れた布を剥ぎ取り、女の躰をむき出しにする。

                    そして葉巻の灰を床に落とすと、ベッドの端に腰を下した。

                     

                    *****

                     

                    引き続き【ストーリー編 9/9】へどうぞ

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                    007おしゃべり箱 Vol.54A-9 『原作紹介/サンダーボール作戦〜ストーリー編(9)』

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                      「007おしゃべり箱」は映画007シリーズについてのあれこれをおしゃべりしています。

                       

                      007おしゃべり箱 Talking BOX of 007

                       

                      Vol.54A-9

                       

                      『原作紹介/サンダーボール作戦』

                      Ian Fleming’s THUNDERBALL

                       

                      【ストーリー編 9/9

                       

                      by 紅 真吾

                       

                      【ストーリー編 8/9からの続きです。

                       

                        メンタ号の攻撃指令室は、いたって静かだった。

                        艦長が深度計から離れて、ボンドとレイターの所にやって来た。 笑顔を浮かべている。

                      「深度30尋。 このままグランド・バハマまで突っ走っていきますよ。 向こうには夜明けの1時間くらい前に着くでしょう。

                        どうです? 腹ごしらえしてひと眠りしては? 向こうはこっちと平行して北上しているんでしょう? レーダーにディスコ号が映ったら、こっちは直ぐに潜ります。 あなた達にも警報ベルが聞こえますよ」 艦長はそう言うと、階段に向かった。

                        ボンドとレイターも艦長に続いて階段を降り、通路を通って食堂に入った。

                      「港を出ると、どうも食欲が出ましてな。 ほら、親父が嫌いなのは陸が嫌いで・・・と言うでしょう」 艦長はボーイにメニューを返すと、そう言って笑顔を浮かべた。

                        艦長の陽気なおしゃべりはありがたかったが、ボンドは食事をする気にはなれなかった。

                        ディスコ号がいつレーダー・スクリーンに映るか、気が気では無かったのだった。

                        それに、ドミノの事も心配だった。 彼女を信頼して良かったのだろうか? 彼女は捕まってしまってやしないだろうか?

                      「艦長、お話しの腰を折ってすいませんが、バハマ沖でディスコ号に追いついた時の対応を話し合っておきたいと思うんです」

                      「ほう、いいですよ。 ディスコ号に対してはどうするおつもりなんです?」

                      「艦長は砲撃するとか、接舷して乗り込むとか、お考えでしょうか?」

                        艦長のグレイの目が戸惑いの色を浮かべた。

                      「そういう事はあなた方に任せていたつもりだったのですがね。 海軍省からの命令は、あなた方の命令に従え、という事でしたからね。 こっちはタクシーの運転手ですよ。 この艦を危険にさらす様な事以外なら、何でも命令に従いますよ」

                        艦長はここでニヤリと笑った。

                      「とは言ってもこの作戦の重要性を考えれば、危険だ何だと言ってもいられないでしょうな。 さっき司令室で言った通り、こっちの電報については了承の返事を受けてますし、我々の行動も全面的に認めてもらってます。 必要な許可は全て下りているんです。 今度は何をするんです? 遠慮無く言って下さい」

                        ここで料理が来た。 が、ボンドは卵をつついただけで皿を押しやり、タバコに火を点けた。

                      「私の考えでは、奴らはグランド・バハマの沖合1マイルくらいの場所で錨を降ろして、核爆弾は半マイル程先に運ぶんだと思っています。 12時間の時限装置を付けてね。

                        その後は夜明けと同時に一目散にナッソーに戻るでしょう。 フィリックス、君はどう思う?」

                      「君と同じだよ。 俺がラルゴだったらそうするね」

                      「なるほど。 海図から見ても沖合1マイルと云うのはギリギリでしょうな。 それ以上近づいたら、ミサイル基地の警備艇が飛んで来るでしょうからね。 しかし、どうやって核爆弾を目標の近くまで運ぶんです?」

                      「実はディスコ号の船腹には喫水線の下に大きなハッチがあるんです。 そこから水中そりみたいな道具を使って、潜ったまま運ぶと考えてます」

                        艦長はゆっくりと頷いた。。

                      「そう云う段取りですか。 そうなると、我々はどうすればいいんです?」

                      「現行犯で押さえるタイミングは、すごく短いと思います。 あまり早く手を出すと、逃げられてしまいます。 かと言って百尋の海底に核爆弾を沈められた後では、どうにもなりません。

                        奴らを押さえられるのは、奴らの潜水チームがヨットから出て核爆弾を仕掛けに行く途中だけです」

                        艦長は目の前の皿を見おろした。 ナイフとフォークをきちんと揃えて並べると、顔を上げて、先ずレイター、次にボンドを見つめた。

                      「ボンド中佐、あなたの意見はもっともだと思いますな。 さて、この艦には循環式アクアラングは揃っています。 それに潜水艦隊きっての泳ぎの達人も10人以上乗ってます。 ただ、海底で戦う武器としては、ナイフくらいしか無いでしょうね。

                        これは志願兵を募らねばなりませんな。 それで、ボンド中佐はどうするんです?」

                      「私が指揮を執って向かいます。 部下の人達と打ち合わせをさせて下さい」

                        レイターがボンドの肘をつついた。

                      「この俺を置いてきぼりにしようなんて考えてないだろうな。 この義手に取り付ける特注の水かきがあるんだぞ。 腕の1本や脚の1本無くたって、重宝な道具が揃ってるんだからな」

                        艦長は2人に笑顔を向けるとイスから立ち上がった。

                      「まあまあ、お2人が勇ましがってケンカしてる間に、私は準備を進める事にします。 どうやらお2人共たいして眠れなくなりそうですな。 では」

                        艦長は片手を上げると、食堂から出て行った。

                      「ジェームス、こっちも仕事だ。 海の中で、しかも薄暗い海底で、どうやって敵味方の区別をつける? そのナイフとやらは槍に出来ないかな? とにかく、うんとガッチリ作戦を立ててかからなきゃならないぞ。

                        あのピダースンはいい男だよ。 こっちの手抜かりで部下を犬死させるなんて出来ないからな」

                        その時、スピーカーから艦長の声が響き渡った。

                      「そのまま聞け。 こちらは艦長だ。 本艦は海軍省の命令により、実戦同様の訓練を行っている。 しかし作戦の過程で、危険な事態にぶつかる可能性が出て来た。 これより作戦の目的と本艦の役割を伝える・・・」

                       

                        当直士官のベッドで眠っていたボンドは、けたたましい警報のベルで目を覚ました。 「急速潜行、急速潜行」

                        ボンドはベッドから飛び出すと、傾いた通路を走って司令室へ向かった。

                        レイターは既に来ていた。

                        海図台から振り返った艦長は、緊張した表情を浮かべている。

                      「ボンド中佐、あなたが言った通りになってきてます。 ヨットを捕らえましたよ。 右舷2度の5マイル前方です。 30ノットくらいで進んでますな。 この辺りでそれだけの速度が出せるのはディスコ号しかありませんから、まず間違いありません。 しかも向こうは灯りを全て消して航行してます」

                      「針路は?」

                      「グランド・バハマの南端に向かってます。 ところで・・・」 艦長は白いズックのズボン姿の逞しい男に手を振った。 「ファロン兵曹です。 彼が潜行チームのリーダーを務めます」

                      「よろしく兵曹」 ボンドはファロン兵曹に手を差し出した。

                      「泳ぎの達人はみんな志願してきました」 艦長が言った。 「彼がその中から海中の白兵戦に相応しいと思われる9人を選んだんです。 工作室に集まってます。 それに飛び出しナイフを1ダースばかり集めましたよ。 工作室で握りの部分を加工してほうきの柄に取り付けさせてます。

                        この調子では、出撃も近いでしょうな。 今の内に打ち合わせをしといた方がいいでしょう。 ファロン兵曹、お2人を工作室へご案内しろ」

                       

                        工作室には様々な機械が並んでいた。 グレイの作業服を着た2人の男がグラインダーを回してナイフの刃を鋭く尖らせている。

                        壁際に海水パンツ1枚の、日焼けした逞しい9人が固まっていた。

                        紹介が済むと、ボンドは彼らが持っている槍を手にして見た。

                        手製とは言え、長いがっしりした棒の先に錐の様に尖ったナイフががっしりと針金で固定してある。 これなら、たとえ鮫の皮でも突き破れるだろう。

                        しかし、敵は間違い無く水中銃を持っている。 奇襲が成功のカギだ。 しかし日焼けしているとはいえ、半裸の姿は海中では目立つだろう。

                      「この艦には黒いウェットスーツは積んでいないのか?」 ボンドはファロン兵曹に尋ねた。

                      「もちろんあります。 こんなヤシの浜辺あたりばかり航行してるわけじゃありませんからね」

                      「全員にそいつを配ってくれ。 それから背中に白か黄色で大きく番号を書くんだ。 そうすれば、誰だか少しは見当が付く」

                      「すぐやりましょう」 兵曹はそう言うと、部下に命じた。

                        次にボンドは9人を集合させた。

                      「みんな聞いてくれ。 これから海の中で白兵戦を闘う事になる。 本当の実戦だ。 負傷者も出るだろう」 ボンドは1人1人の顔を見つめた。 「気が変わった者はいないか?」

                        9人はニヤリと笑ってボンドを見返す。

                      「ありがとう。 海中では私が先頭を進んで、このレイターが2番目、ファロン兵曹が3番目を進む。 みんな前の番号に続いて、迷子にならない様にしてくれ。

                        その隊形で水深10フィートくらいのところを4分の1マイルか半マイル泳いでいく」

                        ボンドはそう言うと、この辺りの海底の様子や大きな魚が寄って来た時の対処の仕方を説明していった。

                      「万一不肖した場合は、戦闘の場から下がって珊瑚の上とか浅いところに上がって休んでいる事。 銛を撃ち込まれたら抜こうなどとしないで、助けが来るまでそのままにしておく。

                        ファロン兵曹、信号弾を持って行ってくれ。 攻撃が始まったら、すぐにそいつを撃ち上げろ。 艦長が艦を浮上させてボートに武装班や救護班を乗せてくる合図にするんだ。 さて、何か質問は?」

                      「海中での合図ですが、マスクが具合悪くなった様な時は?」

                      「緊急の場合は、全て親指を下に向けるのが合図だ。 大きな魚が寄って来た時は、腕を真っ直ぐに突き出す。 親指を上に向けるのは、“了解”とか“応援に行く”とかの合図だ。 必要なのはそれくらいだな」

                        みんな神妙な顔で聞いていた。 ボンドは笑顔を作った。 「それから、足を上げたら“やられた”って合図だ。

                        9人が笑い声を上げた。

                        その時、スピーカーがパチンと音を立てた。 「潜行班は脱出ハッチへ、潜行班は脱出ハッチへ。 ボンド中佐は司令室へどうぞ」

                       

                      *****

                       

                      「驚きましたよボンド中佐、あなたが言った通りになってます」 ピダースン艦長が興奮気味に言った。 「ヨットは10分ばかり前に錨を下ろしたんですが、それ以来ソナーに妙な音が入ってましてね。 海中で何か動かしているとしか思えない様な音です。 潜行班は出発した方がいいでしょう」 艦長はそう言うと、ボンド達が出発したら直ぐに潜望鏡深度まで浮上して、海軍省やミサイル基地に連絡を入れる、と言った。

                      「それから、ファロン兵曹には信号弾をもう1つ持たせましたよ。 味方が不利な場合は2発目を上げる様、指示しました。 そんな事にはならないと思いますが、こういった状況では大事を取らざるを得ませんからね。 とにかく、攻撃がはじまったら、こっちは浮上してディスコ号に4インチ砲で1、2発喰らわして部下を乗り込ませます。 そして核爆弾を押さえますよ」

                        艦長はボンドに手を差しのべた。

                      「ボンド中佐、幸運を祈ります」

                       

                        ボンドは圧縮空気の噴出と共に、脱出ハッチから打ち上げられた。 ゆっくりと海面まで上がってみる。

                        ディスコ号は灯りを消したまま、左1マイルたらずの先に停まっていた。 船の上は静かなままだ。

                        北の方角の1マイルばかりの所に、グランド・バハマの長い輪郭が見えた。 ミサイル発射台の先端で、赤い標識灯が点滅している。

                        ボンドは方角を見定めると、潜って一行が揃うのを待つ。

                        最後の男が上がって来たのを確認したボンドは、腕を振って出発の合図をした。

                        片手は体に沿って伸ばし、槍を持った手は胸にぴったりと付けて、テンポ良く泳いでいく。

                        全員がくさび状に散開して、まるで巨大なエイの様だ。

                        海底がだんだんと浅くなってきた。 砂地や岩場がはっきりと見えてくる。

                        ボンドは進路の目標にしていた岩の頭の銀色に波打っていたところを探した。

                        左の方に見えた。 少しそれてしまっていた。

                        ボンドはそっちに向き直ると、その岩陰に近寄った。

                        波が引いた後に用心深く頭を出す。

                        先ずディスコ号に目を向けた。 相変わらず静かに停まっている。

                        ボンドは海面をじっくりと見ていく。

                        百ヤードばかり先の礁湖の様な海面に、頭が1つ現れた。 素早く辺りを見回すと、直ぐに沈んだ。

                        ボンドは自分の心臓が早鐘の様に高鳴っていくのが解った。

                        海に潜ると後ろに向かって、親指を何回も上げてみせる。 そして槍を攻撃態勢に持ち変えて、暗礁の間を進んで行った。

                        50ヤード程進んだところで、後ろに向かって散開する合図を送った。 そのまま岩の間をぬって前進する。

                        いた!

                        ボンドは腕を大きく振って攻撃の合図を送ると、槍を前に突き出して突進した。

                       

                        ボンドの一行はスペクター一味の側面からぶつかっていったのだが、これは失敗だった。

                        向こうはびっくりするくらいの速さで進んでいた。 背中にクルクルと回るスクリューを付けている。 圧縮空気の推進器だ。

                        足ヒレの動きと合わせて、普通に泳ぐ倍くらいの速さだ。

                        こちらが進路を断とうとしても、さっさと逃げられてしまいそうだった。

                        それに、敵の数もやけに多かった。 ボンドは12人まで数えたが、勘定をやめてしまった。 ほとんどが水中銃を持っている。 分が悪かった。 連中が気付く前に槍が届く位置まで近づかねば!

                        ボンドは後ろを見た。

                        腕を伸ばしたくらいの間隔で6人続いていて、他は曲線を作って拡がって懸命に泳いでいる。

                        まだ連中の顔は正面を向いたままだった。 奴らはまだ気付いていない。

                        ボンドが連中の後衛と平行くらいになった時、月がボンドの影を前方のほの白い砂地に投げかけた。

                        1人、また1人と振り返る。

                        ボンドはサンゴ礁の角を蹴って、思いっ切り前に飛び出していった。

                        向こうの男は身を守る隙は無かった。 ボンドの槍が男の脇腹を突き、並んでいた男を突き飛ばす。

                        もう1人、ボンドの前で顔を押さえて倒れた男がいた。 偶然突き出したボンドの手が、そいつのマスクのガラスを割ったのだ。

                        そいつは慌てて海面に上がろうともがいて、ついでにボンドの顔を蹴り飛ばしていった。

                        銛がボンドの脇腹をかすめていった。 もう1本飛んできたが、よける事が出来た。

                        いきなり後ろから頭を殴られた。 思わずクラクラして、近くの暗礁にしがみついて体勢を立て直す。

                        あっちこっちで乱闘になっていて、海中一面に黒い血煙が上がっていた。

                       

                        戦場は環礁に囲まれた、澄んで見通しの良い広い海底に移っていた。

                        向こうの方に長い蔽いをかけた水中そりと、魚雷みたいな水中車が見えた。

                        何人か固まった中に、ひときわ大柄なラルゴの姿も見える。

                        ボンドはサンゴ礁の陰に身を隠しながら、回り込んで行く。

                        すぐ向こうで、男が水中銃の狙いを付けていた。

                        銃の先にはレイターが居た。 レイターは男に苦戦していた。 喉を掴まれている。

                        ボンドは飛び出すと、槍を投げた。

                        きっ先が男の腕に突き刺さる。

                        銛は見当違いの方向へ飛んでいったが、そいつはボンドに向かって銃の台尻を振り上げてきた。

                        ボンドは男の脚に飛びかかり、上にはね上げる。

                        台尻で脳天を殴られたが、相手のマスクを掴むと思いっ切り引き剥がした。

                        男は手探りで海面に上がっていく。

                        ボンドは腕をつつかれているのに気付いた。 レイターが片手でチューブを掴んでいる。

                        マスクの中のレイターの顔がゆがんでいた。

                        ボンドはレイターの腰を抱えると、15フィート程上の海面に押し上げた。

                        直ぐにレイターの隣りの海面に出る。 レイターはマウスピースを口から吐き出して、激しく息をしていた。

                        ボンドはレイターの躰を支えながら、浅い岩の上に連れていく。

                        レイターは咳き込みながら、「俺にかまうな!」と、叫んだ。 「早く行け!」

                        ボンドは親指を上げると、また潜っていった。

                        暗礁の陰に体を隠して、水中そりに近寄っていく。

                        あっちこっちで敵と味方が入り乱れていて、海底には水中銃や空気ボンベが散らばっていた。 ボンドは銛を2本拾って、サンゴ礁の陰から水中そりに近づいた。

                        カバーをかけた水中そりの横で、手下が2人水中銃を構えて守っている。

                        しかし、ラルゴの姿が見えない。

                        ボンドは辺りを見回した。 付近の様子からは、ボンド達の奇襲がどうなったのか、見当が付かない。

                        メンタ号からの応援はどれくらいで来るだろうか?

                        このままここで頑張って、核爆弾を見張っていた方がいいだろうか?

                        突然、右の方のもやの中から水中車が現れた。

                        ラルゴが座席に馬乗りになっている。

                        それを見た見張りは水中銃を捨てると、水中そりの連結器を差し出した。

                        ラルゴは速度を落として水中そりの上に降りていく。

                        奴らは逃げる気だ!

                        ラルゴは核爆弾を礁湖の外に運んで、深い所に沈めてしまうつもりなのだ。

                        ボンドは距離を見定めると、岩を蹴って飛び出した。

                        ラルゴはきわどいところで振り返って、ボンドが突き出した銛をかわした。

                        ボンドが銛を構え直すのと、ラルゴが操縦桿を動かすのが同時だった。

                        水中車は、ボンドと2人の見張りを残して進み始める。

                        ボンドは大きく水を蹴って、ラルゴのボンベにしがみついた。

                        水中車は2人を乗せたまま海面に向かって上がっていく。

                        ラルゴの肘打ちが何回もボンドの顔を襲った。

                        ボンドは片手を放して、ラルゴの腎臓を殴りつける。

                        2人が乗った水中車は、礁湖から出たあたりで海面に飛び出すと、頭を勢いよく海面に打ち付けた。 が、直ぐにボンドの重みのせいで、後ろが沈んで頭が持ち上がる。

                        ラルゴが振り返って両手で襲って来るのは、時間の問題だった。

                        ボンドは覚悟を決めてラルゴのボンベから手を離すと、水中車の舵に手をかけた。 思いっ切り力を込めて引っ張る。

                        水中車は海面から垂直に立ち上がった。

                        今度は両手で舵をひねり上げて、舵をもぎ取った。

                        水中車は目まぐるしく揺れて、ラルゴの躰が撥ね飛ばされた。

                        水中車が大きく傾いて、ボンドも振り落とされた。

                        ボンドは完全に疲れ切って、参っていた。

                        水中車は海面をグルグル回るだけだから、もう核爆弾は運び様が無い。

                        ラルゴの目論見も、これでお終いだ。

                        ボンドは残った力を振り絞って、隠れていられそうな岩場を目指した。

                       

                        ボンドの後ろをラルゴが追っていた。 海面をテンポ良くクロールで泳いで来る。

                        ボンドはサンゴ礁のすき間に入っていった。

                        頭上をラルゴの影が追って来た。 奴はわざわざ狭い岩の間に入っては来なかった。

                        ボンドは肩を回して、もっと元気を出そうとした。 だが、あのばかでかい手にどうやって勝てる見込みがあるだろうか。

                        しかも、もぐり込んだ狭い水路が広がってきている。 行く手に砂地の海底が広がっていた。

                        ボンドは立ち往生してしまった。

                        しかし、少なくともここに居ればラルゴは捕まえに入って来られない。

                        ボンドは上を見た。 ラルゴは開けた砂地の上まで泳いでくると、するりと潜って来た。

                        砂地の上で、ボンドに立ちはだかる。 そして、ゆっくりとサンゴ礁の間を進んで来た。

                        10歩くらいでラルゴは足を止めた。 右手がさっと動いて、サンゴのくぼみから何かを引き剥がした。 手にしたのは小さなタコだった。

                        ラルゴはそのタコを突き出しながら、もう一方の手で意味ありげに自分のマスクをたたいてみせる。 マウスピースを咥えた口が笑っていた。

                        ボンドは屈み込んで海藻に覆われた岩を拾った。

                        マスクにタコを張り付けられるよりも、岩で叩き割ってやる方が効くだろう。

                        しかし、ラルゴの方が手が長い。 さあ、どうする?

                        ラルゴが一歩前にでた。 ボンドは頭を下げて、用心深く後ろに下がった。

                        ラルゴはゆっくりと近づいて来る。 あと2歩で飛びかかって来るだろう。

                        その時、ラルゴの後ろに人影が現れたのが見えた。 誰か救援に来てくれたのか?

                        だが、人影はウェットスーツ姿では無かった。 敵の1人だ。

                        ラルゴが飛びかかって来た。 ボンドもラルゴの股ぐらに飛びかかる。

                        ラルゴは膝でボンドの頭を蹴り上げた。 のけぞったボンドのマスクにタコを張り付ける。

                        それから両手でボンドの頸を締めあげた。

                         ボンドには何も見えなかった。 タコの足がマウスピースを引っ張るのが感じられた。 しかし、頭に血が上って、もうダメだと分かった。

                        ゆっくりと膝が落ちていく。

                        しかしなぜ、体が沈んでいくんだ? 頸を締めていた手はどうなった?

                        タコは胸に下りて来ると、パッと岩の間に逃げて行った。

                        目の前にラルゴが居た。

                        喉に銛を突き立てられている。 足ヒレで弱々しく砂地を蹴っていたが、ゆっくりと倒れていった。

                        その向こうに白い人影が見えた。 長い髪が海中に漂っている。

                        ボンドはゆっくりと立ち上がった。 が、急に意識が遠くなっていく。

                        いかん! ボンドはサンゴ礁に寄りかかったが、口元からマウスピースが外れたのが分かった。 海水が口の中に流れ込んでくる。

                        ボンドの手をドミノが握った。

                        だが、マスクの奥のドミノの目も虚ろだった。

                        ドミノも体がおかしいんだ! ボンドは急に目が覚めた。 なんとかしなければ、ここで2人共死んでしまう。

                        ボンドは脚を動かした。 足ヒレがゆっくりと水をかく。

                        ドミノの足ヒレも少しずつ動き出した。

                        2人の体は、一緒に海面に浮かび上がった。

                        ボンドは近くの岩場を目指して行く。

                        すでに夜は明けかけていた。 水平線近くの空がピンク色になっている。

                        今日もいい天気になりそうだ。

                       

                      *****

                       

                        フィリックス・レイターは消毒液臭い部屋に入って来ると、そっとドアを閉めた。

                      「どうだい、相棒?」 レイターはそう言いながら、薬で朦朧としているボンドのベッドまで歩いて来た。

                      「悪く無いよ。 薬を打たれただけだ」

                      「君は面会謝絶になってるんだがね、結果を聞きたがってると思ってね。 いいかな?」

                      「もちろんだ」 ボンドはそう答えたが、核爆弾の事などどうでも良かった。 ドミノの事だけが心配だった。

                      「手早く話そう。 回診中の医者が戻って来て見つかったら、えらい事になるからな。

                        核爆弾は2つ共取り返したよ。 物理学者のコッツェが小鳥みたいにさえずってる。

                        それにしてもスペクターと云うのは、かなり大物揃いの組織らしいな。 スメルシュに居た奴とか、元ゲシュタポやマフィアなんかがメンバーだ。 本拠はパリで、頭目はブロフェルドと云う男だそうだ。 そん畜生は逃げちまったけどね。 恐らく、ラルゴから連絡が途切れたんで、失敗を悟ったのだろう。 相当な天才先生に違いないな」

                      「それで、一件落着というところかい?」 ボンドは弱々しく笑顔を浮かべた。

                      「もちろんさ。 でも俺たちは別だぜ。 ずっと無線機が鳴りっぱなしだよ。

                        でも今夜の飛行機で、C・I・Aのお偉方とそっちの一連隊がやって来る事になってるんだ。 そしたら、後は皆さんにお任せして逃げ出そうぜ。 どっかで俺たちだけのパーティーをやろう。 旦那は例の女を連れて来いよ。 そうそう、あの女の子は勲章ものだよ。 大したもんだ。

                        ガイガーカウンターが奴らに勘付かれちまったんだ。 で、ラルゴって畜生が彼女をどんな目に合わせた事やら。 それでも彼女は口を割らなかったんだ。 おまけに彼女は舷窓から這い出して、アクアラングを着けて水中銃を持って、ラルゴを追って来たんだ。 ラルゴをやっつけて、ついでに旦那の命を助けたんだぜ!」

                        レイターは興奮してしゃべっていたが、急に口をつぐんだ。 聞き耳を立てると、滑る様にドアに向かう。

                      「待ってくれ、フィリックス」

                      「ジェームス、また来るからな」 レイターはそう小さく叫ぶと、するりとドアから出ていってしまった。

                        ボンドは腹が立って来た。 彼女の事さえ話してくれればいいのだ。

                        ドアが開いた。

                        ボンドは入って来た白衣の人物に怒鳴り声を上げた。 「女は? 彼女はどうなんだ?」

                      「ミス・ヴィタリは大丈夫ですよ」 医師がゆっくりと答えた。 「今は十分な休養が必要なんです」

                      「どんな状態なんです?」

                      「かなり体力を消耗してます。 そんな肉体的緊張に耐えられる状態では無かったんです」

                      「なぜ?」

                        医師はボンドの質問には答えずに、ドアに向かった。

                      「あなたも十分な休養が必要です。 うんと眠って下さい。 そうすれば、すぐに起き上がれる様になりますよ。 ただ今のところは無理をしてはいけませんな」

                        無理をするな、だと? ボンドは怒りがこみ上げて来た。 ベッドからよろよろと下りる。 クラクラとめまいがしたが、ボンドは医師に詰め寄った。

                      「無理しちゃいけないだって! 何言ってんだ! 女がどうなってるか教えてくれ!」

                        医師はこんな興奮する患者の扱いには慣れていた。 別に慌てもせずに笑顔を浮かべた。

                      「誰かがあの人を酷い目に合わせたんですよ。 たくさんの火傷で苦しんでいます。 しかし、体の方は大丈夫です。 隣りの4号室で休んでいます。

                        そうですね、会ってもいいですが、ちょっとだけですよ。 あなたに会えば彼女も安心して眠るでしょうし、あなたもゆっくりと眠れるでしょう」 医師はそう言うとドアを開けた。

                      「ありがとう、先生」 ボンドはフラフラした足どりで部屋を出た。 4号室とプレートがあるドアを開ける。

                        ベッドの側まで歩いていくと、枕の上の小さな顔がボンドに向いた。

                        ボンドは膝を付いてドミノをのぞき込んだ。

                        ドミノの手が伸びて来て、ボンドの髪を掴んだ。 ボンドの頭を引き寄せる。

                      「ここに居て。 わかる?」

                        ボンドが返事をしないので、ドミノはジェームス、と呼び掛けた。 「聞いてるの?」

                        ボンドの体がズルズルと床に滑り落ちていった。

                        ドミノは用心深く体の位置をずらして、ボンドをのぞきおろした。

                        ボンドは肘を枕にして眠り込んでしまっていた。

                        ドミノは小さなため息をつくと、枕をベッドの端に引っぱった。 そして、いつでもボンドの顔が見える様にすると、枕に頭を下ろして目をつぶった。

                       

                      *****

                       

                        以上は、ハヤカワ・ミステリ文庫〈HM11-3サンダーボール作戦 井上一夫訳(敬称略) を、私が読んだ上での要約・抜粋です。

                        「あらすじ」としてまとめる関係上、一部翻訳内容とは異なってしまった部分があります。 この部分は私=紅真吾の創作である事を明記致します。 加えて、井上一夫氏の翻訳に対して、他意は無い事を申し上げます。

                        また、小説ではブロフェルドが作り上げた国際犯罪組織は<スペクトル>でしたが、今では一般的となっている<スペクター>としました。

                        また、以前の作品でもそうでしたが、フリックス・イターは同様にフリックス・イターとしました。

                       

                        文末になってしまいましたが、イアン・フレミング氏による小説の発行にご尽力下さいました株式会社早川書房の関係者の皆様、並びに翻訳下さった井上一夫氏に対して、あらためて感謝申し上げます。

                        読者諸兄よ、こうして原作のアウト・ラインが分ったのですから、是非とも原作を手にして頂きたいと思います。

                       

                      では、引き続き『原作紹介【解説編】』をどうぞ。

                       

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                      著者自画像

                      profilephoto 007映画の熱烈なファンです。 それ以上でもそれ以下でもない、と自負しております。

                      記事の種別は、ツキイチ掲載の「Vol.シリーズ」と適宜掲載の「番外編シリーズ」と作品紹介の「特別編」の3種です。

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                      月別の掲載記事数。(『007おしゃべり箱』は'12年10月に開始しました)

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